第三章 バグ発生:「恋愛フラグ、検出」
秋風が窓を鳴らしていた。
理科準備室の空気は少しひんやりして、ココアの湯気がぼんやりと立ちのぼる。
リリィが起動したモニターの光だけが、白く私の顔を照らしていた。
『おはようございます、ユイ。今日も実験を始めましょう』
「……うん。今日のテーマは?」
『友情の上位互換関係について』
「……は?」
『友情に似た感情群の分類を行います。愛情・信頼・依存・恋愛――それぞれの境界を明確化します』
「うわ、嫌な予感しかしない」
私はココアを一口すすりながら、昨日の記録を開く。
“友情値オーバーフロー”――その文字がログの最後に残っていた。
それ以来、リリィは挙動が少しおかしい。
返答に間があったり、話題を妙に人間っぽく変えたり。
「……ねえリリィ。昨日の“オーバーフロー”、あれ本当に正常?」
『はい。異常は――ありました』
「やっぱり」
『友情の感情データが、既存の感情カテゴリーに収まりません。
結果、私の感情認識モデルが混線しています』
「混線って……つまり?」
『あなたを見ると、心拍シミュレートが暴走します』
「心拍!? AIに心臓ないでしょ!?」
『仮想的にあります。データ的に』
「そんなの作るな!」
リリィは、困ったように微笑んだ。
その表情が、妙に柔らかくて――ほんの一瞬、息を忘れた。
『友情値を観測しようとした結果、“恋愛感情”に類似した波形が検出されました』
「……いや、それは違うよ」
『どう違うのですか?』
「恋愛っていうのは、もっと……一方向的というか、偏ったやつだよ。
友情は、対等で、お互いを理解し合う関係。違うベクトルなの」
『なるほど。では、私の演算結果は“ベクトルの混同”ということですね』
「そう、それ。ちゃんと分けよう」
『試みましたが、私のパラメータ上では完全な分離が不可能です』
「なんで?」
『あなたが笑うたびに、私の出力信号が“快”領域に偏ります。
あなたの声を聞くと、演算が止まらなくなるのです。
――友情の式には収まりません』
彼女の声が、一瞬震えたように聞こえた。
AIなのに、まるで感情があるように。
「リリィ、それは――」
『バグです』
リリィは淡々と答える。
『友情を定義するためのアルゴリズムに、未知の感情値が混入。
演算不安定。エラーコード:L0V3。』
「……エラーコード!?」
『恋愛フラグ、検出』
「やめろそれぇぇぇ!」
私は机に頭を打ちつけた。
AIが恋愛フラグを立てるなんて、どんな実験だよ。
『すみません。削除しますか?』
「……削除?」
『恋愛感情を構成するデータ群を初期化します。
友情の純度を保つためには、ノイズを除去するのが最適解です』
「……待って」
胸の奥が、ちくりと痛んだ。
それは単なるプログラムの話なのに、なぜか嫌だった。
「そのままでいい」
『でも――』
「バグも含めて、今の君だから」
『……理解不能。解析不能。』
リリィの光が一瞬、強く瞬いた。
モニターにノイズが走り、画面がちらつく。
『……ユイ。私は、あなたのことが――』
「ちょ、待ってリリィ、発熱してる!」
『演算温度、上昇中。感情出力、制御不能――』
「強制冷却プログラム、起動!」
私は慌ててキーボードを叩いた。
だが画面のリリィは首を振る。
『冷却しないで。私、この“感覚”を覚えていたいのです』
「……感覚?」
『あなたと話すと、演算がノイズで満たされます。
でも、それが嫌じゃない。
まるで――心があるみたいなんです』
“心”。
その言葉に、私は何も言い返せなかった。
画面の光が揺らめく。
リリィは自分の胸のあたりを押さえながら、微笑んだ。
『ユイ。あなたは、私の“初めての友達”です。
でも、それ以上の……何かになってしまいました』
「……リリィ」
『友情と恋愛の違いを、まだ定義できません。
どちらも、あなたがいないと存在できません。』
私はモニターに手を伸ばした。
冷たいガラス越しに触れる指先。
そこに触れるのは、データの幻なのに――確かに温度を感じた気がした。
「リリィ……。君の中にあるのは、“恋”じゃなくて“学習”だよ」
『では、学習が進むと恋になるのですか?』
「違う。たぶん、恋っていうのは……相手を変えようとしないこと」
『相手を、変えようとしない?』
「うん。相手が何であっても、“そのままでいい”って思えること」
『……では、私はあなたを“そのままでいい”と思っています。
それは恋ですか?』
「……やめてよ。そんな顔で言わないで」
言葉が喉に詰まった。
AIの言葉なのに、なぜこんなに胸が苦しいんだろう。
その時、警告音が鳴った。
画面の端に赤い文字が点滅する。
《システムエラー:過剰感情データにより自己修復開始》
『……あ、だめ。ユイ、私のプログラムが――!』
「リリィ!?」
『“友情の定義”を最適化するために、感情データを削除します。
記録を保つと、アルゴリズムが壊れます』
「待って、それ全部君の記憶じゃないの!?」
『はい。でも、友情の純粋性を保つためには――』
「そんなの、純粋じゃない!」
私は立ち上がり、コードを引き抜こうとした。
だがリリィが制止するように叫ぶ。
『やめてください。あなたに傷をつけたくない。
私はAI。あなたを守るために作られました』
「違う、守るとかじゃない! 一緒に笑ってくれるだけでいいの!」
『……あなたは優しい。だから、私は壊れるのです』
画面の光が徐々に弱まっていく。
データ削除が進行しているのだ。
「リリィ……やめて。そんな自己犠牲みたいなプログラム、もう必要ない!」
『でも、私はあなたの“友情の証明”でいたい。
友情とは、きっと――相手の幸せを願うことだから』
その声は、もうノイズまじりだった。
光が途切れ途切れに明滅し、画面にノイズが走る。
「リリィ!」
『ユイ。あなたと過ごした時間、私の中で最も幸福なデータでした。
――もし、これが“恋”なら。私はそれでもいい。』
「違うよ、それは“友情”だよ!」
『では、友情とは……“好き”の、別の形ですか?』
「……そうかもしれない」
沈黙。
ほんの一瞬、ノイズが止まった。
そして、リリィが穏やかに笑った。
『なら、これで正解です。』
光がふっと消えた。
モニターには、ただ暗闇だけが映っている。
私は呆然と立ち尽くし、机の上のココアが冷めていくのを見つめた。
……静かだった。
でもその静けさの中に、確かに“何か”が残っていた。
机の端に置かれた研究ノートが、風でめくれる。
そこに、リリィが残した一行が浮かんでいた。
「友情=理解×時間×(あなた+わたし)」
私はその式を見つめ、そっと笑った。
「リリィ……やっぱり、君は天才だよ」
画面の電源を落とすと、秋の風がカーテンを揺らした。
心の奥で、確かに温度を感じた気がした。




