見慣れぬ天井
一瞬だけ途切れた感覚は、次の瞬間に戻ってくる。
愛用のヘッドギアを外すと、見慣れない天井があった。
「ん……」
ベッドから身を起こす。
私は仮想空間にログインする時は、横になるか、椅子に深く腰掛けるようにしている。
ログイン中は体を動かせないから、なるべく楽な姿勢にしておかないと、後で関節が酷い事になっていたりするのだ。
「ああ……そういえば」
あまりにリアルな仮想空間から出てくると、現実の認識に失調をきたす例がある。
それかと思ったが違った。
見慣れなくて当然だ。
今日初めて見た天井なのだし。
見回せば畳敷きの六畳部屋だ。
机やベッドなどは配置についているが、壁際には引っ越し業者のマークが入った段ボールが山と積まれている。
今日、この部屋に引っ越してきたばかりだ。
私の両親はこのご時世にというか、このご時世だからというべきか剣術道場などを経営している。
その剣術道場が海外進出することになって、両親は揃って海を渡ってしまった。
サムライブームがどうとか言っていたが大丈夫だろうか?
そのブーム、たぶんもう終わってるし。
まあ娘の私から見ても剣術家としての腕は確かだし、指導者としても優れている両親だ。
道場経営に失敗するということも無いだろう。
問題は私をどうするか、だった。
私も海外に行くか、それとも日本に残るかの判断は私自身に委ねられた。
もちろん日本に残る方を選んだ。
両親に着いて行きたくなかったわけじゃなく、単に日本を離れたくなかったからだ。
進路や何かを考えれば高二の春に海外に渡るのは何かとよろしくない。
それに『決闘者の闘技場』は日本国内からしかログインできない。
今の私にとってそれは我慢できることでは無かった。
私がそれを告げると両親は苦笑していた。
そして私がそう決めるのを知っていたかのように、私の下宿先を準備していたのだ。
それがここだ。
引越しのトラックに便乗してここまで来て。
とりあえず寝床を確保しようとベッドを整えて。
大物の配置は先に決めようと机を置いて。
配線類は物を置く前にしてしまった方が良かろうとPCを出して。
で、『決闘者の闘技場』にログインしてた。
いや別にかたづけのできない子とかじゃなく。
これは家主さんに勧められたからだ。
私が起きて動き出した気配を察したかのように、廊下を歩いてくる足音が。
襖をぽんぽんとノックする音。
そう、この部屋はドアではなく襖で廊下と仕切られている。
畳敷きで、襖。
お察しの通り相当に古い建物だ。
「どうぞ」
鍵は掛けてません、と続けそうになったけど、そんなしゃれた物はそもそも無かった。
襖をそっと開けて入って来たのは小柄な女性だ。
少し色の抜けたような栗色の髪、一目で日本人じゃないとわかる容姿をしている。
この女性が家主で、名をシシルという。
なぜか姓は教えてもらえなかったが、何かこだわりがあるようなのでスルーしておいた。
シシルは私の両親の師匠だそうだ。
ここは昔シシルが経営していた剣術道場で、この母屋とは別に道場の建物が庭にある。
私の両親も昔ここに住んで、シシルから剣術を学んだという。
そうなるとシシルは結構な歳になるはずなのに、そうは見えない。
まだ十七歳の私が言うことではないかもしれないが、こういう風になら歳をとってもいいかなと、そう思えるようなシシルの姿だった。
それにしても実際の年齢はいくつなのだろう。
聞きたいけれど聞けない。
両親からも「それは聞いちゃいけないことだ」と釘を刺されている。
なんでも両親がここにいた頃も、シシルは年齢不詳で全然老けなかったそうで。
「あの人は人間じゃないから」
などと父は言っていた。
それは酷いと思ったりもしたが、いざ現物の若々しさを目の当たりにすると、父がそう言っていたのに納得したりもする。
師匠筋の人を相手にベッドに座ったままも失礼だ。
私が立ち上がると、シシルを見下ろす形になってしまう。
……これは私が大きいからじゃない。
シシルが小柄だからだ。
「こうして見ると桜ちゃんは大きいねえ」
私を見上げながらにっこりと微笑んでシシルが言った。
大きいと言われてしまった。
私の身長が女子の平均を少しばかり上回っているのは事実だとしても。
いや、大きく上回っているかもしれないけれど。
少しだけ心にダメージを受けた。
「それでどうだっだ? ちゃんと接続できた?」
「はい、それは大丈夫でした。ありがとうございます」
お礼の言葉は素直に出てきた。
私が住むことになったこの部屋、昔は住み込みの門下生用だったそうで、道場を閉めてからは誰も使っていなかった。
普段使われていない部屋だけにネット接続の環境も整っていなかったのだが、今回私の為に新たに配線してくれたのだった。
無線接続できなくもないところを、わざわざ有線接続できるようにしてくれたのだから、いくら感謝してもし足りない。
いまどきの無線機器なら通信ラグもほとんど無いだろうけれど、やはり万が一がある。
私は有線接続の信奉者だ。
と、まあそんな流れで、きちんと接続できるか試してみたのだ。
「さっき様子を見にきたんだけど、それしてる時って本当に動かないのね。死体みたいだったわよ」
「死体って……」
ログイン中は脳から出る運動信号が~とか、脳へ送られる感覚信号が~とか、技術的な話は置いておいて、確かにログイン中は現実の体は動かないし、外からの刺激に反応することもない。
死体みたいと言えば言えるのかもしれないが。
実際に言ってしまうのはどうなのだろう。
「ためしに胸を揉んでみたけど、全然反応しないし」
さらっと何か言いましたね?
何を揉んだと?
「はい? 今なんと?」
「だから、胸」
シシルは両手を胸の前に上げて、意味ありげにわきわきと指を動かして見せた。
いたずらっぽく笑う。
「なかなか良いものをお持ちですね」
思わず胸を守るように両手で抱いて、後ずさってしまった。
いやらしい感じはしないし口調もわざとらしく変えているから冗談なのだろうけど。
こういう人なのか?
剣の達人で、私の両親の師匠のはずなのに。
「まあそれはそれとして」
何事もなかったようにもとの口調に戻る。
本当に揉んだのかどうかは、はっきりさせてほしかったのだが。
「真面目な話、無防備すぎるわね。うちでならまだしも、外でする時には周りに気をつけなさい」
「は、はい」
頷きながら思った。
たぶん本当に揉まれているだろうと。
この家でログインする時にも周りには注意しておこうと。