第四十二話 凱旋
痛みが、何度も何度も、鋭い牙を持った虫のように肺を食い荒らす。
そのあまりの痛みに飛び起き、月明りが照らす暗い廃墟の中でのたうち回るのにも、驚きを覚えなくなる。
木の杖に掴まっていても手から力が抜け、そのまま地に倒れ伏すことが多くなった。
その度に、転がっていた杖を這って取りに行き、再び両手で握り締めて前に進む。
見えている景色が唐突に二重になり、ぐにゃりと歪んで、その場に蹲ることも増えた。
世界が回転しているかのような眩暈から解放されて目を開けても景色はぼんやりしたままで、その輪郭を失った光景が、段々と自分が常に見る世界になった。
そして、ふいに、その街が近付くにつれて、世界がはっきりとした輪郭を帯び始めた。
その街の、鉄の廃材が積み上がったかのように崩れた門を抜けた時に去来したその圧倒的なまでの感情は、恐らく郷愁と言うものなのだろう。
遠い昔、街路樹が中央に並ぶこのメインストリートを何度も歩いた。
子どもの頃の友と、かつての同僚たちと。
道の上を覆うように生い茂った葉が涼しく、その間から日の光がきらきらと人々の顔を照らしていた。
あの頃は、まだ多くの知り合いがいて、仲間がいて、自分は、ここに1人では無かった。
街路樹の幹や枝が伸び、両脇に並ぶ店にあった植物とも絡まって、遊歩道が緑で出来た円形のトンネルのようになっていた。
それが陽光を帯びて、淡く薄緑に輝いている。
故国がそんな自然の美しさと共にあることを嬉しく思いながら、植物のトンネルを進んで行った。
そして気付く。
あぁ、春だ、と。
新緑の青々とした香りが傷付いた肺を満たし、癒してくれていた。
暖かな光が、寒さに凍えてかさつき、所々罅割れた皮膚を労わってくれている。
それは、辛く苦しい季節を乗り越えた自分を祝福し、長い長い時を経て再び祖国の地を踏んだこの国そのものが、自分を労ってくれているかのようでもあった。
そんな春の訪れに心を躍らせながら、軍本部の正門前にある広場に着いた。
暫く黙ってその光景を眺める。
あの日、自分はこの場所で、“戦争”を知った。
軍の少佐として前線に向かわず、軍の本部で部隊に司令を飛ばし、部下を使って軍功を挙げる。
それで戦争を知った気になっていた自分が、本当の“戦争”を知った場所だった。
赤黒い液体を噴き上げ続けているかのようだった噴水に水は無く、蔦が何重にも絡まってトピアリーのようになっていた。
どす黒く濡れてぬらりと光っていた石畳は、木の根が縦横無尽に走り、その間を可憐な花が埋めていて、あの凄惨な現実など無かったかのように、全てを美しく蘇らせていた。
もし、この地球を訪れる誰かがいるのなら。
この自然を美しいと思い、その先もずっと守っていって欲しい。
そんな存在などいるはずが無いと分かっていたけれど、そう願わずにはいられなかった。
盛り上がる木の根や植物に足を取られないように、慎重に杖を突きながら、第二門に向かう。
この通りで、同僚は下半身だけになった弟を見た。
そして、生きることを諦めてしまった。
ここも、周囲の田畑と道との境界がほとんど区別できなくなっており、緑の絨毯の中に薄っすらと道だったものの面影が認められるだけになっていた。
しかし、これで良いのだ、と思う。
元あったものを、元あった場所に。
人が行ったこと、それがもたらしたもの。
その悲惨さは、今も土の中に眠る人々と、当分朽ちることの無い、人が生み出した大量の凶器が証明してくれるだろう。
本当なら、教訓としてこの街もそのままの姿で残すべきなのだろう(誰に対する教訓かは分からないが)。
それでも、この星が、元の美しい星に還るのを見たかった。
故国が、美しさの一部になるのが嬉しかった。
そんな感慨を抱えながら、第二門に到達する。
そこで、緑に包まれた故国を振り返った。
きっともう、自分は二度と、この国を見ることは無い。
この地に足を踏み入れることも無い。
自分に人生の半分と、沢山の思い出を与えてくれたその国に。
心からの敬意を表して、礼をした。
自分は、遠回りをしていたのだろう。
だが、最後に故国を訪れることが出来たのだから、幸運な間違いだったとも言える。
そしてこの道は、自分が同僚を引きずり、人と戦争に思いを巡らして、旅に出ようと決意した場所だった。
まさか、これ程までに長い旅になるとは思わなかった、と苦笑する。
人生をかけた旅に出るつもりではいたが、早々に倒れると思っていた。
そんなことを思いながら、辺りを見回す。
荒野だったその場所は、花が咲き乱れる野原になっていた。
白や薄紫、薄桃と言った色彩の花が恐れるものなどないかのように伸び伸びと咲き、蝶が降り注ぐ陽光と戯れるように、その上をひらひらと舞っていた。
遠くで跳ねているのは、兎だろうか。
もし誰かに、あの日この場所でこんなことがあった、と言っても、あまり信じてもらえないかもしれない。
それほどまでに、全てが暖かかった。
当時、同僚を引きずりながら歩いてかなり時間が掛かった。
そして今、自分もまともに歩ける状態ではない。
だからきっと、彼に会うのは日暮れになるだろうな、と思いながら、ひたすらに前に進み続けた。
緑を踏みしめながら、あの日背負った同僚の重みと、汗が身体を流れ落ちる感覚を思い出す。
それは、初夏のことだった。
天頂にある太陽がじりじりと肌を焼き、凄惨な現場を目にして吐いたままの口が酷く気持ち悪かったのを憶えている。
今、自分は1人である。
それなのに、身体の重みはあまり変わらないように感じた。
唐突に足から力が抜け、がくりと膝を突く。
それを叱咤し立ち上がろうとするも、杖がずるりと滑って前に倒れる。
もう、とっくに限界は超えていた。
故郷を見たときに明瞭だった視界も、次第にぼんやりとした曖昧さを取り戻し始めている。
杖を立たせ、必死にしがみついた。
彼のいる街はもう見えている。
あと、少し。
その街は、初めて訪れた時より自然に包まれていた。
当時は街の中心部だけだと思っていたが、今では埃っぽかった街の端も遍く自然の中にある。
とうに日は暮れて、空には星が瞬き始めていた。
彼が待つ建物は、そこまで離れていないはずで、記憶の通りそれはすぐに見つかった。
逸る心を抑えて、慎重に中に入る。
待合室と思われる場所の壁には植物が貼り付くように繁茂し、緑の壁と見紛うほどになっていた。
床一面にも海のように緑が生い茂り、脚にぐるぐると植物を絡ませたソファが、緑の海の上に浮かぶ島のようだった。
そして、診察室を見た。
同僚が銃弾に斃れた床も、自分が息を潜めていたロッカーも自然に取り込まれていて、それだけでもう、十分だった。
そしてこれが最後の関門かな、と思う。
確か、5階の上に屋上があったはずだ。
ここで力尽きるのは嫌だな、と思いながら、細心の注意を払って一段ずつ上り始める。
2階を過ぎた頃から息をするのが辛くなり、3階に着く頃には立てなくなっていた。
同僚を背負い、敵を警戒して息を潜めながら上っていたあの頃よりも、遥かに体力が持たない。
もう杖を持っていくのは限界だと思い、ここまでありがとう、と礼を述べて床に置いた。
そして、階段を這って行く。
腕を引っ掛け、あるいは段差の縁を掴んで身体を持ち上げる。
血が身体を巡っていないかのように頭がぼんやりとして、手足の先から急速に冷えて行く。
もう少し。
そう自分に言い聞かせる。
鞄の中にいる彼らも、背中を押してくれている気がした。
そして――。
あの、扉の前に着いた。
思いっきり腕に力を込め、身体を半分だけ持ち上げてノブに手を掛ける。
体重をかけるようにそれを回し、身体を押し付けるようにして扉を開けた。




