とある作家の夜は満月に照らされる
やたら筆が進む日、というのがある。
そしてそれはどうやら今日に当たるらしい。
(うん、調子が良いな)
私は自分の機嫌が良くなるのを感じながら筆を進ませる。こうして調子が良いときに一気に書き上げて大まかな形にさえしておけば、万が一にでもこの絶好調の反動が来ても対処のしようがあるからだ。
ここ五日間ほど家に引きこもっていたのを、ゴミ捨て序でに徒歩三分のコンビニまで足を運んだのが良い気分転換になったのだろうか。まるで手に何かが乗り移ったかのように、さらさらと勢い良く筆が走っていくのが気持ち良い。
静かな部屋には私の作業音だけが響く。これも実に良い。やはり私は物静かな空間が性にあっているようだ。
「ーー……」
そう思った矢先に、携帯が着信音を鳴らした。
大方の予想はついている、が、
(……いや、待てよ? 締め切りはまだ大分先だ。打ち合わせも先日したばかりだぞ?)
電話をかけてくる理由が分からない事に気付いた私の眉間には自然と皺が寄る。その間にも携帯は喧しい音を鳴らしながら着信の報告をし続けている。このまま放置しても再度かけ直してくるに違いない。そうすればまたこの騒音に鼓膜を虐められる事になるだけだ。それは避けたい。
私は覚悟を決め、携帯を手に取り、通話音量を最低まで下げて、少し耳元から離れた位置に置いて、通話ボタンを渋々と押した。
《あ、やっと出てくれた! せんせ、こんばんわ! 今ですね、私、ちょっと私用で外に出てるんですけど、月見ましたか!? お月様! 今夜のはちょっとヤバいですよ! 本当に綺麗ですよ! せんせの事だからずっと原稿とにらめっこしてると思うんで、ちょっとお休みして空見てみてください! 本当に月が綺麗なんで! それじゃ、おやすみなさーいっ!》
そうして、私の部屋には再び静けさが帰ってきた。
まるで散弾銃を耳に撃ち込まれたような気分になりながら、私は漸く黙った携帯を机上に放って溜め息をつく。部屋に静寂が戻っても、私の心臓には戻ってきてはくれないようだった。
防音ガラスの窓を開けて久々のベランダに出てみれば、夜風が私の頬を撫で、遠くの方では車のクラクションが聞こえた。見上げた先には見事なまでにまあるい月が悠々と浮かんでいて、白に近い金色にぴかぴかと輝いている。
それを見つめながら私はまだ痺れている気がする耳を触り、もう一度溜め息をついた。
「……月が綺麗などと、簡単に言うな」
今夜はもう、置いた筆は走りそうにない。
END.