第三十七話 国民
彼が一枚の紙を手にしている。
その声に従うように、横からそれを覗き見た。
――ん。東方方面軍の記録か?
――そうそう。半年前のね。戦果でも共有されたのかなって思ったんだけど、これは指揮官に対する注意喚起だな。
そう言われて簡単に目を通したその資料の概略は、次のようなものだった。
共和N国に進軍中の東方方面軍第一戦隊に所属する小隊が、上官の指示を仰ぐことなく、独断で国境を越えた王政G国の一村落を急襲し、壊滅させた。
指揮権を有する士官や各部隊長は隊員の統制を強化し、その教育を徹底するように。
――え、これ全軍に通達されたのか? 僕指揮官だけど知らなかったぞ。
――いや、お前指揮官だったじゃん。
そうからかうように言われて、君もな、と軽く睨みながら言い返す。
――でもこれは流石に酷いな。この小隊の人たちは馬鹿だったのか? 何でそんな軽々しく敵でもない国の村に攻め込んだんだ。
――あー、どっかで聞いたけど、N国での戦闘が割と上手くいってヒマしてたから力を発散させたかったとか、自分たちの強さを見せつけたかったとか言ってたらしいよ。
その想像以上に下らない理由に思わず、え、と大きな声が出る。
――そんな脳筋みたいな理由なのか⁈ そんなことしたらG国が黙ってなかっただろう。
――いや、なんか中央との伝達役だった村人も含めて大半を殺しちゃったから連絡が遅れたのと、村に攻め込んで暴れ回ったあとにさっさと引き返したから、その小隊がやったって言う証拠が残らなかったんだと。だからG国から追及されてものらくら躱したんだってさ。
肩を竦めながら同僚がそう述べた内容は、俄かには信じられないものだった。
これは、軍の腐敗が始まっているのではないか。
自分がいる本部にまだその兆しは見られないが、その末端から徐々に陰りが見え始めているのではないか。
そんな薄ら寒さを感じながら、情報通な彼に問い掛けた。
――それで、この小隊の人たちってどういう処分がされたのか知ってるか?
――あぁ、確か半年間の減俸だったかな。
――それだけか?!
自軍であるとは言え、それは幾ら何でも甘すぎる。
憤りも露わにして問うと、うーん、と困ったように彼が唸った。
――まぁ今戦力を減らす方が問題だからな。免職とか謹慎は避けたかっただろうし、減俸期間が長すぎても士気に関わるだろ。だからこれくらいが妥当なんじゃないか?
そう言った同僚の、寂しそうな微笑が強く印象に残った。
そんな彼の顔が徐々に薄れ、遠い昔の記憶からゆっくりと現実に引き戻される。
そして、その事実を思い出した衝撃から抜け切れずに、呆然としたまま理解した。
これは確かに故国の兵士によって引き起こされたことで、その理由は口にすることも憚られるほど低俗なものだった。
ある一部の人間の軽々しい考えと行動が、人の一生を深く傷付け、捻じ曲げた。
当時は、単純に浅はかな奴らがいるものだ、とか、自国が不利になる行動は慎んでもらいたい、と言うような、己の利益を優先して腹を立てていた部分が大きい。
しかし今、多くの人に触れ、街に触れ、人間を知った今、心の底から当時の小隊に属していた人間に聞きたかった。
その欲は、本当に叶えなければならないものでしたか。
人の人生を潰してでも叶えたかったものですか。
その欲によって満たされる一瞬のために、あなた方は残りの人生を他者に怨まれ、蔑まれることになる。
自らの人生を棒に振る可能性もあった。
それでも、その欲を叶えたいですか。
ぐるぐると渦巻くこの感情に、自分でも名を付けられない。
罪悪感・怒り・哀しみ・やり切れなさ……。
暴風のように心の内で暴れ回るその感情に耐えていると、「おい」と苛立ったような声がした。
ハッと顔を上げると、男がナイフを構えたままこちらを見ていた。
それで、自分が今まさにこの瞬間も命の危機に晒されていることを、唐突に思い出す。
「何突っ立ってるんだ。出来るのか、出来ないのか?」
その問いに、出来ません、と答えれば即座にナイフが自分の身体に突き刺さるだろう。
もう何が正解なのか分からない。
自分はここで死ぬかもしれない。
それでも、この男に自分の想いを伝えてから死にたかった。
そのままその場に膝を突いて、男を見上げる。
「確かに、僕の故国の兵士が、あなたの村に攻め入り、全てを破壊して去りました」
男の、眉を寄せ、怒りと哀しみに歪む顔を。
「それは、人として決して許されることのない行為であり、許されることがあってはならない。そしてこの村で起こったことを僕は絶対に忘れず、永遠に人類の負の教訓として胸に刻みたい」
憎しみの炎が灯る瞳を、真っ直ぐに見つめる。
「故国の兵士に代わって、心からお詫び申し上げる。本当に、申し訳なかった」
顔を下に向け、哀悼の意を示した。
静寂が満ちる。
うなじを晒しているからそのまま切られるかもしれない、と言う恐怖に耐え、下を向いたまま男の反応を待つ。
すると、微かに男の息が跳ねるのが聞こえた。
それは次第に音を伴い、「ハハハハハ」という大きな笑い声となって辺りに響き渡った。
「やっと認めたか。正しいのは我々だと言うことを」
そして天を仰ぎ、両腕を広げながら大声で叫ぶ。
「悪魔がようやく正義の前に跪いたぞ!!」
その言葉を聞いた瞬間、己の心の中で何かが弾けた。
それが何なのか確かめる間もなく、気付いたときには口から言葉が滑り出ていた。
「僕は、悪魔ではありません」
ぷつり、と糸が切れるように男の笑いが止まり、ギョロリとした目がこちらを向く。
「あ? ふざけたことを言うなよ? 今自分で認めただろうが!! 僕たちがやりましたってな!!」
「仰る通り、僕の故国の兵士がやりました。でも、僕は、やっていません」
拳を握り締めながら、勇気を振り絞ってそう告げる。
今、男にこう述べるのは危険だと分かっていた。出来ることなら言わない方が良いと言うことも。
ただどうしても、伝えたかった。
そして想像していた通り、男の怒りが爆発した。
「訳分かんないことをぬかすな!! お前の国の人間がやったんだろう! お前も奴らと同じ国の人間なんだろう! 悪魔と同じ国の人間なら、お前も悪魔なんだよ!!」
「違うんです!!」
男の言葉に、心の底からの叫びが迸った。
男の言は、自分の全てを否定するものだった。
自分の想いを、感情を、長い長い旅の中で出会った人々を、そこで得たものを。
自分が気付き、学びながら歩んできた旅の軌跡そのものを否定し、踏みにじるもので、それが、酷く悲しかった。
「悪魔と同じ国にいるから、悪魔なわけではありません。悪魔と同じ国にいるから、悪魔と同じ思考をしている訳ではないんです。
犯罪者と同じ国に住んでいるからと言って、犯罪者にはならないのと同じように」
口から迸る思いは、祈りに近かった。
懸命に、希う。
どうか――。
「だとしてもお前の国は虐殺を容認した。それを受け入れ、それに従う奴がいた。お前の国にはそういう冷たく慈悲の心などない奴が多くいる! つまり国民全体にそういう気質があるんだよ!
そんな国民性を持つ国の人間を、私は心から軽蔑する!!」
己の主張を刻み込ませるように、こちらを差した指を何度も何度も突き付けて来る。
それに屈しないよう、必死にかぶりを振って彼の言葉を打ち消した。
「確かに、国民性と呼ばれるその国に住む人々が多く持つような性質は存在するかもしれません。
ただ、その国民は何百万、何千万といるんです。その国民一人一人が、他者によって決して代替することの出来ない固有の性格をもっているんです!
あなたも、かつて村の住人と言葉を交わす際、一人一人が異なる性格を持っていたからこそありふれた会話が楽しいものになったのではないでしょうか」
それを思い出して頂きたいのです! と必死に言葉を紡ぐ。
「同じ村に、同じ国に住んでいるからと言って、性格まで同じな訳ではないんです! 国民性と性格が掛け合わさって、その人と言うものが生まれるんです!」
ふと、かつてメルダーの男が語った醜き大佐と美しき大尉のことを思い出した。
彼らの国が、どのような国民性を持っていたのかは分からない。
今、仮に彼らが属していた国には“策略家が多い”と言う国民性を持っていたと仮定してみる。
すると、大尉は己の策略で作戦行動の立案を行い、昇進を果たしながら全身全霊で国を守ろうとしたと言える。
メルダーの男も一度は間違った方向に進んでしまったとは言え、様々な策略を巡らせて依頼を遂行し、その後は様々な策略を駆使して自分が葬ってしまった人々を弔おうとしたのではないだろうか。
では、大佐は?
彼は、己の利と欲を何よりも重視した。
その策略によって人を嵌め、堕とすことに使おうとした。
たとえ同じ国に属していたとは言え、彼らを一括りにまとめることなどどうしても出来いのではないか。
真面目だとされる国民性を持つ国の人間が、全員真面目だろうか。
大らかだとされる国民性を持つ国の人間が、全員大らかだろうか。
国民性が、その人の性格を位置づける際に大きな役割を果たすことがあるかもしれない。
だが、それは千差万別に存在する人々のごく一部を抽出し、表したものに過ぎない。
多種多様な要素が詰まった袋を指していると考えても良い。
「その国に生まれ、成長し、大人になった人々にとって、国民性と言うものは己を形作るアイデンティティになるでしょう。
ですが、その人たちが成長する中でどのようなことを経験したのか、何を感じたのか、学んだのか。それらによって形成される性格と合わさったとき、それは必ずしも同じものを生み出す訳ではありません!」
仮に美徳とされる国民性に従って皆同じように振る舞っていても、内心で考えていることも美しいとは限らない。
だから――。
「国民性ではなく、そこから生まれたその人自身を見て欲しいんです!」
そう叫んだ瞬間、男がナイフを地に棄てた。
それが地面に届かない内に一気に詰め寄られ、襟首を掴まれる。その歪んだ顔が、間近で己を睨み付けていた。




