第五話 知らないことを、知るために
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自分に相容れない意見を排除するために人は武器を取り、暴力によって他者を黙らせていった。
負の感情が負の感情を呼び、暴力が暴力を呼び、死が死を呼んだ。
戦争が長引けば長引くほど人々の思考は針の穴のごとく狭まり、いつしか人々は親しい人を殺した者たちへの復讐のために戦っていた。
思想が異なるあの人は敵、自分の大切な人を殺した奴らは敵、そして、他者は敵。
戦争が始まって100年、もはや殺し合いが始まった当初の理由を正確に述べることが出来る人間がいたのかどうか、定かではない。
自分は軍に所属していたから、それまでの経緯を記した文書や交戦状況、どこの何と会敵したのかなどは一般市民よりも把握できていたと思う。
軍本部の地下深くにある倉庫に、当時の記録などがまとめて保存されている。
最近になってそういった文書の類を整理することが増えたから、紙の束を分類する傍らでざっと目を通したりしていた。
それは100年前に書き残されたもので、一世紀の間ダンボ―ル箱にしまわれて黄ばんでいた。
全世界を巻き込む戦争を始めた当時の為政者たちは、自分たちの主義主張に異論を唱えられることを殊のほか嫌った。
始まりは、一年に一度開かれる先進国の首脳会議だった。
これは会議に参加しないその他の国にも影響を及ぼす非常に重要なもので、地球における自然破壊がその年の議題だったそうだ。
A国が、森林破壊が深刻だから木の伐採を制限しようと提案した。
それに対してB国は、林業は我が国の主要産業の一つであるからそれには納得しかねる、として今地球上で最も問題になっている地球温暖化を何とかすべきだと提案した。
続いてC国が、そもそも森林破壊や地球温暖化よりも気候変動を早急に解決すべきだと進言した。
気候が安定しなければ作物がうまく育たず、人間のみならずその他の生物にも影響が出る。
それに、気候変動は森林破壊や地球温暖化の問題をも内包するので、これについて議論することはその他の問題をも解決することになり一石二鳥だろう、と得意げに述べた。
D国が、そもそもこうした自然破壊が起きているのは人口の増加によるものではないか、と疑問を挟んだ。
人口が増えすぎた結果、土地開発のために森林が伐採され、温室効果ガスが増え続けた結果気候変動が起きているのではないか、と冷静に指摘した。
三者三葉、いや四者四葉の意見であったが、各国の意見はそれぞれ筋が通るもので、一つ一つ話し合い、お互いがお互いの至らぬ部分を補ったり自国の現状を顧みたりして更なる議論を交わせば、地球の自然に改善の兆しが見られただろう。
しかし、彼らはそうはしなかった。
まず、自分の意見が受け入れられなかったことに猛烈に腹を立てた。
自分の意見が一番正しい、自分はこれほどまで自然に対して深く思いやりを持った意見を提示しているのに、なぜ反論する余地があるのか。全くもって理解できない、と。
運が悪かったと言えばそうなのだろう。
自己中心的な人物が一国、しかも先進国の頂点に立ち、それが四人揃ってしまったのだから。
だが、果たして本当に、「運が悪かった」だけなのだろうか?
人類は、その頃から必要以上に競争しようとしていた。
他人よりも良い成績、評価、待遇、生活、地位、名声……。
そして他人よりも多くの富と大きな権力を欲した。
何が人々をそこまで駆り立てたのか、何が人々をそのような欲求へと突き動かしたのかはわからない。
一説によると、過度に発達した情報社会によって容易に他人の生活を覗き見ることができ、それによって自己の承認欲求がこれまでにないほど高まった結果だとされる。
こうした事態に警鐘を鳴らす研究者もいたが、国には立ち向かえなかった。
彼らが書いた論文も今や灰と化している。
このような社会の風潮の中、人々は次第に「自分が如何に他者よりも優れているのか」という点に重きを置くようになった。
自分が他者からどう見られているか。羨望と驚嘆と崇敬の念を集めるために、自分を磨き上げることに注力した。
それはやがて、自分さえ良ければ後はどうでもいい、という自己中心的な考えをする人間を量産することになった。
苦しい努力をして素晴らしい成果を手にした自分は誰よりも立派である。
自分よりも劣っている人間は、自分よりも努力をしなかった怠惰な人間。
そしていつ何時でも端末を開けば自分が知りたいことを即座に知ることができ、地球の裏側の情勢だって把握することが出来るのだから、自分ほど世界について見識を持っている人間はそういないだろうと「思い込み」始めた。
その、あまりの無知と傲慢。
古代某国の賢者は「無知の知」という言葉を残したが、現代においてそれを自分に当てはめて考える人間はいなかった。
なぜなら、自分は無知ではないから。この言葉は、自分以外の他者を指しているから。
なるほど彼らは幸せだったのだろう。
自分は誰よりも素晴らしく、自分は世界について知っているという気になれたのだから。
自分に使われる他者は恵まれているとさえ思っていたのだろう。
これほどまでに有能な自分の下で働けるのだから。
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頭の中をぐるぐると駆け巡る胸糞悪い考えから、意識を現実へと引き戻す。
目の前にはどこまでも晴れ渡った抜けるような青空と、その下にはどこまでも荒れ果てた虚無のような焦土。
これが人類の営みの結果であった。
人の手が入らなかった部分は透き通るように美しく、人が散々に手を加えた部分はこうして死に絶えていく。
自分は先ほど、いつか昇進するためにもっと軍功を挙げなければ、と思った。
自分の言う軍功とは、敵勢力との戦いで勝つこと。
自分は司令官で、大勢の部下を持っていて。
でも、戦うのは彼らだった。
自分は国の最奥にある安全な軍本部から指示を出していただけだ。
もし自分が昇進する未来があったとして、「これは自分の努力の結果だ」と考えはしないだろうか?
そして如何に自分が素晴らしい上官で、どれほど的確な命令を戦地に飛ばしたかを密かに誇っただろう。
戦地で、前線で、自分の部下がどれほど犠牲になっているか考えもせずに。
その昇進は部下の犠牲の上に成り立っているものだと、一瞬たりとも考えずに。
やっと、気付いた。
自分の頭にどれだけ花が咲いていたか。
どれほど自己中心的で、傲慢で、不遜で、おめでたい人間だったか。
そして、他者を思いやっていなかったか。
――人類が百年の間に失ってしまったもの。
それは、「他者への思いやり」なのではないか。
自分は部下を思いやることをしなかった。
戦地に赴く部下をまるで人間ではなく、自分の軍功を挙げるための駒のように考えていた。
兵士なのだから戦地には向かうのは当たり前である。
それでも、彼らを一人の人間として扱うか、一つの駒として扱うかは雲泥の差である。
実際に、戦地に赴く部下に激励の言葉をかけたことなど一度だってないし、無事に生還した兵士たちに労いの言葉をかけたこともなかった。
もちろん、犠牲になった兵士の遺族に弔問を行うことも一切ない。
ただ淡々と、出撃した兵士の総数と死亡数の記録に目を通し、結局その戦いでは勝ったのか負けたのか。その点において他よりも勝る関心事などなかった。
死んだ兵士の名前や階級、所属が記されたリストに目を通す時も、これだけ死んだのか、とか今回は少なくて済んだな、とか「数」でしか認識していなかった。
一人一人の人生や、帰りを待っていたであろう家族について思いを巡らし、ほんの数秒の間だけでも黙祷を捧げようという思考に至ることなどついぞなかった。
そして100年前の為政者たちも、本当の意味で他者を思いやることは出来なかった。
自然破壊をいかにして止めるかという議題は、人々の生活や暮らしに関わる重要なものである。
ここでいう「人々」は、彼らにとって自分が含まれていなければ考えるに値しない物事だった。
A国は鉄鋼業が盛んだったから、国内に森などはほとんどなかった。だから、木なんてどうでも良かった。
B国は林業が盛んだったから、木の伐採なんてやめるつもりはなかったし、それで自分の生活を変えられるのも嫌だった。
C国は議題云々よりも、自分が首脳会議の場にいること、そこで発言する権利があること、そして先の二名の意見よりもより有益なものを提示できた自分自身に酔っていた。
D国は他の国よりも人口が少なく、自分たちが可能な限り楽をすることが出来る策を提案した。
彼らは自分が得をする上に、自然に対しても非常に有効な提案が出来る自分自身の有能さに満足していた。
つまり、真に自然問題について考えている人間は、そこにはいなかったのである。
そして彼らは自分の意見が受け入れられなかったことに憤慨し、武力によって捻じ伏せようとした。
結果、自然破壊を止めようとしていた会議は、すべての自然を破壊するきっかけとなった。
これは罰だ、と思う。
意思の疎通を図り、互いが互いを理解することを放棄した、罰。
隣を見ると、同僚は未だに空を瞳に映している。
これからどうすれば良いのか。食料もなければ武器もない。
軍人なのに拳銃すら携帯していないんだな、と自分自身に呆れ返る。
これでは敵が現れたときに何も出来やしない。
本当に自分は、戦争を知ったつもりになっていただけなんだな、という羞恥の念が湧き起こる。
本当に、何も知らない。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
そうだ、自分は何も知らない。
傲慢と高慢に生涯気付かないままこの世を去るという恥だけは、晒さずにすんだ。
きっとこの100年の間に死んだ人間のほとんどは、その恥を恥とも思わずに死んでいったのだろう。
しかし自分は気付いた。気付くことが出来た。
だから、知らなければならない。
軍人なのに戦争すらまともに理解していなかったのだから。
今まで国を出たこともない。
だから世界を旅して、いろいろ見て、聞いて、知らなければならない。
自分ではない他者の意見を、人は知ることが出来ない。
そうであるのならば、人は知る努力をするべきだった。
他者が何を感じ、何を思い、何を守ろうとしているのか。
対話をすることによって他者を知るべきだった。
過度に他者と自分を比べ、我が身可愛さで自己保身に走るべきではなかった。
もう、世界にどれほどの人が生き残っているのはわからない。
それでも、できるだけ会って、話を聞いて、お互いを思い合うことが出来れば、まだ道はあるかもしれない。
旅に出よう。
知らないことを、知るために。
恥を自覚しながら見て見ぬふりをしないために。
それが、人類の人類たる本質なのだろうから。
第五話まで来ました!
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