師匠の仮想世界初体験
胸を拝まれるという女子としては微妙な体験をしてからおよそ七時間後、私はCODにログインしていた。普段ならそろそろ夕方の鍛錬の時間だけれど、今日はおそらく中止になるだろう。
なぜならば、今CODの入り口ホールにいる私は、ここで師匠を待っているのだから。
私から仮想世界の話を聞いた師匠は、午前の内に詳細を自分で調べ、必要なソフトのダウンロードやインストールは全て済ませてしまっていた。しかも作業に並行してVR用のヘッドギアの発注も、どことも知れない業者に依頼してしまうという抜け目の無さ。
さらに昼食後にはライアの運転する軽自動車に乗って、身体走査のできる医療機関まで直行、アバター作成用のデータも入手。帰宅するのと時を同じくしてヘッドギアが届いた。
ネット通販の即日便だってもっと時間がかかるだろうに、いったいどんな業者に依頼したのか。
そんなこんなで当日の午後には必要なものは全て揃ってしまったのだ。
師匠の行動力を甘く見ていたかもしれない。
CODは日本国内からしか接続できないから、師匠の本来の目的にはそぐわないコンテンツだ。
とは言えVRはおろかMMO自体が初めてだし、まずは仮想世界がどんなものなのかを知るためにプレイするだけなので、私に付き添って欲しいとのことだった。
リアルさで言えば恐らく世界最高峰のCODリアルモードに興味もあったらしい。
アバターの作成まで手伝って、ほとんど同時にログインしたはずの師匠はまだ現れていない。
初回のログイン時は幾つかの手続きがあるから、多分そこで時間を取られているのだろう。
早く来てくれないだろうか。
相変わらず剣士タイプのアバターは少数派だ。これが宇美月サーバーなら剣士タイプも魔術タイプも半々くらいの比率だから良いのだけど。しかも受付カウンターにも向かわず、入口の扉の前に陣取っているものだから目立ってしまう。
できれば目立たない隅っこに引っ込んでいたいけれど、師匠から「すぐ分かるところで待っていて」と頼まれているのでそうもいかない。
師匠にとっては未知の領域に踏み込むことになるので不安もあるだろうと思い、こうして目立つのを我慢して頑張っている。
あ、出てきた。
師匠のアバターは西欧舞台のファンタジー物に出てくる町娘のような衣装を着ている。実際には娘などと言う年齢でも無いのだけど、老いを感じさせない年齢不詳さと、そもそもそちら系の容貌なので意外と似合っている。
難を言えば、西欧風の衣装なのに腰に刀というのがミスマッチか。
出現位置に立ち尽くし、目を円くしていた師匠。私を見つけるとさらに吃驚していた。
「桜ちゃんなの?」
「はい。どうですか? 現実と全然変わらないでしょう?」
恐る恐る近付いてきた師匠は、まじまじと私の顔を覗き込む。
「これは……凄いわね。話半分で聞いていたけど、ここまで再現されているなんて。ちょっと触ってみてもいいかしら」
「どうぞどうぞ」
師匠は私の顔や髪、服などに触って感触を確かめた。
「肌や髪の感じ、布の感触まで本物そっくりね……こうなるとあの感触も試してみたいところだけど……」
師匠が私の胸元に目をやり、がっかりした表情を浮かべた。
「まさか師匠、現実とこっちで胸の揉み比べをしようとか考えてませんでした?」
「だって良く考えたら桜ちゃんの顔や髪って現実では触って無いじゃない? 比較材料にするには頼りないし。なんでゲームの中でまでサラシ巻いてるのよ」
「胸なら触っているような言い方をしないで下さい……って、やっぱりあの時揉んでたんですね!?」
「あの時って、いつのことかしら?」
思い起こせば師匠の家に引っ越した当日、CODログイン中の私の胸を師匠が揉んだのかどうかは結局うやむやのままだった。あのとぼけ方からすると、やっぱり揉んでいたに違いない。
家でもサラシを巻くようにしていて本当に良かった。
「まあちゃんと柔らかいかどうかは置いておいて、確かに桜ちゃんの言うとおり、これなら直接会うのとほとんど変わらないわね」
しきりに感心している師匠。
ところで私は知っている。
現実で柔らかい物はCOD内でもそのまま柔らかいという事を。
でもそれを師匠に教えるのは止めておこう。
私の平和のためにはそうした方が絶対に良いように思える。
というか、そんなに知りたいなら自分の胸でも揉んでおけば良いものを。
師匠にその発想は無いらしい。
「でも師匠、これは特別ですよ? 他のゲームはもうちょっとCGっぽくなりますから」
「その『もうちょっと』がどれくらいなのか気になるところね。これを見ちゃうとどうしても比べてしまうし」
「そうは言っても日本国内限定ですから。仕方ないですよ」
「国内限定ねえ。そこさえクリアすればここでみんなに会えるのか……」
クリアってなに?
なにか良からぬ事を考えているのではないだろうか。
「ま、その辺は後で考えるとして、せっかくだから今日の鍛錬はここでやっちゃいましょう」
「ここで、ですか?」
「ここで試合をするんでしょう? どうすればいいのかしら?」
「師匠、ちょっと待って下さい。師匠は今日アバターを作ったばかりだし、スキルも技も登録してないじゃないですか。試合なんてまだ無理ですよ」
なんだかやる気になってしまっている師匠を慌てて止める。
師匠のアバターは作成時に基本となる「剣術Lv1」を付けただけで、技も何も登録していない。
そこはまあ、私と同じように剣術の動作そのものはシステムアシストが無くても大丈夫だろうけど、気功スキルのようなステータスアップ効果のあるスキルも持っていない。
まるきり「素」の状態だ。
私がその点を指摘すると、師匠は事も無げに言った。
「ハンデ戦としては丁度良いんじゃないかしらね」
ハンデと言って済む問題だろうか?
私は気功スキルのもたらす恩恵を知り尽くしている。
普通であれば問答無用でNOと言うところだけれど……。
しかし脳裏に浮かんだのは現実で行った師匠との模擬試合の数々。
いつもいつも全く歯が立たず、つい最近では素手の師匠にも良いようにあしらわれた。
もしかして本当に丁度良いのかも?
「……では、やってみますか。師匠こちらへ」
一緒にカウンターまで来てもらって、受付に対戦の申し込みを伝える。
師匠の方に出た対戦受付画面で受諾の操作をしてもらえば、対戦表には「sakura vs ししる」と表示される。
ちなみに「ししる」が師匠のアバターネームだ。
もともと日本人でないのだから名前のアルファベット表記もあるだろうに、まさかのひらがな表記だった。
そう言えばさっきから師匠が私のことを「桜ちゃん」と本名で呼んでいる。
最初は、ネットゲームでは本名を呼ばないのがマナーなのだと注意しようかと思ったけど、「sakuraちゃん」と呼んでもらっても、音声で会話している限り聞こえ方は変わらないのでスルーしておいた。
まあ文字でチャットする機会があれば改めてもらえば良いだろう。
「師匠はあちらの扉から控室に入ってください。順番が来たらメッセージが出ますので、もう一つの扉から闘技場に出てきてください。あと、周りにいる人もみんなプレイヤーですから、失礼の無いようにしてください」
MMO初心者は得てして他のアバターの向こう側に現実の人間がいることを失念した言動を取ってしまう場合がある。その点で注意を促したのだが、「これだけリアルだと勘違いのしようもないわ」と返された。
師匠の場合はMMOに不慣れすぎて、しかもVRが初めてだから勘違いのしようも無かったようだ。
そうして二手に分かれて待つことしばし、メッセージの誘導に従がって闘技場に入る。
逆側から現れた師匠はなんだか不機嫌だった。
「師匠、どうしたんですか?」
「周りの人たちが私を見てひそひそ話していたのよ。剣士タイプがどうとか、レベル1がなんでこんなとこにいるんだとか……歳はいくつなんだろうなんて声も聞こえていたし」
「あー、それは……」
CODにおける剣士タイプの現状を考えればあり得る話だったし、レベル1は確かに場違いである。加えて師匠は年齢不詳の外見だ。
「それで師匠はどうしたんですか?」
恐る恐る尋ねてみた。
控室も戦闘禁止区画だから、師匠が周りのプレイヤーを無礼討ちにするなんてことは不可能だけど……。
「我慢して大人しくしてたわよ。こういう所でどういう対応したらいいのか知らないし」
答えた師匠はどこか拗ねているようにも見えた。
そういう表情をすると、ずっと年上のはずの師匠が幼くも見えてしまうから不思議だ。
なんにしても師匠が忍耐を発揮してくれて良かったと胸を撫で下ろす。
暴発して周囲に喰ってかかったりしたら、迷惑行為違反にもなりかねないところだった。
「おーい、なに話してるんだー。早く始めてくれよー」
観客席からそんな声が聞こえた。
そうだった。ここは闘技場であって、のんびりと話をする場所ではない。
故意に試合を遅らせるのは、これも重大なマナー違反だ。
「すみません、師匠。その話は試合の後でということに」
「……わかったわ」
言った途端に、師匠の表情が変わる。
拗ねたような表情から、剣術の師匠としての顔に。
開始線に立って、試合開始。
師匠は刀を抜いて構えている。
素のままの性能の師匠と、気功スキルで強化される私。
さて、この試合、どんな結末になるだろうか。




