わがこひは、
※「あやかし忌憚」連載と同設定、連載主人公の従妹視点となります。が、単品で読んでも支障ありません。
※なんでもない日常の話。
薄く狭く上る湯気に、ハル姉は目を細める。
フィルターの中には挽きたての珈琲。お湯を少しずつ入れるハル姉のやり方は正しいのかどうかわからないけれど、前店主だったお父さんから習った通りのその所作によどみはなく、てきぱきとしているのに忙しなさがない。綺麗だ、と純粋に思う。そして、お父さんの背中を思い出す。
お父さんだってハル姉と同じ手順、同じ動作をしていたと思うのだが、いつだってそれはどこかぎこちなかった。不器用だったわけではない。多分、人並みには器用だった。湯気で白く曇ったメガネ越しにお湯が黒褐色に染まって下に落ちるのを眺める瞳は慈しみに溢れていたように思う。世代とかに関係なく小さな背は、多分今目の前にあるハル姉と同じくらい。
お父さん。わたしは心の中で尋ねる。流行らない喫茶店のマスターを始めたのはお母さんが死んじゃってから。その前はどこかの会社に勤める普通のサラリーマンだったけれど、まだ小さかったわたしの世話を自分で見るために脱サラして、このお店を始めた。でも知ってる。本当はわたしのためなんかじゃなかったこと。お父さんはなによりも自分のために、このお店を始めたんだ。それを、ハル姉が継いでくれた。多分、娘のわたしがこのお店を苦手にしていたから。
わたしたち父娘は、ハル姉に迷惑をかけすぎている。たまに、ふとそう感じる時がある。
お父さんのお姉さんの娘。ハル姉はわたしの従姉だ。そしてお母さんと死に別れたお父さんが最初に頼ったのもハル姉である。
るうはねえ、はるちゃんといたほうがいいと思うんだ。
記憶の中で、お父さんは私の頭に手を置きながら困ったように笑う。
お父さんには、るうと同じものが見えない。それってとっても、さみしいことなんだよ。
(ねえ、お父さん。それでもわたしは、ハル姉と同じものも見えないんだよ)
それも、とってもさみしいことなんだろうか。
カウンターに肘をおき、腕を枕にしてうつぶせになる私を見つけ、ハル姉がこら、と声をかける。課題、終わってないんでしょ。
(お母さんみたい)
口うるさい。そして、正しいことしか言わない。そう気をつけているんだろう。
のろのろと体を起こした私の前に、白いカップが置かれる。シュガーキューブは二つで、ミルクはなし。真っ黒な水面に褐色と白のキューブを落として混ぜても、灰色にはならなかった。
口をつけて、淹れたての香ばしい匂いをまず飲み込む。砂糖を入れても、この香りだけは変わらない。キリマンジャロ、と当てずっぽうに言ってみたら、自分の分を手に持ったハル姉からマンデリン、とひと言。間違ったことに満足して、熱いままの液体を喉に流し込んだ。
「……苦い……」
「珈琲だからね」
当たり前の応酬。ハル姉の声は淡々としていて、いっそ馬鹿にしたりからかってくれたほうが気が楽なくらい。そうしたらわたしだってふざけられる。学校にいる時みたいに。
ハル姉は自分のカップを引き寄せて、そのまま。脇に置いておいた文庫本に手を伸ばして、カウンター内にある椅子に座る。
静かに流れるピアノ曲が、ジャズなのかクラシックなのか、はたまたポップスなのかもわからない壊滅的な音楽音痴の私は、人も音も不足したこのお店にひどく場違いな存在だといつも感じる。もっと音を大きくすればいいのに、とわたしは恨みがましげにステレオを見る。はたまた、もっとお客さんが来ればいいのに、と。楽器の奏でる音よりも、人やものの立てる音のほうが、わたしは何倍も好きだった。
掌に収めたシャーペンと、白いままのレポート用紙。提出は来週だっただろうか。ちょっとした意識調査なので気構えないで、と言った教授の顔を思い出そうとして、その奇抜なネクタイしか出てこないことに気がついた。そういえば、あの日は赤い猫がお澄まししているものだった。
ちょっとした意識調査ですよ。猫が笑う。まるでチェシャ猫だ。猫に表情なんてないんですよ、と夢のないことを言う英文科の教授の声が再生される。猫に表情なんてないんですよ。だって、動物に感情があると思いますか?
「難しい課題なの」
本から顔をあげず、ハル姉が聞く。わたしの喉はうん、ともううん、ともつかない曖昧な音を出して、それきり沈黙した。
なにを言えばいいんだろう。
唐突に、わたしは自分が焦っていることに気づかされた。もしくは、困惑している。ハル姉に、この母のようでいて姉のようでもある従姉に、どう接すればいいのかわからない。
ちらりとハル姉がわたしを一瞥した。わたしは反射的に愛想笑いを浮かべる。まるで街中で見知らぬ人と偶然目が合ってしまった時のように。
ハル姉が本を閉じた。
わたしは身構える。さあ、来るぞ。そうやって、唇をきゅっと引き結んだのに、ハル姉は立ち上がるとそのまま冷蔵庫に向かってしまった。ぱくりと間の抜けた音を出して口を開いたそこから出てきたのは、少し不格好なロールケーキ。簡単に切り分けて、ハル姉がわたしの前に置いてくれる。そしてまた座った。
(……ありがとうって、言わなきゃ)
はっとして、でも、とっくにそのタイミングを逃してしまったことにも気がついて。
へにゃりと情けなく眉を下げておとなしくフォークを持ち上げたところで、コロンコロン、とドアベルが鳴く。
「あ、やっぱりここにいた」
ひょこりと顔を出して、破顔。端整な中に男らしさも忘れていない、そんな顔立ちの青年が、適度に筋肉のついた体を店内に滑り込ませる。
また来たの、とハル姉が呆れるのも意に介さず、彼は私の隣に腰かけた。そして、私の前に広げられたキャンパスノートやレポート用紙、散乱する筆記用具を見て、笑う。
「涙は本当に姉ちゃんのことが好きなんだなー。大学でも家でもなく、ここで課題やってんのか」
それはあまりに自然で、だからこそ不自然だと、私は思った。
トモ、とハル姉は彼を呼ぶ。姉ちゃん、と彼はハル姉を呼ぶ。
(……すっごい、違和感)
トモ兄の言葉を無視して、私はじっと彼を見上げた。じいっと。たとえば頬がちょっとひきつったり、眉がぴくりと僅かに動いてもわかるように。文字通り注視する。
母のようでいて姉のようでもあるハル姉。でも、その弟であるトモ兄を、私はずっと肉親だと思えなかった。
美しい他人。その表現がぴったりだ。ガラス越しにマネキンを見るように、スクリーンに映る役者を見るように。こっちは勝手に身近なように思っているけれど、相手にとってはそうじゃない。けれどお互いにそれを知らないから、どこまでもその関係は綺麗なまま。
だから、こうしてさも親しい間柄かのように声をかけられると、私はどうにも居たたまれなくなる。好きな芸能人と恋人同士になった夢を見て目覚めた後のような羞恥と面映ゆさ。そういう時、私は自分の図々しさがほとほと嫌になる。
身の程知らずだと、誰に言われなくても私が一番わかっているのに。
「それで、トモは何しに来たの」
「ん? 飯食いに。バイト代入るの明日なんだ」
「……つまり、今日はお金がないと」
「せーかい」
にこにこ。にこにこ。トモ兄は、いつだって笑顔だ。目を細め、白い歯を見せて笑う彼は、どこからどう見ても爽やかな好青年。いわゆるイケメン。ずっと運動系の部活をやっていたから体は引き締まっているし、身長だって平均以上。司法試験を控えた法学部の学生だけあって頭もいいし私やもうひとりの従妹の面倒もずっと見てきたから女性の扱いだって真摯で優しいとくれば、世の女性が放っておいてくれるはずがないん、だけど。その世の女性から見たら致命的な欠点が、トモ兄にはある。
「たまには自炊しようとか思わないの、大学生」
「でも、自分で作るより、姉ちゃんに作ってもらった方が旨いしなあ」
「あ、それは私も思う。ハル姉に教えてもらった通りに作っても、なんか違うんだよねえ」
「そうそう」
「…………」
はあ。ハル姉がため息を吐く。呆れた、と言わんばかりの表情だけど、これはきっと照れ隠しだ。
その証拠に、ハル姉は本を閉じて脇によけた。最初から、トモ兄を追い返すつもりはなかったんだろう。右手奥にある冷蔵庫を開けて材料を取り出す手には迷いがない。
「トモ、ドアに『close』の札かけてきて。涙はそのままご飯できるまで勉強」
「はーい」
「はあい、お母さん」
くすくす。笑い合い、トモ兄は言われたとおりに立ち上がる。私はまた白紙のレポート用紙と睨めっこ。ハル姉は野菜を洗って、下ごしらえを始めている。
こういう時間が、私はとても好きだった。