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『貧乏くさい針子風情』と破談にされた令嬢——彼女の縫わなかった花嫁衣装で、隣国王女の輿入れは国際問題になった

作者: 相川ことね
掲載日:2026/07/13

 布は、着た人を覚えている。


 どんなに澄まして着飾っても、脇の縫い目ひとつが、その人の隠したいものを白状してしまう。肩の落ち方も、腰の詰め方も、袖を通すときの小さな癖も。布はぜんぶ覚えている。見る目のある者にだけ、こっそり教えてくれるのだ。


 だからエレナ・ファルネは、人を見るとき、まず顔を見ない。その人の着ているものを見る。


 ――たとえば、いま目の前で怒鳴っている婚約者の、仕立てはいいのに着崩れた上着とか。


 「貧乏くさい針子風情を、僕の妻になどできるものか!」


 王宮の衣装の間に、セドリック・ヴァルムの声が響いた。


 春の午後だった。高い窓から光が差し込んで、壁に掛けられた一着の花嫁衣装を白く照らしている。二週間後、隣国ロヴァスの王女ソフィアが着る一着。長く続いた両国の戦を終わらせる、条約婚の花嫁衣装だった。


 それを縫ったのは、エレナだ。


 半年前、この一着を任されたとき、セドリックは「さすが僕が見込んだ針子だ」と胸を張っていた。ファルネ子爵家はとうに没落し、爵位だけが埃をかぶって残っている。そんな家の娘が侯爵家の嫡男と婚約できたのは、ひとえにこの手の腕ゆえ――そのはずだった。


 王家御用針子として、半年をかけて仕立てた。ソフィア王女の采寸さいすん――体の寸法を測ることも、この手で取った。上等な針子は、一度采寸した体を指で覚える。ソフィア様は刺繍がお好きな方だった。いつも枠を抱えているせいか、右肩が左より少しだけ上がっている。左の手首には、幼い頃の蝋燭の火傷跡があった。だからエレナは右肩の縫い目を指の幅ひとつ高く裁った。袖口の裏地も、その傷を庇うように、そこだけ柔らかく返した。布が、あの方の体を覚えていられるように。


 その針子を、いま、婚約者が衆目の前で放り出そうとしていた。


 衣装の間には、着飾った令嬢たちが十人ほど。みんな扇の陰でこちらを窺っている。「まあ、あの子が」「ずっと侯爵様に食い下がっていたのでしょう」「布くさい手で、よくも」――ひそめた声が、扇の骨の隙間からちくちく刺さってくる。中央には口の達者なミレーヌ嬢がいて、勝ち誇った顔でセドリックの腕に手を添えていた。


 「セドリック様、あんまりですわ。この方、一生懸命なさっているのに」


 言葉は同情、目は嘲笑。エレナは、その手つきをちらりと見た。爪の先まで手入れの行き届いた、針を一度も持ったことのない手だ。


 (あら。指がおきれいなこと)


 「エレナ。お前の縫い物など、下働きの誰かにやらせれば済むことだ」セドリックが顎を上げた。「布を縫うくらい、誰にでもできる。侯爵家の妻に、そんな安い取り柄はいらん」


 誰にでもできる。


 その一言を、エレナは口の中で転がした。腹の底が、かっと熱くなる。


 (誰にでもできる、ですって。まあ)


 だが、それも一瞬だった。エレナはふう、と息を吐いて、熱をさっさと逃がしてやる。怒ったところで、この方の頭の中身が良くなるわけではない。


 「わかりました」


 エレナは、きれいに膝を折ってお辞儀をした。


 「では、どうぞご随意に。わたくしの取り柄が安いか高いか、じきにお分かりになりますわ」


 「なに?」


 「いえ、なんでも。お幸せに」


 にっこり笑ってやると、セドリックは毒気を抜かれたような顔をした。令嬢たちがざわつく。泣くでも縋るでもなく、あっさり微笑んで引き下がる元婚約者に、みんな拍子抜けしている。


 衣装頭が、咳払いをした。


 「エレナ・ファルネ。侯爵家のご意向により、王女殿下の御用は、本日をもって主席針子オルガに引き継ぐ」


 その名を聞いて、恰幅のいい女がしゃなりと前へ出た。オルガだ。針より社交で座を得てきた女で、これまでもエレナの下ごしらえに手を入れては、自分の仕事にしてきた。


 オルガは、壁の花嫁衣装へまっすぐ歩み寄った。そして、半年ぶんの運針が詰まったその布を、我が物顔でひと撫でする。爪を立てるみたいに、ゆっくりと。


 「あらあら、お気の毒に。でも大丈夫。あなたのお下がりの仕事くらい、わたくしが引き受けてあげますからね」


 半年だった。毎晩、蝋燭を灯して、指の腹が痺れるまで縫った。あの方の右肩の高さも、手首の傷も、ぜんぶこの手で布に写した。それを、采寸ひとつ取ったことのない手が、お下がりと呼んでいる。


 ――さすがに、これはむっとした。


 (この人、王女様の采寸を取ったことも、ないのでしょうね)


 オルガの指を、エレナは見た。ふっくらして白い。針胼胝はりだこがひとつもない。何年も針を握った者の指には、必ず固い胼胝ができる。この女の指には、それがなかった。


 言おうとして、やめた。言ったところで、この場の誰にも分からない。分かる者だけが、いつか分かればいい。


 「ええ。よろしくお願いいたしますわ」


 エレナは壁際の古い裁縫箱を抱え上げた。祖母マチルドの形見だ。中には針と糸、それに祖母が遺した千の覚え書きが入っている。王家御用の老針子だった祖母が、一生かけて記した寸法と縫い癖と布の産地の帳面。エレナの、たったひとつの財産だった。


 ファルネの家に帰ったところで、待っているのは傾いだ屋根と、埃をかぶった爵位だけ。頼れる後ろ盾は、とうにない。あるのは、この箱と、この手だけだ。


 ――ならば、それで十分ですわ。


 この箱さえあれば、どこでも生きていける。


 「ごきげんよう、皆様」


 衣装の間を出るとき、エレナは一度だけ、あの花嫁衣装を振り返った。


 ――ごめんなさいね。あなたを最後まで着せてあげられなくて。


 布は、静かに壁に掛かっていた。着る人の体を、まだちゃんと覚えたまま。




 王宮を出て坂を下りれば、そこはもう下町だった。


 貴族の街とは、匂いからして違う。染物屋の路地には、あいで染めた糸が青い滝のように干されている。その隣では、あかねの赤が風に揺れていた。パン屋、鋳掛け屋、古着の露店。エレナは、この雑多な賑わいがきらいではなかった。


 (さて。まずは住むところと、お仕事ですわね。……その前に、お昼がまだですけれど)


 腹が鳴った。朝から気を張っていたせいで、何も食べていない。


 パンの匂いのするほうへ足を向けたとき、露店の陰で小さな影が動いた。痩せた男の子が、パン屋の台に手を伸ばしかけた。店主に怒鳴られて、逃げていく。転んだ拍子に、上着の肩がびりっと裂けた。


 男の子は、裂けた肩を握りしめてうずくまった。泣くのを我慢している。


 エレナは、しゃがみこんだ。


 「あら。派手に破れたわね」


 「……ぼく、盗ってない」


 「知ってますわ。見てましたもの。あなた、手を引っ込めたでしょう」エレナは裁縫箱を開けた。「その上着、脱いでちょうだい。ついでに直してあげる」


 男の子――チコ、というらしい――は、警戒しながら上着を渡した。エレナは糸を通して、裂けた肩をあっという間に縫い合わせる。ただ塞ぐのではない。破れやすい肩の縫い目を、内側から二重に返して補強してやった。この子はまた転ぶ。次はそう簡単に破れないように。


 「はい、できあがり。前より丈夫ですわよ」


 「……お姉ちゃん、すごい」


 「でしょう? これでもね、ついさっきまで王女様の花嫁衣装を縫ってましたの」


 「うそだ」


 「ふふ、うそだと思う?」


 エレナは笑って、財布から小銭を出してチコの手に握らせた。パンひとつぶんくらいの、駄賃だ。


 「これで何か買っていらっしゃい。次はちゃんと、お金を払うのよ」


 チコは目を丸くして、それからぱっと駆けていった。エレナは伸びをして立ち上がる。さて、自分もパンを――と思ったところで、すぐ後ろに人の気配があった。


 振り返ると、背の高い黒髪の男が立っていた。


 身なりは地味だが、上着の仕立てが妙にいい。エレナの目は、そういうものをすぐ拾ってしまう。庶民の服のふりをして、縫い目が丁寧すぎる。それに、この所作。まっすぐな背筋と、静かな目。どこか、育ちが服とちぐはぐだった。


 「……あんたか」男が低く言った。「王女の花嫁衣装を縫ったのは」


 「あら。聞いていらしたの」


 「噂を聞いて、探して来た。国に二人といない針子がいると」男は、まっすぐエレナを見た。「あんたを、雇いたい」


 ヘッドハンティング、というやつだ。腕を見込まれるのは、悪い気はしない。


 だがエレナは、すぐには頷かなかった。この男が本当に見ていたのは、花嫁衣装の噂だろうか。それとも――


 男の視線は、さっきからエレナが縫ったチコの上着の後ろ姿を追っていた。神業の花嫁衣装ではなく、みすぼらしい子供の、繕われた肩を。


 「あなた、どちらさま?」


 「テオ、と呼べばいい」


 「テオさん。お仕事の中身も聞かずに、はいそうですかとは頷けませんわ」


 「賢明だ」テオは、ふっと目元を緩めた。「その口の減らなさは、噂になかったな」


 そして彼は視線を落として、何かを低く呟いた。


 風の音にまぎれて、エレナには聞き取れなかった。


 「え? いま、なんて」


 「……なんでもない」


 テオは横を向いた。耳のあたりが、ほんの少し赤い気がしたが、光の加減かもしれない。


 いま、この人はわざと、聞こえないように言った。そんな気がした。




 結局、エレナはテオの申し出を受けた。仕事の中身を聞いて、放っておけなくなったからだ。


 「俺は隣国ロヴァスの使節団に、衣装目利きとして雇われている」テオは言った。「二週間後の輿入れで、ソフィア王女の花嫁衣装を諸国にお披露目する。その最終検分に、確かな目が要る」


 「それで、わたくしを」


 「ああ。あんたが縫った一着だ。あんた以上の目はない」


 もっともな理屈だった。けれどエレナは、テオの言い方に妙な硬さを感じていた。まるで衣装そのものより、その裏の何かを疑っているような。


 支度部屋に通されたのは、儀礼の前日だった。


 部屋の中央の衣桁いこうに、あの花嫁衣装が掛かっていた。エレナが半年をかけて縫い、オルガに引き継いだ一着。


 一目見て、エレナの足が止まった。


 「……テオさん」


 「どうした」


 「これ、縫い直されていますわ。それも、ずいぶん乱暴に」


 エレナは衣装に歩み寄った。触れる前から、目が全部を語っている。オルガが、この二週間で仕立て直したのだ。


 「見てくださいまし。ここ、肩の縫い目。一度ほどいて、縫い直した痕があるでしょう」エレナは布をそっとつまんだ。「仕立て直しでほどくと、元の針穴が布に残るんです。塞いでも、光にかざせば透けて見える。……この肩、わたくしが裁いたときより上げてありますわ」


 テオが、布に顔を寄せた。長い指が、針穴の列を静かになぞる。


 「――逆だな」低く言った。「あんたは、右を高く裁ったと言った」


 「あら。お分かりになる?」


 「聞いていれば分かる」テオは、ほんの少しだけ口の端を上げた。「……あんた、説明が丁寧すぎるんだ」


 「まあ。丁寧で悪うございました」


 エレナは、指先で左右の肩を測るように押さえた。


 「ソフィア様は、右肩が少し上がった方でした。刺繍がお好きで、いつも枠を抱えていらしたから。わたくしは右の縫い目を、指の幅ひとつ高く裁ちました。なのにこれは――左が上げてある。着る人の肩が、逆になっているんですわ」


 「もうひとつ」エレナは腰の縫い目に指を滑らせた。「胴回りが、一寸ばかり詰めてあります。花嫁が、二週間で一寸も痩せたということ。……病でもない限り、そんなことはありません」


 テオは、もう聞き返さなかった。ただ、次を促すように、わずかに顎を引く。


 エレナは衣装の内側をめくって、裏地の継ぎを見た。そこで、はっきりと眉を寄せる。


 「この継ぎ布。御用の織りじゃありませんわ。王室御用の布には、独特の織りがあるんです。の目の詰み方が違う。真似できません」エレナは継ぎ布を指で撫でた。「仕立て直しで布が足りなくなって、慌てて安い布で継いだんですわ。中に隠れて見えないと思ったんでしょうけど……針子には、見えます」


 肩は逆。胴は一寸細い。布は御用でない。


 そして、とどめのように、エレナは袖口に指をかけた。裏地を、そっと返す。


 「……ああ。やっぱり」ため息のような声が漏れた。


 「どうした」


 「袖口の裏地ですわ。わたくしはここを、火傷を庇うように柔らかく返しておりました。ソフィア様の左の手首には、幼い日の火傷の跡がおありでしたから。布が擦れて痛まないように」エレナは、平たく潰れた返しを指で示した。「でも見てくださいまし。オルガさんはこの返しを潰して、ただの当て布にしてしまった。……庇う必要がなかったんですわ。つまり、これを着る方の手首には、庇うべき傷がない」


 答えは、もう出ていた。


 「テオさん」エレナは、まっすぐ彼を見上げた。「この花嫁衣装を着る方は、ソフィア様ではありません」


 支度部屋が、しんとした。


 「……この花嫁は、偽物ですわ」


 テオは、長く息を吐いた。驚きではない。恐れていたものをとうとう突きつけられた者の、静かな息だった。


 「やはり、そうか」


 「テオさん。あなた、初めから……?」


 「疑っていた」テオは低く言った。「あんたが采寸した頃は、まだ縁談がまとまる前で、王女も表に出ていた。だが輿入れが正式に決まってからは、誰の前にも姿を見せていない。侍女ひとりを介して、顔を隠したまま支度が進んでいる。……この国の誰も、それを不審に思わなかった」


 エレナは、ぞっとした。両国の戦を終わらせる条約婚。その花嫁が、偽物。このまま儀礼が進めば、諸国の前で両国は取り返しのつかない恥をかく。条約は無効になり、また戦が始まるかもしれない。


 賭け金の大きさに、指先が冷えた。


 「明日の儀礼で、暴きます」エレナは言った。「わたくしにできることは、それだけですもの」


 「危険だぞ。相手が誰かも分からない」


 「今そっと止めても、同じですわ」エレナは首を振った。「王女様は病で延期、とでも言い繕って、あの方たちはまた次の嘘を重ねるだけ。……諸国の目の前で、布に語らせるしかありませんの。布は、言い逃れをしませんから」


 テオは、しばらくエレナを見つめていた。それから、ふっと笑った。今度は、ちゃんとした笑いだった。


 「……ああ。あんたに頼んで、正解だった」




 翌日。婚礼儀礼の大広間は、諸国の使節で埋め尽くされていた。


 金糸の垂れ幕、居並ぶ王侯貴族、玉座には若き王太子。その前に、隣国ロヴァスから来た花嫁がヴェールを深く下ろして進み出る。エレナの縫った――オルガが縫い直した――あの花嫁衣装をまとって。


 エレナは、テオの目利き助手として末席に控えていた。すぐそばの貴族席には、セドリックとヴァルム侯爵の姿がある。御用針子を輩出した家として、晴れの席に招かれているのだ。オルガも、衣装頭の後ろで得意げに胸を張っている。


 花嫁が、玉座へ歩み寄る。その左肩を、エレナの目は一瞬も離さなかった。一歩ごとに、縫い直された肩の縫い目が、ぴりぴりと引き攣れていく。糸が、悲鳴を上げはじめている。エレナにだけ聞こえる、細い悲鳴を。


 (……もう、保ちませんわね)


 花嫁が玉座の前で膝を折ろうとした、その瞬間。


 「――お待ちください」


 末席から、澄んだ声が上がった。


 諸国の使節が、いっせいに振り返る。地味な身なりの娘が、ひとり、進み出ていた。


 「そのまま膝をお折りになれば、その左肩の縫い目は、ほどけますわ」エレナは、まっすぐ花嫁を指した。「オルガさんが慌てて縫い直した糸が、そう申しております」


 花嫁の肩が、びくりと震えた。動揺が、指先まで走る。そして――怯えたように半歩、退いた。その拍子だった。


 ぴ、と小さな音がした。


 張り詰めていた左肩の縫い目が、耐えきれず、ほどけ始める。エレナの言葉を、なぞるように。


 花嫁の左肩から、するりと布が滑り落ちた。


 大広間が、どよめいた。ほどけた縫い目から、隠されていた安物の継ぎ布が、諸国の目の前にぞろりとこぼれ出る。晴れの花嫁衣装の、みすぼらしい裏側が。


 「な……なぜ……」


 オルガが真っ青になって立ち上がった。


 「布が! 布が悪いんですわ! わたくしの腕のせいじゃ……!」


 叫んだ瞬間、自分で自分の首を絞めたと気づいたようだった。この衣装を仕立て直したのは自分だと、白状したのだから。


 エレナは、静かに前へ出た。ほどけた花嫁衣装の肩を、指さす。


 「布のせいではありませんわ、オルガさん。あなたが、着る方を間違えたんですの」


 諸国の視線が、末席の地味な娘に集まる。エレナは、ヴェールの花嫁へ向き直った。


 「肩の高さも、胴の寸法も、継ぎ布の織りも。どれもこれも、この衣装がソフィア様のために作られて、ソフィア様でない方のために直された証拠ですの。でも――いちばん正直なのは、あなたご自身の手ですわ」


 エレナは、まっすぐ花嫁を見上げた。


 「どうぞ、その手で、ヴェールをお上げになって」


 花嫁の肩が、震えた。やがて、細い手がヴェールを持ち上げる。素手の、白い手だった。


 エレナは、その手首を見て――静かに言った。


 「……ソフィア様の左の手首には、火傷の跡がございました。幼い日の、蝋燭の。わたくしはその傷を庇って、袖口の裏地を柔らかく返しましたの。けれど、あなたの手首に、傷はない」


 現れたのは、まだ幼さの残る侍女の顔だった。怯えきった目がエレナを見て、それから諸国の使節を見て、くしゃりと歪む。


 「……ごめん、なさい。わたし、リタは、ただ、言われた通りに……」


 大広間が、蜂の巣をつついたような騒ぎになった。替え玉。条約婚の花嫁が、替え玉。諸国の使節がいっせいに立ち上がり、王太子が青ざめ、隣国の使節団が右往左往する。


 その中で、崩れ落ちた男がいた。


 セドリック・ヴァルムだった。


 「そ……そんな、私は……聞いていない」膝が震えて、立っていられない。「私はただ、あの女を家に相応しくないと……縫い物など誰にでも、できると……」


 彼の家が輩出した御用針子が、替え玉を見抜けなかった。諸国の前で、花嫁衣装をほどけさせた。捨てた札が、いま彼の家を国ごと辱めている。ヴァルム侯爵が息子の腕をつかんで引き起こそうとするが、セドリックの足は言うことをきかない。王太子と諸国の視線が、氷のように彼へ集まっていた。


 その混乱の中を、ひとりの男がゆっくりと歩み出た。


 テオだった。


 目利きの地味な上着を脱ぎ捨て、彼は右手の手袋を外した。指に、小さな紋章の指輪が光る。ロヴァス王家の紋だった。


 「静粛に」


 低い声が、大広間を貫いた。ざわめきが、波の引くように静まる。


 「私はロヴァス王国、王弟テオドール。ソフィア王女の叔父だ」


 どよめき。エレナも、思わず息を呑んだ。目利き。寡黙な流れ者。あの地味な上着の下に、隣国の王弟が入っていた。


 「……テオさん。じゃあ、本物のソフィア様は」思わず、エレナは末席から声を落とした。


 「無事だ」テオドールは頷いた。「この国の外れで、私が匿っている。すり替えたのは、この輿入れに反対する者たち。……姪ひとりを大国に差し出して戦を終える、そういう条約だった。彼らはそれを、止めたかった」


 テオドールは、震える侍女リタへ目を向けた。その目に、憎しみはなかった。


 「リタ。お前も、脅されて立たされた口だな。……顔を上げろ。罪は、お前を使った者にある」


 リタが、ぼろぼろと涙をこぼした。


 テオドールは、王太子に向き直る。


 「殿下。この条約は、結び直しましょう。王女を売り物にする条約ではなく、両国が対等に手を取る条約に」


 王太子は、しばし言葉を失い――やがて、深く頷いた。それは、暴くだけでは得られなかった、本当の和平だった。


 嵐のような一日が、少しずつ凪いでいく。


 その中で、テオドールは末席のエレナのところへ、まっすぐ歩いてきた。諸国の使節が居並ぶ、その真ん中で。


 「エレナ」


 初めて、名前で呼ばれた。


 「……テオさん。いえ、殿下、と、お呼びしたほうが」


 「テオでいい」彼は、ふっと笑った。「あんたのおかげで、姪も、国も救われた。針一本でな」


 「布が、教えてくれただけですわ」


 「そうか。……なあ、エレナ」テオは、少し言い淀んだ。柄にもなく。「初めて会った日に、俺が聞こえないように言ったこと。覚えてるか」


 エレナの、指が止まった。


 「あれは」テオは、まっすぐ彼女を見た。もう、伏せなかった。


 「あんたが縫った花嫁衣装を、見に来たんじゃない」テオは言った。「あの路地だ。破れた子供の肩を、あんたが縫うのを見た。……次はそう簡単に破れないように、って、内側を二重に返してた」


 エレナの頬に、じわりと熱が上る。


 「あれを見て、決めたんだ。――腕を探して来たんじゃない。あんたを、探して来た」


 大広間の喧騒が、遠のいた。


 ――ああ、この人。あの日、王女様の花嫁衣装じゃなくて、あの子の肩を見ていたんだわ。


 エレナは、じわじわと頬が熱くなるのを感じた。


 「……まあ」なんとか令嬢の澄まし顔を作ろうとして、失敗した。「それ、口説いていらっしゃるの?」


 「悪いか」


 「悪くは、ありませんけど」エレナは、目を伏せた。「殿下ともあろうお方が、こんな貧乏くさい針子を口説くだなんて、正気ですの?」


 「貧乏くさい針子風情を妻にできるか――だったか。誰かが、そう言ってたな」テオは、崩れ落ちたセドリックのほうを、ちらりと見た。「そいつが捨てた札を、俺が拾う。文句あるか」


 「……ふふ」


 エレナは、とうとう笑ってしまった。


 「文句なんて、ありませんわ。でも殿下。ひとつだけ」


 「なんだ」


 「わたくし、口が減りませんのよ。噂になかった、とおっしゃったでしょう? 毎日ですわよ、これ」


 「知ってる」テオは、心底うれしそうに言った。「だから、探して来た」




 同じ頃、ヴァルム侯爵家の馬車の中で、セドリックは震えていた。


 窓の外を、儀礼帰りの貴族の馬車が追い越していく。誰もがヴァルム家の馬車をちらりと見ては、目をそらした。あの、諸国の前で恥をかいた家。替え玉を見抜けなかった御用針子の、後ろ盾の家。


 縫うくらい、誰にでもできる。


 自分が言った言葉が、耳の奥で何度も鳴っていた。


 誰にでもできると値切ったあの技が、たったいま国をひとつ救った。自分が「安い取り柄」と切り捨てた娘が、諸国の使節の前で、隣国の王弟に望まれた。


 布は、着た人を覚えている。あの娘は、そう言っていた気がする。


 (では、この服は、私をなんと覚えている?)


 仕立てのいい、着崩れた上着。特権にあぐらをかいて、中身の伴わなかった男。布はきっと、そう白状している。セドリックは生まれて初めて、自分の着ているものが恥ずかしかった。




 それから、数日が過ぎた。


 エレナは下町の路地に、小さな仕立て屋を借りた。テオが「王宮に部屋を用意する」と言うのを、「まずは自分の足で立ちますわ」と押し返して。看板を出した初日から、繕い物の客が絶えない。チコは毎日、パンを買った帰りに顔を出す。


 「お姉ちゃん、王女様の話、ほんとだったんだね」


 「ほんとでしょう?」エレナは糸を切りながら笑った。「うそだと思ったくせに」


 その日の午後、店に懐かしい顔が飛び込んできた。ニナだった。王宮でエレナの下について働いていた、若い針子だ。


 「エレナさん! やっと見つけた!」ニナは息を切らしていた。「聞きました? ヴァルム家、大変なことに」


 「あら。何かありまして?」


 「御用を、ぜんぶ取り上げられたんです。今朝、王宮の壁からヴァルム家の家紋の旗が下ろされて……」ニナは声をひそめた。「セドリック様、廃嫡だって噂です。ミレーヌ嬢も、もうそばにいないみたい。……それでね、オルガさんが」


 「オルガさんが、どうかして?」


 「夜逃げしたんです。責任を問われる前に、借金だけ残して。裁縫箱も置いていって……」


 ちょうどそのとき、店の前の通りを、一台の馬車が音もなく過ぎていった。扉の家紋を、木肌が四角く剥ぎ取ったあとの、空の馬車。ヴァルム家の馬車だった。二人とも、しばらく黙ってそれを見送った。


 「……その置いていった裁縫箱、中を見たら」ニナが、ぽつりと続けた。「針胼胝ひとつぶんも使い込んでない、新品みたいな針が入ってたって。みんなで、笑ってました」


 エレナは、針を持つ手を止めた。責任転嫁して逃げて、最後まで誰かの布を自分のものにしようとした女。少しだけ、気の毒に思った。ほんの少しだけ。


 「そう。……お疲れさまでしたわ、オルガさん」


 ニナが帰ったあと、店の戸口にまた誰かが立った。振り返らなくても分かる。仕立てのいい、地味な上着。


 「テオさん。今日は、どちらの目利き?」


 「今日は、仕立て屋の客だ」テオは、店の中を見回した。「上着の肩が、破れた。直してほしい」


 「あら。どうやって破りましたの、殿下ともあろうお方が」


 「餓鬼と喧嘩した」テオは、外を顎で示した。窓の向こうで、チコが「ちがう! テオが弱いんだ!」と叫んでいる。「木登りの勝負で、負けた」


 エレナは、噴き出した。


 「まあ。王弟殿下が、木登りで」


 「文句あるか」


 「ありませんわ。……お脱ぎなさいまし。ついでに、もっと丈夫にしてさしあげます」


 テオが上着を脱いで、椅子に腰かける。エレナは糸を通した。彼の上着の肩を、内側から二重に返して縫い合わせていく。この人はまた、木に登る。次はそう簡単に破れないように。


 布は、着た人を覚えている。


 肩の落ち方も、腰の癖も、そのぜんぶ。エレナはこの上着を、これから何度も繕うのだろう。この人の体を指で覚えて、布に覚えさせて。


 ――ああ、そうか。


 ずっと、覚えさせる側だった。でも今日から、わたくしにも、覚えていてもらえる場所ができたのだ。この人の隣という、たったひとつの居場所が。


 「エレナ」テオが、縫われながら言った。「早いな、相変わらず」


 「ええ。腕には自信がありますの」エレナは、糸を歯で切ってにっこり笑った。「それに、この上着。もう、わたくしのこと覚えましたわよ」

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― 新着の感想 ―
えーと、輿入れ当日に替え玉の花嫁を送り込んで来た国の王弟がなんでこんな偉そうなの? 国際的に見て権威が失墜するのは替え玉を見抜けなかった国よりも、替え玉を送り出して誤魔化そうとした側の国だよね? 王…
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