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楽園  作者: 雨宮寿霖
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第四十一話 生命

 




                 ***






 瓶の底に残った最後の一粒を、口の中に入れた。






 最初は慣れなかった、そのじんわりと広がるような苦み。



 これを味わうのももう最後なのかと思うと、酷く名残惜しかった。








 (しば)し舌の上で、もう二度と味わうことのないその苦みを堪能するようにゆっくりと転がしてから、ごくりと飲み込む。








 胸を押さえて(うずくま)ったままじっとしていると、肺を突き刺さすような鋭い痛みが、潮の引くように去って行った。














 起き上がろうと手を突いたときに、一枚の葉を掴んだ感触がした。



 体勢を整えて手を開くと、砕け散った枯れ葉が手の平に貼り付いている。










 それを見るともなしに見遣りながら、まるで自分のようだな、と思う。










 一つ息を吐き出して、天を見上げた。

















 高く高く澄み渡る、雲一つない青空。





 身体を撫でて行く風はどこまでも邪気の無い心地良い清涼さで、時折金木犀の甘い香りを含みながら色付く世界の間を吹き抜けていった。










 全ての動植物が、来たる季節のために身支度を整えるとき。



 この世界が、一年の中で最後の華やぎを見せるとき。










 そんな自然の舞踏会が終わりを迎え、扉が閉じられたとき、冬がやって来る。

















 男がくれた薬は、自分の旅を大いに助けるものだった。






 初めてその薬を口にしたとき、久々に胸の痛みを忘れて前のように歩けるようになったと気付き、大いに感動したものである。






 一度飲むと、その日は痛みがあっても微弱なものになり、身体の不調を忘れて歩くことが出来た。
















 だが、内面の痛みは誤魔化せても、外面は正直だった。

 





 己の容貌は、まるで真実を映す鏡のように、日を追うごとに瘦せ衰えていく。











 男の薬は痛みを止めるもので、決してこの(やまい)を治すものではないことを知った。












 己に残された時間は、そう多くはないだろう。




 だが、その時間を出来る限り引き延ばしてくれている。









 だから、自分はここまで来ることが出来た。















 しかし、彼の薬はもうない。




 そして自分が同僚のいる街に辿り着くためには、冬を越さなければならない。













 果たして自分は、“生”をまるで感じない、あの極寒の季節を生き抜くことが出来るのか――。















 心の内で不安が鎌首を(もた)げたとき、男の顔が浮かんだ。












 ――そう信じれば良いんだろう?












 人に力を与えるような、きっとそうだと思わせてくれるようなその笑顔を思い出して、強張った顔に微笑が浮かぶのを感じる。













 きっと大丈夫。







 自分は辿り着く。













 そう信じて、鞄を背負い直す。









 自分が行き着くことを目指すその地を真っ直ぐ見据えるように前を向き、舞い散る紅葉の中、一歩を踏み出した。




















 それは、拷問に等しかった。






 息を吸えないほどの痛みが、肺を襲う。









 その痛みから逃れようとしても、誰かに肺を握り潰されるかのような力で掴まれ続け、杭を力任せに抜いては刺すことを繰り返されているかのようだった。















 身体の芯から凍えるような冷たい風を少しでも避けようと入った廃屋の中。








 横になっていた埃(まみ)れの寝台から転がり落ち、冷え切った床の上をのたうち回る。




 手が無意識に薬を探して彷徨(さまよ)い、もうそれは無いのだと気付いて虚空を握り締める。








 痛みにもがく足が朽ちかけた木の棚を蹴り上げて破壊し、手が床に落ちていた薄い(とばり)を引き裂いた。






 腹の底から絞り出したかのような叫びが、何度も口を突いて出る。










 声を出さないと、身体の中を暴れ回る痛みが行き場を失って、そのまま皮膚を突き破りそうだった。















 どれくらい時間が経ったのか、痛みが徐々に弱くなり、消えて行く。




 荒い息を吐いたまま、己の熱を全て吸い取っていく冷え冷えとした床の上で、だらりと力なく仰向けになる。











 硝子の()められていない、ただの穴と化した窓から吹き込む凍えるような冷たさの風が、身体中から流れ出た汗をそのまま薄い氷の膜にしてしまったかのようで、酷く寒かった。










 その風をどうにか防ぐことが出来ないものかと窓辺に目を遣って、気付いた。












 雪。












 天より舞い落ちるそれは、灰色に切り取られた枠の中を音もなく静かに通り過ぎて行く。

 






 それは、本格的な冬の到来を、己に示すものだった。













 風が強く吹き、入り込んだ雪が部屋の中を舞う。





 その雪片が、頬に落ちた。









 ひんやりとした冷たさと、それが熱で溶けていく感覚。








 少し顔を傾けると、それはするりと頬を滑り落ちて行った。












 しばらく窓をぼんやりと見つめながら、頬に残った一本道のような跡の冷たさに意識を向ける。




 そして、それをゆっくりと手で(ぬぐ)った。













 慎重に立ち上がって、白い息を吐く。









 きっともう、自分には休んでいる時間など無い。










 一度止まり、そこで倒れれば、もう前には進めない。





 ここから先は、自分の限界など気にしている余裕も無い。












 それを心に刻み、廃屋を出る。












 そして身を切るような寒さと、激しさを増す雪の中を、歩み始めた。




















 手足の感覚が無くなる程の冬の寒さと、己を労わらない無理な行軍は、確実にこの身体を(むしば)んでいた。






 視界を遮るように降りしきる大雪に、世界が真っ白に染まる。




 天地の境が無くなり、辿って来た道に付けた足跡もすぐに埋められる。











 これから目指す先も、周りの景色も、一切が白く、曖昧な輪郭をしていた。










 雪が音を吸収し、強く吹き付ける風の音以外何も聞こえない。












 この世で色を身に(まと)っているのは自分だけなのではないか。






 ひょっとして、この世界に存在するのは、自分1人なのではないか。












 横殴りに振る雪を避けるように下を向いた頭が、そんなことを考える。













 そんな風に進んでいたある時、それはいつにも増して鋭い、刃物のように身を切るような冷たさを帯びた風が吹く日だった。








 吸い込んだ空気が肺を切り裂くように暴れ回り、痛みを覚えて激しく咳き込む。













 そして、血を吐いた。











 降り積もった雪の上に鮮血が(ほとばし)り、口から赤い雫が滴り落ちる。





 荒く呼吸を繰り返すたびに、切り傷を付けられたかのような肺がズキズキと痛んだ。














 それでも、それを美しいと思った。












 唐突に現れたその瑞々しい鮮やかな赤さは、白一色に塗り潰された“無”の世界に咲く一輪の花のように、自分に鮮烈な印象をもたらした。








 それはまるで、色の無い死に絶えたかのようなこの世界と、その中で生きようとする自分を表しているかのようで、自分が生きていることをはっきりと教えてくれるものだった。














 口の中にわだかまる血の味と、鼻に通り抜ける濃い鉄臭さを感じながら、手の甲で口を拭う。










 そこに付いた赤さを見て、自分がまだ、確かにこの星に生きていることを、誰にともなく感謝した。



















 

 ある朝起きたとき、酷い(だる)さを覚えた。




 それをあまり気にしないようにしながら身体を起こし、いつものように手足に力を入れて立とうとして――出来なかった。











 足に、力が入らない。












 焦りが頭の中を駆け巡り、無理やり立ち上がって前に進もうとして、正面から倒れる。








 愕然とした。









 自分は、この誰もいない、どことも知れない街の中で、誰に気付かれることもなく、誰かと共にいることもなく死に、ひっそりと身体が失われて一人寂しくこの世界からその存在が忘れ去られていくのか、と。









 その焦りと絶望をない交ぜにした感情が腹の中に満ち溢れ、力となって身体を動かし始める。



 傍に置いていた鞄を掴み、腹這(はらば)うようにして戸口に向かった。












 鞄を背負い上げ、戸口の枠を掴んだ手に全身の力を思いっ切り込めながら、何とか立ち上がる。






 しかし、何かに掴まっていないと、そのまま倒れ込みそうなほど足に力が入らない。











 ゆっくりと、崩れかかった家の壁や木を伝いながら、この方法を(しばら)く採るしかないか、と考えていた時に、偶然、それを見つけた。











 常時に見れば、何の変哲もない木の棒なのだろう。











 だが、今それが目の前に現れたのは、もう天の助けとしか思えなかった。













 太い木の枝がそのまま腐り落ちたのか、若木が育たずに倒れてしまったのかは分からなかったが、高くも低くもなく自分の背丈に会っており、かなり体重をかけても折れそうにないほど丈夫なものだった。














 両手でそれに掴まり、少し歩いてみる。




 すたすたと滑らかに歩ける訳では無かったが、何かを伝って歩くよりも遥かに速く前に進めた。














 雪が止み、吹き渡る風がその厳しさを緩め始めている。
















 春は、もうすぐそこだ。




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