第三十一話 喪失
そこから先のことは、よく覚えていない。
悪魔たちが嵐のようにやって来てこの村を蹂躙したあの日から数週間、自分がどのように過ごしていたのかほとんど思い出せない。
朝起きて、気付いたら夜になっている。
寝床に潜り込み、また朝を迎える。
そんな日々がずっと続いていた。
単調な日々だったように思う。
絶えず身体を動かしていたのかもしれないし、一日中ぼんやりとどこかに座っていたのかもしれなかった。
どちらにせよ、何かを思い出さないように、何かを考えないようにしていたのは確かだった。
そして、世界の全てに興味を持たなくなり、世界の全てを美しいと感じなくなった。
あの悪魔どもがいる世界に興味を持つなど、想像するだけでも汚らわしい。
前までは向日葵の花などを見ると、今年も大きく咲いて綺麗だな、とか思っていたのだろう。
しかしもう向日葵の花など見たくもなかった。
夏を盛りに、天に向かって伸び伸びと背丈を伸ばしながら、燦燦とした太陽の光を顔のように大きな花一杯に受け止めるその姿を見るだけで、それを1つ残らずへし折りたくなった。
二度と自分の前で咲いた姿を見せて欲しくなかった。
特に夕方は。
その時間帯に向日葵を見ると、忌々しさよりも恐れが大きくなり、顔を隠して足早に通り過ぎるか道を変えた。
その光景は、常に自分の記憶から何かを引き出そうとしていた。
そこには向日葵の花のような誰かと、自分が何よりも何よりも、何よりも、大切にしていた誰かがいた。
しかしそれをちらとでも思い出したり考えようとしたりすると、心臓を突き刺した刃物がそのまま全身を引き裂いて回っているかのような鋭い痛みが身体中を駆け巡った。
その光景は、まるで誰かの代わりに向日葵が咲いているようで、そしてそこにどうしてもいて欲しい、いなければならない誰かがいないということを、自分に突き付けて来るものだった。
そうやって自分の心を抉る光景や物は何も夕方の向日葵だけではなく、至る所に存在した。
学校に至るまでの小径や学校そのもの、教会、村の広場、小麦畑、家にある子ども向けの本や教科書、おもちゃ、壁に付けた徐々に高くなっていく横棒の印。
まだまだ数え上げればきりがない。
はっきり言って、この村の全てだった。
なので、何も考えず、何も感じず、心の周りに何重にも防御壁を作って機械のように淡々と生きる。
それが己を守る唯一の方法で、そうして生活するうちに段々と自分が何を思い出したくないのか、何を考えたくないのかすら記憶の狭間で曖昧になっていった。
そんな風に生活していたある日、あの肉付きの良い男が訪ねてきた。
何か不安そうな、心配そうな顔をして「様子を見に来たんだ」と言う。
自分はそのとき家の中にいたが(何をしていたのか分からないが多分座っていたのだろう)、暫く戸口でそわそわしていたが、そのまま入り込んできて、「座ってもいいかな」と問うてきた。
「どうぞ」
「あ……良かった、ありがとう」
どこかオドオドとした口調だったが動きは滑らかで、そのまま机の向かいの椅子に座ると再び視線を彷徨わせる。
「えっと……最近調子はどうかな……?」
「変わらないな」
「…………そう」
面白くもない相槌を打ったあと、押し黙った。
視線を斜めに下げて何かを考える素振りをしている。
何がしたいのかさっぱり分からなかった。
言いたいことがあるなら早く言えばいいし、無いならさっさと戻って自分のやるべきことをやればいいだろうに。
そう思いながら黙っていると、男が何かを決心したかのように唇を引き結んで顔を上げた。
「あのさ、俺たちに出来ることがあったら何でも言ってよ。やれることは何でもするから。今はまだ辛いかもしれないけど、この先も支え合って行こう」
もしかしたら俺の家みたいに地下倉庫を作った方が安心かもね、と話し続ける男の言葉が、耳を右から左に通り抜ける。
辛い?
何で?
こちらが疑問に感じているのに気付かない様で、男はそのまま言葉を紡いでいく。
「絶対にあいつら戻ってくるだろうな、って思ってたけど全然その気配ないから、もう暫くは来ないんじゃないかな。まぁ永久に来ないで欲しいんだけどね」
ははは、と声だけで笑って、ふと真顔になる。
「ほんとに、可哀想な奴らだよね。神になろうとしたり敬虔な信者を手に掛けたり、その上教会を破壊するなんて……。そんなことをしたら、絶対地獄に行くって分かんないのかね。
俺たちがそういう道を間違えてる者を助けなきゃいけない、って思ってたけど、あれらはもう救いようがないかもしれないね」
髪がおかしなことになるのも納得だね、と言って悲しそうな微笑をこちらに向けた。
あいつら。信者に手を掛ける。破壊。
男の話の節々に現われた単語が記憶の奥を刺激し、それを思い出させる。
それなのに、心に張り巡らした壁が記憶に付随する全ての感情を塞き止めた。
何を聞いても、何を見ても、心が揺れ動かない。
初めて気付いたその事実に対しても、特に何も感じなかった。
ただぼんやりと、自分は何か大きくて大切なものを失ったんだろうな、と思っただけだった。
「私は、あの悪魔みたいにはならない」
静かに述べると、男が驚いたような顔をする。
「あなたの言う通り、奴らは可哀想なんだ。自らの過ちに気付くことも出来ずにどんどんと堕ちて、とうとう悪魔になった。
これで復讐しようと思い立って奴らと同じことをしたら、私まで悪魔になってしまう」
復讐などしない。
してやらない。
誰が同じ立場にまで堕ちるものか。
己の愚かさに気付かずにそのまま地獄まで堕ちればいい。
永遠に、その醜態を晒し続けろ。
男が笑みを浮かべてうんうんと大きく頷いている。
「そうだ、そうなんだよ! 俺たちは常に正しいんだ。正しい道を歩んでいれば必ず天国に行ける。やられたからやり返すってのは同じ穴の貉だもんね。俺たちは、あいつらとは違うんだよ」
そう言って、穏やかな顔で窓の外を見遣った。
「きっとさ、この村の人たちが大勢いなくなったのも、神が俺たちを認めてくれたことの表れなんだよ。ほら、優れた人ほど神の許に行くのが早いって言うでしょ?」
先ほどのオドオドとした口調など微塵も感じさせずに、弾むような声で男は言う。
「だから、残された俺たちは頑張って村を立て直そう! そしてまた神に感謝しながら毎日を正しく生きて行こう!」
やる気に満ちた眼差しが投げ掛けられる。
窓から入り込んだ日の光が、男の黒い虹彩を照らしていた。
そのきらきらと光る瞳を眺めながら「そうだな」と、小さく微笑みを浮かべた。
そのようにして、残った僅か数名ほどの村人と共に少しずつ少しずつ村を立て直してきた。
日常の中であの日のあの出来事について考えることはほとんど無く、全員で集まって顔を合わせても皆意識してその話題を避けているようだった。
朝起きて自分に与えられた仕事を淡々とこなし、空に星が瞬いたら床に就く。
秋に種を蒔き、冬から春にかけて小麦の生長を助け、夏に収穫する。
これを何日も、何年も、何十年も繰り返した。
そして気付けば、村は自分1人になっていた。
自分が食べる分だけの小麦を育て、山で山菜を採ったり獲物を狩ったりする。
黙々と、淡々と、余計なことを考えずにやるべきことだけをやって生きていく。
自分しかいないのだから、より心は平静でいられた。
何にも煩わされることなく、何に対しても何も思わない、感じない、ある意味でとても楽な生活だった。
それが自分の日常で、そんな“平凡な”生活はこの世に別れを告げるまで続いていくんだろうな、と思っていた。
それなのに。
それは何の前触れもなく、唐突にやって来た。




