黒と白
柔らかな朝日が差し込むいつものリビング。ゆらりと湯気を登らせるマグカップと、食欲を擽るバターの塗られたトースト。
俺のお気に入りであるオレンジの小瓶を取ろうとした瞬間に、それは横からひょいとさらわれた。
「……まったく、どんな夢なんだか」
呆れたような、それでいて心配してくれるような声色で、俺の妹である少女、佐居 灯衣菜はオレンジ色の小瓶に入っている自家製のマーマレードを自らのトーストに塗り付けた。
こら、そんなに塗ったら俺の分が無くなるだろうが。
目算で通常の倍は消費されたマーマレードは、テーブルに置かれる事なく隣へと移動される。
「残念だったなキョウ。 俺だったら、そんな世界に行けたら好き放題大暴れしてやるのによ」
「確かに、臥威には持って来いの世界ね。 でも私を置いて行っちゃ嫌よ?」
快活に笑む親父の隣では、母さんがお淑やかに笑っていた。 結婚十何年と経っても、仲の良い2人は自分の子ども達の前でも自重しない。
何よりもマーマレードを塗る量も自重しない。親父が灯衣菜より遥かに多い量を奪い去り、更に倍を母さんがかっさらう。
恐らくあれでは俺の分は雀の涙ほどしかないだろう。ピーナッツバターに甘んじるしか術はないのか、いやピーナッツバターも好きだけどさ。
目の前に広がるそんな日常。俺は家族といつものように朝食を取っていた。
「馬鹿夫婦……」
灯衣菜が先程の何倍も呆れた視線を投げかけた所で、まったく意味はない。 灯衣菜自身もそれをよく解っている為、直ぐに諦めてトーストをかじり、俺もそれに倣うように口に運んだ。
望むべき世界がそこにあった。 気が付かないくらい些細な幸せがそこにあった。
それなのに、俺だけは笑う事が出来なかった。 日常から1人だけ切り離されたように、見ているだけしか出来なかった。
口に感じるであろう味が広がらない事を知ってしまったから。
――これが優しい夢だと。
声を出したくても出せない事を知ってしまったから。
――知らずにいたら良かったのに。
「兄さん……?」
いつの間にか、柔らかな光を纏っていたリビングは真っ暗闇に塗り潰され、家族の姿だけが浮かび上がっていた。
――日常が、終わる。
寂しげな表情を浮かべた灯衣菜が、暗闇の中へと消える。
――行かないでくれ、灯衣菜。
「京平……」
優しく微笑む母さんが、暗闇の中へと消える。
――母さん……
「キョウ……」
こんな時でも力強い笑顔をする親父でさえも、暗闇へと消える。
――親父……
暗闇に閉ざされた世界で、俺は笑う事も、怒る事も、悲しむ事も出来ぬまま……
目を開くと、見慣れない模様をした天井が広がっていた。どれだけ見た所で変わるはずのない天井をただ見つめる。
俺の知らない場所なのに、窓から流れ込む風の温度だけ覚えがある。朝特有の涼しげな風が頬を撫でた。
これが泊まり掛けの旅行であったなら、まだ気の持ちようも変わっただろう。
まるで潮の満ち引きに取り残された潮溜まりのような気分だ。自分でもよく解らないけど、そんな気分だ。
時刻は何時だろうか。すっかり日は昇ったらしい、日差しの入る部屋でナマケモノのようにベッドの上で、ぼぅっ……とするだけ。何かをする気持ちが起きない。
いっその事、もう一眠りしてしまおうか。そんな現実逃避気味に目を瞑る。
風に揺られるカーテンの音が静かなBGMのように聞こえて、気持ちが安らいで――
ふすー、ふすー……
……明らかにおかしい音がした。しかも、俺のすぐ側から。一定のリズムで空気が抜けるような音に、思わず目を開き、それを見た。見てしまった。
白い仮面を付けた"真っ白い"侵入者が、ベッドの傍らにある椅子に座って、こちらを見つめているのを。
「うぉあっ!? でぇ!?」
誰が予想出来ただろう。
目覚めとしてはショッキング過ぎる出来事に、直後に身体は跳ねるように飛び上がり、その拍子に俺はベッドから落ちた。
「だ、大丈夫ですか、京平さん!?」
「つつ……なんだって、んだ……」
リアクション芸人みたいな反応の代償であろう痛みと衝撃に呻くと、白い仮面の少女……ノワイエが慌てて駆け寄って来た。
「って、白っ!?」
「はい?」
昨晩は真っ黒いローブと、腹部と両腕を黒いベルトで締めた暗殺者みたいな服装だったのに。
俺の目の前には、朝日を受ける真っ白いワンピースに青白いエプロン、白い仮面に艶のある白い長髪という、まさに白尽くしなノワイエが首を傾げていた。
と、いうか。昨日とは違い、女の子らしく可愛らしい格好だ。仮面が全部台無しにしているのが非常に残念。
「あ、いや。何してたの?」
「え……と、ご飯が出来たので……」
俺の問いかけに、ノワイエはどこかばつが悪そうに視線を逸らす。
成る程、起こしに来てくれたらしい。起きるまで見ていたのでは? と、突っ込むべきだろうか。
「あぁ、今行くよ。待たせてごめん……」
「いえ、それと着替えはここにありますから……」
身体を起こして伸びをするとパキパキと小気味良い音がする。机の上には寝る前にはなかった服が置いてあった。
「もしかして、昨日の内に作ってくれたの?」
「いえ、簡単な物で申し訳ないですが」
「いやいや、そんな事ないって。わざわざ悪いね」
学生ズボンにワイシャツのままじゃ皺になっちゃうしね。ありがたく着させて貰おう。
「それじゃ、着替えたら来てくださいね?」
「了解。あ、ノワイエちょっと」
部屋を後にしようとするノワイエを呼び止めると、ふわりとワンピースのスカートと白髪がなびいて……なんか胸がドキドキする。
「どうかしましたか?」
「あ、いや……起こしに来てくれてありがとう。それと、おはよう……」
改まって言うのがなんだか気恥ずかしいような気がする。でも挨拶というのは大切だ。我が家では、挨拶無しに朝食は無しという格言さえあるくらいだからな。
「っ!? お、おはおはようございます!!」
それにしても、この反応はどうだろう。子犬が尻尾を振るような錯覚が見えたのは気のせい? いや、気のせいか。




