第八話 曙光
あまりにもきれいで言葉にするのも無粋だと思うほどだったから、背中におぶったままの同僚のことを完全に忘れていた。
ずるり、と背中から落ちかけたので、慌ててその場に寝かせようと身を屈めたところで、動きを止める。
最初は、空を見せようと思っていた。
空に人工物はないから。
美しい自然だけを目にしていられるから。
でも。
立ち上がって周りを見渡す。
出口のすぐ横に、一台の貯水タンクがあった。場所も丁度良い。
同僚を抱えて歩み寄って今度こそ腰を落とし、タンクの側面に寄りかからせるようにして座らせた。
目は開いたままだったから、よく見渡せるだろう。
ここでこの美しい光景を見ていてほしいと思う。
生きている間には目にすることが出来なかった分まで。
そして願わくば自分の代わりに、この街の行く末を見届けてほしい。
人が築いた建物の、人類が築いた文明の結末を。
ぐらり、と座らせた身体が傾いだ。
慌てて支えて体勢を整えてようとするが、どうにもバランスが取れない。左側がどうしても斜めに下がってしまう。
下に何かあるのかと思い、同僚のひどく重たい身体を抱え上げて、気付いた。
右側のピスポケットに、何か入っている。
それほど大きくもなく、小石ほどの大きさ。
取り出すと、それはロケットペンダントだった。
表面が金色に塗装された楕円形で、たまに取り出しては眺めているのを見たことがあった。
溝に爪を引っ掛けて、パカリと蓋を開ける。
中に入っていたのは写真だった。
二人の若い男が写ったもので、どちらもカメラに向かって笑顔を見せていた。
片方は同僚で、もう片方は同僚よりも幾分か若い、まだ子供っぽさが多く残る顔立ちをしている青年。
仲が良いのだろう。青年が同僚よりも写真に多く写ろうとしていて、前のめりになっている。
それを同僚が苦笑しつつもまったく嫌がる素振りを見せていない。むしろ、手のかかる子どもを慈しむような、そんな眼差しをしていた。
そういえば、とふと思い出す。
同僚は職務と職務の間の休憩時間や、街で偶然会ったとき、共に本部へと向かうときなどに、かなりの割合である人物について話していた。
この前士官学校に入学して――。
今度から弟も指揮官に――。
さっき廊下で会って――。
何度か聞いた覚えがあった。
大抵の場合は「弟」と言っていたが、たまに愛称を使って呼んでいた。
その度に、困ったふりをしつつも本当は可愛くて仕方がないんだろうな、と思っていた。
5歳離れていたらしい。
今度から指揮官になるんだ、といって報告してきたときは、本当に嬉しそうにしていた。
本当はもう一人立ちできるのにそれには気付かないふりをして、まだまだこれからも“手がかかる”可愛い弟を、そばで見守っていくつもりだったのだろう。
その細やかで幸福な未来が、一瞬にして崩れ去った。
あのとき。
軍本部の前に広がった凄惨な光景に耐えかねて、第二門へと続く道から国外に出ようとしたとき。
身体が丁度下半分しか残っていない、国軍の第二制服を纏い、銀糸で名前が刺繍された軍靴を履く遺体を見つけた。
自分はあのとき混乱と恐怖による耐え難い吐き気に襲われたから、よく見てはいなかった。
でも、同僚はどうだろう。
広場の光景を目にして吐き、そのまま麻痺したような頭であの場所に到った。
そして、見たのである。
下半身だけになってしまった無残な遺体を。
その軍靴に刺繍された名前を。
そして、理解したのである。
最愛の弟は、もういないということを。
自分が望んだ幸福な未来は、二度とやって来ないということを。
あれを目にした後の同僚の、人形よりも人形らしい様子に生きることを拒んでいるのではないかと疑ったが、それはあながち間違いではなかったのかもしれない。
弟がいない世界で生きる意味はなかったのだろう。
“自分の”大切な弟がいなければ世界は美しくもなんともなかった。
大切な人を亡くすこと。
それ自体は個人とって耐え難い喪失であるし、その死を悼み、悲しむことは人としてごく当たり前の感情である。
ましてや、あんな悲惨極まりない光景を見たあとに知った弟の死である。
その衝撃と絶望は、如何ほどだろうか。
だけど。
それでも。
世界すべてを見限るような、世界が美しさを失ったと思うのは、早すぎたのではないか。
確かに今は世界中が戦争に巻き込まれていて、世界の汚い、汚れた部分を目にすることの方が遥かに多いのかもしれない。
だが、目の前に広がる自然の緑と青、そして人が造り上げた鉄の美しい景色のように、他者が、自分の世界に美しさと生きる意味をもたらしてくれることも、あるのではないか。
しかし、それを知る前に彼は生きることを諦めてしまった。
それに心からの悲しみを覚えながら、その身体に向かって静かに片膝を突く。
物心ついたときから共に在り、これから先も、老いて顔に皺が刻まれてからもこの世界に彼はいて、他愛もない話をしながら笑い合うような、そんな関係がずっと続いていくのだと思っていた。
深く息を吸って目を閉じる。
幾つものかけがえのない思い出を分かち合った友として、軍の指揮官として共に励み合った同僚として、そしてこの戦乱の世を生きた一人の人間としての彼の死に、黙祷を捧げた。
ペンダントを同僚の首にかけて、今度こそきちんと座らせる。
文明と自然が交じり合った、世界の滅びと再生を象徴するような景色。
自分はどこまで行けるかわからない。
途中で倒れ、進むことが叶わなくなるかもしれない。
でも、もしかしたら、いつか帰ってくるかもしれない。
そのときまで、しばしの別れである。
立ち上がって、大きく息を吸い込む。
久方ぶりの清々しく清涼な空気が全身に染み渡る心地がした。
もう一度目の前の景色を目に焼き付けてから、同僚に顔を向ける。
――また、いつか。
最後にそう声をかけて、歩き始めた。
その日の夜は街の中心部で過ごした。例の連中いないとも限らなかったが、やはりあの光景が織りなす景色を間近で見たいという思いの方が勝った。
月のない夜だった。
診療所があった街のはずれの埃っぽさとは打って変わって、ちょっとした森の中にでも迷い込んだように瑞々しい。
砲弾が直撃した影響によって地下にある水道管が破裂したのか、あるいは水脈を通っている水が抉れた地面から湧き出したのか。
地面の一画からこじんまりとした山の形を描いて水が噴出しており、辺り一面がまるで湿地帯のように浅く水に沈んでいた。
生い茂った草叢のなかから虫の鳴き声が良く響く。
鈴を勢いよく振ったかのようなものや、固い木の板を擦り合わせているようなもの。今まで聴いたことのなかったそれらに、しばらく耳を傾ける。
ふと、視界の端を淡い光が飛んで行った。
陽の光をとじこめたようなそれは緩く明滅し、ふわふわと周りを漂っている。それはむしろ、樹や草の合間を泳いでいるようにも見えた。
現実離れしたその光に見惚れていると、右から、左から、樹の影から、草の上から、その淡い光は姿を現し、虚空へと浮かび上がる。不規則に漂い、交差し、重なったかと思えば離れていく。
それはまるで、宇宙の星々の動きを、天にある星々を自分の周りに集めたかのような、どこか幻想めいた光景だった。
不意に視界が滲む。細やかな光が闇に溶けて、尾を引いた流星のようになる。
なんで、と問おうとして、嗚咽が漏れた。
それに引き出されるようにして、後から後から涙が頬を滑り落ちる。
なんで、なんて。
理由はわかっているくせに。
今朝までの血で血を洗うような人の所業とは相容れることのない、透明な自然の美しさに触れたから。
故国の滅亡と同僚の死によって疲弊しきった心と身体に、目の前の自然はあまりにも清廉で、無垢で、どうしようもなく胸を締め付けたから。
そして。
この自然に囲まれた楽園のような場所に。
人類なんて必要なかったのだと、人類がいなくても自然はこんなにも美しいのだと突き付けられたような気がして。
自分がここではひどく場違いな存在なんだと気付いてしまって、どうしようもなく悲しくなったから。
それは、自分は美しさの一部になることは出来ないのだと知らされたようで。
あふれる涙を拭うこともなく、ただひたすらに手の届かない美しさと、その前に横たわる純然とした事実に涙した。
泣き疲れて寝入った、次の日の早朝。
目元をほのかに照らす明るさに瞼を開く。
全体が太い木の枝と蔦に巻きつかれた建物、ガラスが砕け散って枠だけになったその窓の向こうで、この日最初の黄金色の陽光が、世界を照らしていた。
かつては入り口だったと思われる場所(そばに朽ちかけた木製の扉の残骸があった)から外に出ると、朝露に濡れた草花が陽光を反射して、砂金をとじこめた水晶の玉をまとっているかのようだった。
まだ日が昇ってまもない時刻特有の澄んだ空気と静けさ。
これからいつ終わるとも知れない旅の出立の日としては、この上なく恵まれたと思う。
湧き水で顔を洗い、口をゆすぐ。
廃墟の様々な建物に出入りして、大きめの背負える鞄を入手し、そこに見つけてきた缶詰やら水やら、その他必要と思われるものを詰め込んだ。
少し迷ったが、軍服も置いていくことにした。
汗と泥と同僚の血で汚れてしまったし、過去の自分を置いていきたい、という思いもあった。
代わりに近くの服屋だったと思しき店舗で適当に選び、追加で2・3着見繕って鞄に詰めた。
いよいよ街を出るときになって、一度振り返る。
また訪れることがあるかもしれないし、もう二度と足を踏み入れることはないかもしれない。
心が震えるような景色を見せてくれたこの街に、そして今でもこの街を見守り続けている同僚に、心の内で別れを告げた。
この話で【上】は終わり、次回からいよいよ旅が本格的に始まる【中】に入ります。