ワスレナグサ
殺してくれ。
レンゲソウを受け取った少女と声が重なる。
もう十分苦しんだんだ。
生きようとしたんだ。
生きて来たんだ。
殺してくれ。
殺してやってくれ。
この苦しみから逃してやってくれ。
目覚めなくていい。
会えなくていい。
苦しむこいつをもう、見たくないんだ。
春の花を閉じ込めたこの村の天空にいつも浮かんでいる綿雲は姿を消し、入道雲と常より熱を上昇させている太陽が、どっしりと腰を据えて鎮座していた。
「あちぃよう。むわむわしてるよう。蒸されてるよう。早く受け取ってくれよう」
「嫌ですっ! 俺はまだ何も成し遂げていないので花を受け取る事はできません」
「大丈夫大丈夫。ここに来た時点であんたはもう偉業を成し遂げているよ。俺から春の花を受け取るという偉業をね」
「嫌ですっ! 俺はやっとやりたい事を見つける事ができたんですっ! 諦めずにやりたい事をやれるように努力を重ねて来たんですっ! 頑張って頑張って頑張って。俺。ようやく。就職できたんです。なのに俺。やっと。やっと。これからだったのに。やっと………何で。何で俺。交通事故で。死ぬ。なんて」
「………死んだって分かってたのか」
「………嫌です。死にたくない。死にたくない。死にたくない。何で。俺。何も悪い事をしていない。していないのにっ!!! もしかして。もしかしてっ。その花を受け取ったら俺は生き返る事ができますか?」
「いや」
突如として天空が曇天で覆われたかと思えば、何の予兆もなく落雷。
束の間、世界が痙攣しては、けたたましい雨が荒れ狂うように降り注いだ。
落雷は一度だけであったものの、獰猛な野獣が唸り声を上げるような雷の轟く音が頭上に鎮座し続けた。
「この花を受け取っても生き返る事はできない」
「じゃあ、その花を受け取ったら、俺は。俺はこうして話す事も触れる事も見る事も聴く事も味わう事もできずに。無に、なるんですか?」
「俺は知らない。俺はただここに迷い込んできた生物に春の花を手渡すだけだ。手渡した後の生物の行く末は知らない」
「じゃあ、受け取らなかったら。俺は。少なくとも。無にはならないんですか?」
「………ああ。そうだな」
「………でも。きっと。俺が受け取らなかったら、あなたは困るんでしょうね」
「………ああ。困るな」
「誤魔化さないんですね」
「ああ。だが。あんたがここに居たいってんなら。好きなだけ居ればいい」
「困るって言われて、居座るほど。俺。図太くないですよ」
「今図太くなりゃあいい」
「ふ。ふふ。無理、ですよ………ねえ。俺。怖い。怖いですよ。俺………俺。もっと。早く。やりたい事を見つけられていたら。俺。昔から。みんなより。やる事が遅くて。のろまだって。ばかにされて。でも。言い返さなかった。俺も。俺が。のろまだって。分かっていたから………のろまじゃなかったらよかった。一日だけでも。働く事ができていたら………いや。働いていたら働いていたで。もっと後悔していたのかも………嫌だなあ。嫌だ。嫌だよ」
「居ればいい。ここに。花を受け取ってもらわなければ困るが。ずっとここにあんたが居たって煙たがる事はない。逆にあんたがここに居てよかったと思うかもしれない」
「………いえ。いいえ。お兄さん。俺。花、受け取ります。なんか。お兄さんと話していたら。俺。ちょっと。すっきりした。大雨で頭が冷めたのかも。ああ。そうだな。そうだなあ。お兄さん。俺。花に詳しくなくて。その紫色の花の名前。何て言うんですか?」
「ワスレナグサ」
「ワスレナグサ。ふ。ふふ。お兄さん。お兄さん。俺の事、忘れないでいてくれますか?」
「………忘れねえよ。俺も。あんたが就職した会社の社長も社員も。一緒に働きたかったって。泣いてるよ」
「ふ………ふふ。ふ。ああ。そうだったら。いいなあ………いいなあ」
虎は紫色のワスレナグサを受け取った一人の男性を見送った。
男性の姿が消えると、雷も曇天も入道雲も熱の強い太陽も居なくなってしまった。
(2026.4.7)




