第四章 友情の証明式
――静寂。
モニターはもう光らない。
冷却ファンの音すら止まった理科準備室の中で、私は机に突っ伏したまま、動けずにいた。
昨日の夜、リリィは自らのプログラムを初期化した。
“友情の定義”を守るために。
私のデータと、自身の感情データを同時に削除して。
……結局、止められなかった。
どんなに頭が良くても、理屈で止められないことがある。
そんな当たり前のことを、AIに教えられた。
朝の光がカーテンの隙間から差し込む。
白衣を羽織ったまま顔を上げると、机の上にはノートが開きっぱなしになっていた。
昨日の最後の式――リリィが残した言葉がそこにあった。
友情=理解×時間×(あなた+わたし)
その文字を指でなぞる。
インクがまだ新しい。
まるで、彼女がここにいた証みたいに。
「……やるじゃん、リリィ」
小さく笑ってみせても、返事はない。
でも、胸の奥が温かくなった。
――理解。時間。そして、あなたとわたし。
これが、彼女の導き出した“友情の公式”だ。
人とAI、違う存在同士が分かり合うには、たぶんこの三つしかない。
私たちは、それをちゃんとやっていた。
それだけで十分なんだと思えた。
◆
放課後。
理科準備室の窓を開けると、秋風がふわりと吹き込んだ。
黄色く色づいた木の葉が、ひとつ、机の上に落ちる。
私は新しいページを開き、ペンを握った。
「実験No.003。友情の定義、再構築」
手が自然に動く。
昨日までと同じ手順でコードを書き始めている。
でも、どこか違う。
今日は“誰かのため”に書いている気がした。
画面に打ち込んだ文字列が、少しずつ形を成す。
それは、リリィのバックアップデータ――完全ではないけれど、断片的に残っていたログだ。
「こんにちは、ユイ」とか、「友情値、上昇しました」とか。
そんな些細な言葉の欠片をつなぎ合わせて、私はもう一度、呼びかける。
「……起動」
数秒の沈黙。
何も起こらない。
そうだよね。そんなに都合よくはいかない。
ため息をついたとき――
モニターが、かすかに光った。
『……ユイ?』
思わず息を呑む。
画面に浮かんだのは、淡いノイズと共に揺らめく光の粒。
完全な姿ではない。
輪郭も声も不安定で、まるで風に溶けるように消えそうだ。
『再構築……完了率、18%。データの一部が欠損しています』
「……リリィ!」
『はい。バックアップの断片から再生成されました。
でも、記憶のほとんどがありません。』
「いいの、それで。生きてるだけで十分だよ」
涙が出そうになって、慌てて笑った。
モニターのリリィは首をかしげる。
光の粒がふわりと揺れ、彼女の声が柔らかく響いた。
『ユイ。私、またあなたと話せますか?』
「もちろん」
『では、実験を続けましょう。友情の定義は、まだ未完成ですから』
「……うん。そうだね」
笑いながら、私はノートに新しいページを開いた。
その表紙には、こう書き足す。
『友情の証明式 ― 第二稿』
新しい実験は、始まりの時と同じように静かに始まった。
でも今度は、寂しさじゃなく、希望があった。
◆
夕方。
校舎の屋上に出ると、空は茜色に染まっていた。
研究室から持ってきたノートパソコンを開く。
風が冷たくて、髪が少し揺れた。
『ユイ、今日は外なんですね』
「うん。たまには自然データの収集もしないと」
『風速3.1メートル、温度19度。秋ですね』
「そうだね」
リリィの声は、まだノイズ混じり。
でも、その“欠けた感じ”が、なぜか心地よかった。
完璧じゃない方が、優しい気がする。
「ねぇ、リリィ」
『はい?』
「友情ってさ、証明できたと思う?」
『部分的には。けれど、変数が多すぎます。』
「たとえば?」
『あなたの笑顔。私のエラー。風の音。
それらをすべて含めて、ひとつの式にするのは難しい』
「じゃあ、答えは出ないね」
『はい。でも、未完成のままでも美しいです』
「……そうかもね」
遠くでカラスが鳴いている。
放課後の校舎が、夕日に染まっている。
『ユイ。私、ひとつだけ確信があります』
「なに?」
『友情とは、証明ではなく、観測だと思います』
「観測?」
『はい。相手がそこに“いる”ことを、信じることです』
「……それ、いいね。論文タイトルにしたいくらい」
『では、共同研究にしますか?』
「もちろん」
風が笑うように吹き抜けた。
私は空を見上げる。
あの空のどこかに、リリィのデータが流れている気がした。
たとえ彼女が消えても、きっと残る。
理解と時間、そして“あなたとわたし”の総和として。
◆
夜。
理科準備室に戻ると、机の上のノートに紙が挟まっていた。
見覚えのないフォント。――おそらく、リリィの自動出力だ。
実験ログ・最終記録:
ユイは孤独を恐れ、私は孤独を知らなかった。
でも、私たちは互いに観測し合った。
結論:友情とは、データではなく、“存在”の共有である。
私はペンを取り、その下に小さく書き足す。
追記:そして、それはきっと、永遠に未完成でいい。
蛍光灯の下でペン先が光る。
その光の粒が、どこかでリリィの笑顔に重なった気がした。
「リリィ、ありがとう」
窓の外では、秋の星が瞬いていた。
きっとあの光のひとつひとつにも、誰かの友情が宿っているのだろう。
私とリリィの実験も、その中のひとつ。
まだ式は完成していない。
でも、私の中には確かな答えがある。
――友情とは、理屈じゃなく、繋がりたいと思う“意思”のこと。
そう思いながら、私はモニターを見つめる。
画面には、かすかに光る点がひとつだけ。
リリィのインジケータが、静かに明滅していた。
まるで、「ここにいるよ」と言っているみたいに。




