今の自分に出来る事
手に取ったガラス瓶の幅広なコルクを開ける。コルクというのがまたなんともお洒落な感じがする。そしてまた、ふわりと鼻腔を刺激してくる柑橘系の香りはなんとも堪らない。
スプーンで掬い上げると、それは山吹色に照り輝く。そこはかとない高級さを感じてしまうではないか。
重力に従ってゆっくりと落ちる液体を受け止めるのは、トーストというよりは、カットされたバケット。微かに焼き目のついた断面がまた憎い存在だ。
熱を持つバケットに塗られる山吹色のマーマレード。ちなみに、初めはマーガリンやバターは塗らない。なぜか、そうしてはいけないような気がした。
ゆっくりと口へと運び、ひとかじり。
「…………」
自然と目を瞑り、咀嚼する事にのみ集中する。いや、してしまうというのが正しいだろう。
外側のサクリとした軽い歯触り、香ばしさの直後に広がるのは……そう、楽園だ。
内側にある柔らかな生地の確かな熱が、オレンジの風味を口内に運ぶ。程よい甘酸っぱさが舌を軽く撫で、もちもちとした生地と混ぜ合わさっていく。
小麦の優しく広がる風味とオレンジの爽やかな風味。それは互いを邪魔する事なく、鼻からゆっくりと抜けて――
「……すごく、美味しい」
どこか懐かしく思える味に、俺はそう呟いていた。美しい味、まさに美味しいである。
「気に入っていただけて何よりです」
俺の様子にノワイエは安堵と喜びの混ざる声で応えた。自分の手で作った物だから不安もあったのだろう。昨夜もそうだが、この手腕は恐ろしいとも思える。
特にこのマーマレード辺りは、母さんが作って喫茶店でも出しているそれと比べても遜色ないレベルなのだ。一応ながらプロの一品と並ぶ物を俺と同い年のノワイエが作ったなんて……
「あの、そんなに急いで食べなくても……」
「もがっ……ごめん。美味しいからつい……」
思考の傍らであれ、手を休める事は出来ないよコレは。
結局、朝だというのにバケット一本分とマーマレードの瓶を半分ほど平らげてしまった。俺の胃袋が自重してくれなくてヤバい。
「ご馳走様でした。よし、それじゃ皿洗いから手伝うよ」
「いえ、大丈夫ですから京平さんは座っててください。食べた直後に動いたらお腹にも悪いですし……」
開いた食器は持った直後にさらわれてしまった。実に手早い、そして何より俺情けない。
皿洗いくらいなら喫茶店の手伝いで鍛えられてる筈なのだが――
「不浄を流せ、もたらせ清浄。体現せよ『浄化の水』!!」
「ふぉ……!?」
流し台へと洗い物を運んだノワイエが告げた直後、脇に置かれた水瓶から一抱えはあろう水球が浮かび上がった。
ふよんふよんと歪みながら浮かぶ水は幻想的で、その中に食器が漂っている。何となく洗濯機を透明にして中身だけを見る事が出来たのならこんなものなのだろうか、と思わせる光景だ。
「これも生活厨二術なんですよ?」
「へぇ、ソウナンダ」
少しだけ得意気な声色のノワイエに、俺は腕をさすりながら頷く。なんとなくそうなんだろうとは思ってたけどね!! 聞きたくはなかったよ!!
浮かんだ水は恐らく中で対流しているのか、見る見るうちに食器が綺麗になっていく。だが、俺は驚く事に気がついた。
「あれ、水が汚れてないんじゃないか?」
「これが普通の水洗いと私の厨二術の違いですよ」
通販番組のようなドヤ顔でもしていそうな声で、ノワイエは水から食器を取り出す。あ、それは手動なんですね。
とはいえ、汚れはどこに消えたのか。見えないレベルに分解とかそういう次元の話ではないと思う。役目を終えた無色透明なままの水はそのまま水瓶へと帰る。
「では、次は洗濯ですね」
「あ、俺が持つよ」
よいしょ、と水瓶を持とうとするノワイエを制して持ち上げ……む、意外に重い。
「あ、ありがとうございます……」
「このくらいは手伝いたいから、ね。どこに行けばいい?」
というか。わざわざ水瓶に水を戻さずにそのまま動かせば良かったのではなかろうか? いや、考えるな。そのおかげで手伝う事が出来るのだから。
「そこの角にある扉から外に出られますので……あっ」
「了解。そっちだな?」
洗濯籠を抱えたノワイエの言葉に倣い、ドアを開ける。お互いに両手が塞がってしまっていたが、近くに置いてから開ければ問題ない。
だが、俺は知らなかった。
知らなくて当然で、知らなければならない現実がそこにあった事を。