第十一話 事件
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それは、瞬きをするよりも短い、刹那の出来事だった。
好奇心に勝てずに、逸ってしまった。
まだその正体も実態も分からないもののはずだったのに。
慎重に慎重を期して扱わなければならなかったのに。
目の前に横たわる同僚の、荒い息。呻く声。
白い研究衣に滲んで広がる、青い鮮血。
それらが耳から、目から入り込み、身体の内から容赦なく自分を責め立てていく。
それらに耐えきれなくなり、震える脚が限界を迎えてそのまま頽れる。
おろおろと持ち上げた手も笑ってしまうくらい震えていて、自分が想定する最悪の未来を全力で拒絶しているかのようだった。
もし。
もし、目の前の、この、目の前の、研究員が、もし、もし、僕のせいで、もし――。
――もし、死んでしまったら。
僕が殺したことになる。
その漆黒の宇宙のような、あまりにも暗く黒い未来が言葉として形を成した途端、目に何も映らなくなった。
周囲で何事かを叫んでいる同僚たちの声も、大きく反響するだけで頭が言語として認識してくれない。
いよいよ身体が恐怖に慄き始め、お前も負傷したのかというくらいに呼吸が大きく乱れ始める。
せっかく研究員になれたのに。
これからは、もっと広い世界を見ることが出来ると思ったのに。
いつか大きな調査隊を率いて、自分が存在するこの無限に広がる宇宙の神秘を解き明かすような、そんな発見がしたいと思っていたのに。
どうして自分は。
どうして――。
「――くん! ラノくん!! ラノ―a―25!!」
しっかりしなさい!! という声と共に、肩を大きく揺さぶられる。
ぼんやりと顔を上げれば、息を弾ませた副所長が目の前にいた。
しっかりして、落ち着きなさい、と決してがなり立てているわけではないのに、力強い言葉を掛けられる。
迷子の子どもがやっと助けてくれる優しい大人に巡り合えたときのような、そんな安心感がじわりと心に満ちて、思わず頷きを返した。
それを確認し、立ち上がって室内を見渡しながら「今回調査を担当した者は全員いるか」と彼が問う。
複数人が首肯すると、なるべく全員を部屋の中央、調査台の周りに集めた。
扉が閉ざされていることを確認し、おもむろに口を開く。
「もうすぐ医療・看護班が来るだろう。それまでに全員の認識を改めたい。まず、怪我を負わせてしまったのはラノくんで合っているかな?」
「……はい。僕です」
同僚たちの逡巡しつつも自分に向けられる視線を感じながら、未だに小刻みに震える身体を台の縁を掴むことで何とか支え、返答した。
どんな処分が待っているのだろうか。
どのようにして、僕の夢は潰えるのだろうか。
恐怖で、緊張で、顔が上げられない。
「異なる認識を持つ者はいるか」
誰も声を上げなかった。
「よろしい。では総員、私が今から言うことを事実として認識しなさい」
強い意志の光を眼に宿しながらそう前置いた副所長の次の指示に、誰もが言葉を失った。
「グレイヴィアンの遺物を触り、研究員一名に重体となる怪我を負わせたのは、本調査に参加していた、私だ」
「……なっ」
思わず振り仰いだ副所長の顔は、とくに取り乱したり自暴自棄になったりしているようでもない。
少し強張った面持ちをしながらも、粛々と言うべき当然のことを言った、そんな風だった。
「何を、仰っているのですか?」
掠れた声で発した自分の問いは、おそらくその場にいた総員の問いでもあったと思う。
「私は副所長という立場にいるため、普段研究には参加しないが今回は興味本位で参加した。そういうことにしておけ」
まじまじと、副所長を見上げる。
背が高く、恰幅の良い体躯からは歳を重ねながらも衰えというものが見られない。
官立研究所の一研究員として文明における最先端の技術と叡智に触れ続け、己の才覚と好奇心を恃みに経験と成果を重ねた。
その積み重ねの末、研究所の指導者を傍で支え続ける地位を手にした、自負。
その後も日々波のように押し寄せる情報と広大な宇宙という未知に対峙しながら、マクロプロスの更なる発展のために所員の指揮を執り、星内外における研究活動の統率を補佐してきた、矜持。
そしてそれらの自信と経験に裏打ちされた圧倒的なまでの、威厳。
放たれる威風堂々とした風格に気圧され、つい「はい、分かりました」と言ってしまいそうなものだが、そんなことは自身の矜持が許さなかった。
「何を仰っているのですか!」
強く問えば、ちらりと一瞬だけ目線を向けられる。
「君ではなく私がやったことにしろと、そう言っているだけだ」
「それが、何を意味するかお分かりですか⁉」
「では問うが、君こそこの大きな事件が君の人生にどのような影響を及ぼすか想像したかね?」
今度こそ自分の方に向き直り、正面から射抜くように見つめられる。
「……っ。しかし、それは当然の報いでしょう。それほどのことを、僕はしてしまった」
「……ふむ」
何かを考えるように間を置くと、そのまま目線を負傷した同僚の方に向ける。
「先ほど彼の容態を少し確認したが、脈はある、意識もある、受け答えも問題なし。大量に出血してはいるが応急処置も施した。何とかなるだろう」
死にはせんよ、と穏やかながらも励まされるような口調で言われて、今度こそ全身の力が抜けるような心地がした。
空気が抜けるように台に突っ伏すと、自然と大きな安堵の溜息が漏れた。
横になっている同僚の方に目を向けると、弱弱しい微笑みを浮かべながらも、ゆるゆると片手を挙げて応えてくれる。
「あぁそうだ。君、今の話を聞いていたと思うが、誰かに事の顛末を聞かれたら私にやられたことにしなさい」
もう話す体力がほとんど残っていないのだろう。
副所長の言葉にも片手を挙げて応じる。
すると、頃合いを見計らったかのように医療・看護班がどやどやと駆けつけてきた。
ぐったりと横たわる同僚を励ましたり何事か声を掛けたりしながら慣れた手つきで担架に乗せ、副所長とも二言三言交わしてから出ていった。
辺りに静寂が落ちる。
残された者の間から肩の力が抜け、少しだけ緊張が解れるのが手に取るように分かった。
その静寂を破るように、辺りに満ち始めた解放感に流されないように、少し語気を強めて「どういうことですか」、と再度問いかけた。




