第三十九話 世界
まるで、不意に現実に連れ戻されたかのような、そんなぼんやりとした感覚に浸っていると、「なぁ」と少し震える声で呼ばれた。
「何で、この世界はこんなになっちまったんだ」
そう問う男は今にも泣きそうで、噛み締めた唇から漏れる息が揺らいでいた。
「何で、息子は殺されたんだ」
彼の頬を、一筋の涙が滑り落ちた。
その問いに、自分がどう答えるべきか分からなかった。
きっと人間が争いを始めたのは、“思いやり”の心を無くしたからなのだろう。
他者への理解と尊重を無くし、自己中心的で傲慢で不遜でおめでたい人間が溢れ返ったから。
しかし、それを男に伝えたくなかった。
これ以上、怨みを抱えて欲しくなかった。
身体を起き上がらせて暫し黙考し、答えを待つ男を見据えた。
「あなたの息子さんは、今、この時代に生まれたから、殺されたんです」
誰のせいでもない、と告げると、「いや違う。悪魔どもが悪いんだ」と弱弱しい声が返る。
「確かに、実際にそれを行ったのはその人たちなのでしょう。ですが、それは偶然彼らだった、と言うことも出来ます。先ほども述べましたが、僕は旅をしているんです」
そう言って、今までに見てきた情景を脳裏に思い描く。
最早人そのものではなく、人の形をしたものを見ることの方が遥かに多い。
訪れる国や街でかつての姿を留めているものはほとんど無く、大抵が自然に取り込まれ始めているか、瓦礫の山だった。
「戦火は、この星全土を舐め尽くしています。その中で、この村だけ無事だと言う可能性はほぼ無いでしょう。仮に僕の故国に襲われなかったとしても、どこかの時期に同じことが行われたかもしれません」
残酷なことを言っていると自覚している。
だが、特定の誰かを憎み続ける人生を、これ以上送って欲しくなかった。
「ですから、時代なのです」
そう緩く微笑む。男は暫く俯いて考える素振りを見せていたが、「だったら」とさらに問い掛けてきた。
「だったら、こんな世界を作った政治家のせいだ。為政者のせいだ! あいつらが止めなかったからだ!」
その指摘に「確かにそれも一理あるかもしれません」と応じる。
「ただ、その為政者たちも人間です。共同体の中で生活し、その環境や教えによって思考が構築されていきます。人の思考はその人が独自に生み出すものではなくて、多くが周囲に影響されるものなんです。
なので、戦争を始めようと思った為政者がいたとしたら、それはその考えを構築する環境や教えがあったのかもしれません。
仮にそうしたものが無かったとしても、そうした考えは間違っている、と教えてくれる人や、多くの人に憎まれる思想を持っていることに気付いてくれる人がいなかった、ということになりますね」
だから為政者、特に独裁者も可哀想な人なんですよ、と。
そう述べて、もしこの世界の有様の責任を問うたら、それは人類全体になるのでしょう、と続ける。
「大体の場合、人は一度間違えたことは反省しますし、たとえ忘れたとしても2・3度繰り返せば懲りるでしょう。それなのに、人は戦争という過ちを犯し続けた。
その過ちから何かを学び取っても、100年の間に忘れることが多い」
半ば独り言のように、己の考えを言葉にして紡いでいく。
「なのでこれは、仕方のないことなのかもしれません。人とは不完全な生き物ですから。高度な知性を持ちながら、非常に複雑な感情と言うものも持ち合わせていた」
仕方のないことなんです、と溜息と共に繰り返した。
「そんな人間という生き物が、この地球と言う星で生きる限界が、ちょうどこの時代だった。今までにも多くの生き物が生まれては滅亡してきたでしょう。
それが今回は偶々(たまたま)人間だった。それだけなんです」
そう言って、口を噤んだ。
男の両目から流れた涙が顎を伝い、透明な雫となってぽたりと地面に落ちた。
「じゃあ」と鼻を啜りながら籠った声で彼が言う。
「私は、人間を好きにはなれない。人間が憎い」
手の甲で鼻を拭いながらそう吐き出す男に、柔らかい微笑を送った。
「でも、あなたは今、その“人間”を想って、泣いているのでしょう?」
そう告げた瞬間、男の顔が盛大に歪んだ。
そのまま地に倒れ伏し、声を上げて泣く男の背中に、そっと手を置く。
それが拒まれないことを確認して、泣き続ける彼の背中をそっと撫で続けた。
「なぁ、神はいると思うか」
暫くして彼が落ち着き、墓を背にして並んで座りながら、何をするでもなく黙って村の風景を眺めていた時に、そう問い掛けられた。
「あの日、神は村の大半の人間を連れて行った。私たちを残して。
村の他の住民は、優れた人間ほど連れて行かれるのが早いとか、残された人間には試練が与えられている、とか言っていたが、それがよく分からなかった」
前を見つめながら発せられるその声は、疑問と言うよりも1つの事実を淡々と述べているだけのようだった。
「あの時、子どもが多く死んだんだ。子どもよりも、村に残った我々の方が遥かに長い年月、神の教えに忠実に従っていたというのに」
その抑揚の無い声に合わせるように、自分も思ったことを何でもないことのように静かに述べた。
「あなたが神を信じるのならば、神はいるのだと思います」
「信じなければ?」
「いません」
そう言って、少し間を置いてから続ける。
「この世は、全て心の持ちようなのですよ。もしあなたが、今目の前にいる私は幻で、本当は存在していないんだ、と思えば、ここに私はいないのでしょう。
信じたいものが、己の前に現われるだけです」
それに暫し考えるように黙ったのち、「そうか」とまるで最初からその答えを知っていたかのような、何の驚きも感じられない返事が返った。
沈黙が落ちる。
春の、人を包み込むような優しい風が、男との間を通り抜けていった。
その風に導かれるように、始めに抱いた疑問を思い出す。
「ここのお墓は、あなたが手入れをされているのですか」
「あぁ。誰だって寝床が散らかっているのは嫌だろう」
こちらを見ることなく答えた静かな声音に、「はい」と軽く笑って返す。
「私は、感情を殺して生きていた。あの日を境に感情は己を苦しめるものでしか無くなったからだ。だから、過去の幸福な日々という思い出と共に、それらを封印した。己を守るために」
その言葉を聞いて、かつて学んだことを思い出す。
それはメルダーの男がいた街で感じたことだった。
人は、二度と得られない幸福には触れたがらない。
そして、喪失が大きければ大きいほど、それに触れようとしない。
自分の心を守るために。
ここにも、彼らと同じ苦しみに直面していた男がいたのだ、と思うと暗澹たる気持ちになった。
遠く離れた地にいても、彼らは同じ心の痛みを抱え、そしてそれをもたらしたのが戦争だった。
戦争は、人の命を奪うだけではない。
人の良心や、誰かと共有した幸福な思い出、それを育んだ街、国、その全てを破壊する。
戦争は、人が大切にし、守りたいと思うもの全てを吸い取って、際限なく膨らんでいく。
その代わりに人を責め苛む“負”を撒き散らすのだ。
この世界から、戦争を欲する人間がいなくなるまで。
その“負”は得難い温かなものとは異なり、取り憑かれるのに容易く、引き剥がすのに難しい。
だから、戦争は去っても人を苦しめ続けるのだ。
人が生み出した“戦争”は、それほどまでに罪深い。
「だが、今なら分かる」と言う、穏やかさの中に芯の通った声が、己を思考から引き戻した。
「いや、心の奥底ではずっと分かっていたのかもしれない。感情を無くせば何に心を惑わされることもなく、淡々と毎日を過ごすことは出来る。余計なことを考えず、何も感じない。そんな毎日は、楽ではあった」
だから、墓の手入れも毎日の生活の中に組み込まれる作業でしかなかった、と彼は言う。
心からあの日の蛮行に憤り、彼らの死を悼み、墓の中で眠る彼らに話し掛けるようにしながら手入れを行っていた訳では、無い。
ただ、村人の墓だから綺麗にしておいた方が良いだろう、と。
そう思っただけだった、と述べた。
「ただ、つまらなかった。面白くなかった。楽しくなかった。幸せではなかった。自分が、何で生きているのか分からなくなった。
感情は、世界に色を与えるんだ。自分は今まで、白と黒しかない世界で生きてきたように思う。全く、美しくなかった」
「それが、負の感情でもですか?」
「負の感情でも、自分がこの世に生きる目的や意味を与えてくれはする」
「それが、人に害を与えるものだとしても?」
そう問うと、男がこちらを向いた。
「その時は、周りの人間が、それを止めるんだ。そのためにも、社会はあるんだろう?」
ほんの僅かに口角を上げて男が言う。
その黒い瞳からは刺々(とげとげ)しく猛り狂った感情が消え去り、澄んだ輝きが煌めいていた。
それで、先ほどの冷えた思考で暗くなってしまった心に、ふわりと温かな光が灯った。
自分の顔が、自然とほころぶのを感じる。
「今、世界は美しいですか?」
それを聞いて、彼は空を見上げた。
水分をたっぷり含んだ、昼下がりの春の空。
その潤むような蒼天に、刷毛で刷いたかのような雲がゆったりと棚引いている。
小鳥が二羽、舞うように連れ立って羽ばたいていき、見渡す限りに爛漫と咲く雛罌粟の花が、今を盛りと春を謳歌していた。
あまりにも優しく、のどかな光景だった。
それを暫く穏やかな目で眺めてから、彼は言った。
「美しいな。世界がこんなに美しいことに、気付けなかった」
彼が微笑む。
それは、始めて見る彼の笑顔で、初めて向けられた温かな感情だった。
「ありがとう。君のお陰で救われた」
自分が一番嫌った人殺しに、ならずに済んだ、と。
その優しい笑顔を向けられた瞬間、何か途轍もなく大きな感情が胸から溢れ出し、涙となって零れた。




