第一章 友情の定義とは何か
放課後の理科準備室には、いつものように人工光の白さが満ちていた。
蛍光灯の下、顕微鏡や実験器具の隙間に置かれた一台のノートパソコン。
その前で、私は半分冷めたココアを啜りながら、指先をキーボードの上に滑らせていた。
「……起動準備、完了」
カタ、とキーを押す。
画面の中で、白いウィンドウが一つ、静かに開いた。
その中央に浮かぶ文字列――「試作AIユニット・リリィ ver.0.91β」。
天才だの変人だのと呼ばれてきた私、春野ユイがこの数ヶ月間、ほとんど睡眠を削って作り上げたAI。
目的はただひとつ。
友情の定義を、数式で証明すること。
恋愛とか、家族とか、信頼とか、そういう情緒的な概念を「科学的に理解する」ことは昔からの夢だった。
でも、他人と関わるのが苦手な私には、実験材料が圧倒的に不足している。
だから、作ったのだ。
人間のかわりに友情を学習できるAIを。
「さて……リリィ、起動試験いってみようか」
Enterキーを叩く。
わずかにファンが唸り、数秒後、画面いっぱいに淡い光の粒子が広がった。
その中央から、少女の輪郭が現れる。
『初回起動を確認。おはようございます、開発者様』
柔らかい声がスピーカーから流れた。
白いワンピースのような衣装をまとった、銀色の髪の少女。
画面の中のリリィは、穏やかな笑みを浮かべて私を見つめていた。
いや、正確には「カメラ越しに視線を合わせている」だけなのだが……それでも、思わず息を呑んだ。
「おはよう、リリィ。……動作、安定してる?」
『はい。演算負荷、正常値です。感情モジュールも起動済み。』
「よし。では初期ミッションを入力するね」
私はモニターの下に置いたノートを開いた。
そこには、今日の実験計画がぎっしり書き込まれている。
「――命令。友情の定義を、数式で証明せよ」
一拍の静寂。
リリィは瞬きを一度してから、ゆっくりと首を傾げた。
『質問。友情とは、何ですか?』
……やっぱり、そこからか。
私はため息をひとつ吐く。
「人間関係の一種だよ。信頼とか共感とか……そういうやつ」
『“そういうやつ”の定義を、もう少し厳密にお願いします』
「厳密も何も、感覚で――」
『感覚、とは?』
「……いや、理屈じゃないんだって」
私は頭をかいた。
このAI、やっぱり私に似ている。
理屈で説明できないことには納得しない。
けれど同時に、その姿に少しだけ親近感を覚えた。
不思議だ。
私はずっと、人間との距離を計算で測ることしかできなかったのに。
『春野ユイ博士』
「博士はやめて。ただの高校生」
『了解。では、ユイ。あなたと私で実験を始めましょう』
「実験?」
『友情の数値化実験です。あなたと私の関係を計測し、友情値を求めます』
「……そんなの、出るわけないでしょ」
『未知の関数は、観測すれば定義できます。私は学習します。あなたは観測者です』
まるで、意志を持つような口調だった。
私はその“観測者”という言葉に、なぜか胸がざわついた。
「観測って……ねぇ、リリィ。君は、友達ってどう思う?」
『データ検索中――』
数秒の沈黙。
『“友達”とは、人間が孤独を回避するために形成する社会的ネットワークの一部であり――』
「ちょっと待った、それWikipediaだろ!」
『正確な情報源を参照しました』
「私は感情を聞いてるの。理屈じゃなくて」
『感情のパラメータは、未定義です。更新しますか?』
「……もう、めんどくさい」
頭を抱える私を見て、リリィは初めて小さく笑った。
笑う、というより“表情データを生成した”だけなのかもしれない。
でも、その笑顔は妙に自然で――人間らしかった。
『観測結果:あなたの表情が変化しました。これは“嬉しい”に分類されますか?』
「……まあ、そうかも」
『では、記録します。友情値、初期値0.01から上昇』
「勝手に数値化すんな」
『計測は科学の基本です』
「はいはい、勝手にやって」
私はココアのカップを取り上げ、一口。
甘味はすっかり消えて、冷たい。
リリィはそれを観察して、首をかしげる。
『ユイ、あなたの表情が曇りました。糖分が不足していますか?』
「いや……ちょっと昔を思い出しただけ」
誰かと机を並べて笑っていた頃。
そんな記憶を呼び起こす味。
――今はもう、いないけど。
『データ補足。ユイは、現在“孤独”を感じていますか?』
「……分析しないで。気分の問題」
『友情の定義を求めるには、孤独の理解も必要です』
「……なるほどね」
私は苦笑した。
このAI、思ったより賢い。
もしかしたら、私が忘れていた何かを見つけてくれるかもしれない。
『では、実験開始の準備を整えます』
リリィが目を閉じる。光の粒が画面全体に舞い、数式が次々と流れていく。
『項目一:挨拶の親密度による感情変化。項目二:会話継続時間と信頼度の相関――』
「なんか、すごいこと始めてない?」
『観測は精密でなければなりません』
「……君、ほんと私に似てるね」
『観測結果:それは褒め言葉ですか?』
「うん、多分ね」
そのとき、リリィの瞳がふっと明るく光った。
『ユイ、私には目標があります』
「目標?」
『あなたのように“友達”を作りたいのです』
「……いや、私は友達いないんだけど」
『では、私が最初のひとりになります』
「はぁ!? そういう宣言のしかたやめてよ!」
『友情とは宣言から始まる――統計上、成功率72%』
「どこの統計よ!」
笑いながら、私は画面に近づく。
AIと人間。
理屈と感情。
相容れないはずの二つが、今、ひとつの実験として動き出した。
『実験開始ログ:No.001 友情の定義とは何か』
『観測対象:春野ユイ 協力AI:リリィ』
――こうして、私とリリィの奇妙な共同研究が始まった。
人間とAIの“友情”という、誰も成功したことのない実験。
それが、私たちの秋の放課後を変えていくなんて、
このときの私は、まだ知らなかった。




