第三十二話 遭遇
見ていた光景が陽炎のように揺れて徐々に薄れ、消えていく。
気付けば現実に引き戻されていた。
薄暗い家の窓辺でそれを見て、ずいぶんと長く過去の記憶を彷徨っていたように感じたが、それの姿がまだ道の先に小さく見えているところから推測すると、案外時間は経っていないようだった。
もしかしたら見間違いかもしれない、というほんの一抹の希望を胸に目を凝らしてそれを見る。
しかし春の柔らかい光に照らされ、その明るい色が再び網膜に焼き付いた瞬間、身体の中で何かが弾けた。
“混乱”は先ほど見た記憶が流し去ってくれた。
そして“恐れ”もない。
清く慎ましく生きてきた人間が、なぜ悪魔を恐れる必要があるのだろうか。
ここでまたビクビクと悪魔の言いなりになり、ひたすら顔色を窺って命を請うような真似をすれば、また奴らは増長する。
悪魔の方が、我々を恐れなければならない。
我々の方が正しいのだから。
その“正しさ”がもたらす光の前に、跪かせなければならない。
だとしたら、この感情は?
錆び付いて固くなり、己でさえ開け方が分からなくなった心の扉を、それはいとも簡単に開けて見せた。
だが、その扉は開けるべきではなかった。
自分を身体の奥底から苦しめる何かをそこに閉じ込めておきたかったからこそ、自分は錆び付いていく心を放置し続けた。
しかし、それが開け放たれた今。
それら――激憤・憎悪・哀惜・絶望――は激しい勢いで飛び出し、封じられていた長い年月に亘る力を出し尽くすかのように、凄まじい奔流となって身体中を駆け巡る。
きっともう思い出すことなどないと思っていたから、あまりにも唐突に触れたそれらの激情に慣れていない身体が、それでも何とか耐えようと小刻みに震え続ける。
暴れ出そうとする身体を押し止めようと踏ん張りすぎたせいか、目が赤く充血していくのを感じた。
息を荒くしながら窓の外に視線を巡らせると、それの姿はもうほとんど見えなくなっていた。
あのように非道で見下げ果てた精神を持ちながら、よくもまたこの村に足を踏み入れようと思ったものだ。
二度目は無い。
今度は、逃がさない。
くるりと窓に背中を向け、足早に台所まで行く。
何本か持っていたが、1人分の食事を用意するのにそう幾つも使わない。
下げてあるうちの刃がボロボロになり、茶色く錆び付いたものを素早く手に取って、外に出た。
歩き慣れて目を瞑ってでも歩けるような小径を猛然と歩きながら、これから行おうとすることについて思いを巡らした。
かつて、復讐はしないと、奴らと同じにまで成り下がらないと心に決めたことがある。
だが、これは違う。
我々は、私は、奴らよりも正しく、優れている。
私は悪魔ではない。人間だ。
これは神父が悪魔祓いを行う際に、悪魔を苦しめるのと同じことだ。
しかし悪魔は苦しめるだけでは足りない。
人に災厄をもたらし、それを見て愉悦を感じるような存在はこの世にいない方がいい。
しかも一体であるなら好都合だ。
今日私がそれを成し遂げてみせる。
手に持った物を握り締めて、それがいるであろう前方を睨み付けた。
殺してやる。
***
最後の墓に雛罌粟を供え、祈りを捧げる。
暫くして目を開けると、50本の赤い花が風に揺られてふわふわと花弁を揺らしているのが目に映った。
それはまるで、彼らが自分を歓迎してくれているようで、自然と顔がほころぶ。
その時だった。
「おい」と唐突に背後から声を掛けられ、驚きのあまりびくりと身体を震わせた反動で振り返る。
男がいた。
白髪が交った黒髪は無造作に後ろで括られていて、顎には適当に剃られた無精髭がチクチクと伸びている。
口角の下がった口に土気色の肌も相まって、全体的に疲れた雰囲気を纏っていた。
何より、その眼が異常だった。
落ち窪んでぎょろぎょろと妖しい光を湛えながら力を溜めているかのように血走り、こちらを鋭い眼光でずっと睨み付けている。
もし視線で人を殺せるなら、自分は死んでいたかもしれない。
だが、そんな危険な視線が時折揺らぐのも感じた。
それは、不意を突かれて戸惑っているかのような、何かを疑うような、そんな視線だった。
「何をしている」
男がこれ以上ないほど硬い声で問うてきた。
「……え……っと……」
まず人に話し掛けられたこと、ましてや前に人の声を聞いたのがいつだったのか思い出せないくらい久しぶりだったから、その驚きから中々覚めることが出来ずにいた。
ふらふらと視線を彷徨わせて、ふと男が手にしているものに目が留まる。
何か茶色くて薄い板のような物を持っているな、と思っていたが、男が身体を少し動かしたときにそれが鈍い光を反射して、どきりと心臓が大きく跳ねた。
確かに先ほど、人がいたら会ってみたい、話してみたいと思っていた。
その希望が、恐らく最悪に近い形で叶えられたようである。
「何をしている」
男が同じ問いを、少し語気を強めて発した。
ごくりと唾をのみ込み、咳払いをして声の調子を整えてから、口を開いた。
「その……お墓が見えたものですから、花を供えようと思いまして……」
なるべく相手を刺激しないように、ゆっくりと述べる。
それなのに男は不快そうに顔を顰めた。
墓に花を供える?
悪魔如きが人間の真似事をしやがって。
そんな侮蔑に塗れた呟きが届く。
これは、想像以上に歓迎されていない。
花を供え終わったときに歓迎されていると感じたのは、自分の思い違いだったのだろうか。
風船のように軽やかに浮かんでいた気持ちが、急速に萎んで地に落ちていく。
取り敢えず今はこの場を離れた方が良さそうだ。
自分が相手と分かり合いたいと思っていても、相手がそれを望んでいない場合がある。
それでも地道に言葉を交わして少しずつ少しずつ心を通わせることが出来れば良いのだが、今回は相手が興奮状態に近いため、冷静な対話など望めないだろう。
「……では、僕はこれで……」
そう言って傍に置いていた荷物を掴んで立ち去ろうとしたとき、「待て」という低い声と共に素早くナイフが前に付き出された。
「前は大勢いたからどうにも出来なかったが、今回は違う。仲間と連れずにのこのこやって来るなど、どれだけこの村を見下げれば気が済む! 一人でも十分だと思ったか! 貴様らのことは許さない。
今日、私が、ここで、悪魔に正義の鉄槌を下す!!」
鼻息を荒くしながら、今にも飛び掛かって来そうな男を慌てて制した。
「ちょ、ちょっと待って下さい! 申し訳ないのですが、あなたの仰る“悪魔”とは、ひょっとして僕のことを指していますか?」
焦りのあまり、思わず先ほどから疑問に思っていたことをそのまま口にすると、男の顔がみるみる歪み、威嚇するように歯を剝き出しにして激昂した。
「ふざけるな!! 自分たちが行ってきた数々の罪をも忘れたと言うか、この化け物め! 神に成り代わろうと邪な実験を繰り返し、己の欲と悦楽のためだけに人を殺めることも辞さない低劣で卑しい悪魔が!
だから髪が己の心の内に蔓延る欲に呼応するように光り始めたんだろう!!」
口角泡を飛ばすとは、まさにこのことである。
男の目から、口から、身体から、怒り・憎しみ・怨み・蔑みと言った感情が発せられ、それが一身に自分に向けられていた。




