第三十話 聖戦
再び喊声が轟いた。
それにも関わらず、この世に存在する音は己の荒い息遣いのみだと言うように、頭の中一杯に呼吸音が鳴り響いている。
狂ったように吐き出される己の呼気と、夏の太陽に蒸された草が発する草いきれが合わさって生み出された熱気が、熱を帯びたようにぼんやりとしている頭を一呼吸ごとにさらに熱していった。
晴れやかで快活な笑顔が、脳裏に蘇る。
ここからだと奴の周囲の地面を見ることは出来ない。
それでも、熱に浮かされたような頭でも、それを悟ることは出来た。
もう、あの周囲を照らすような明るい笑顔を見ることは無いのだと。
子どもたちと戯れている際の温かな声を聞くことも、彼の小話に顏をほころばせることも、永遠に無いのだと。
支柱を失っていた心に、ビキリ、と罅が入った。
そして、理解した。
こいつらは、悪魔なのだと。
我々を悪魔と契約したとか何とかほざいていたが、奴らは悪魔そのものだ。
慎ましく神に従って生きる人々の村を嬉々として破壊し、善良で敬虔な人間を殺しても何も思わず、興奮に満ちた声を上げている。
神に背き、人を殺めることに喜びを見出し、己の欲のみを何よりも尊重する。
これが、悪魔以外の何であろうか。
そして奴が、悪魔が、叫んだ。
「これは聖戦である!! 正義は我らにあり!!」
そう声高らかに叫ばれた口上で、それは始まった。
村人たちを囲む外壁の役割を果たしていた迷彩の悪魔が、その円の中心に銃口を向けて、一斉に引き金を引いた。
銃口が火を噴く度に、赤い飛沫も青い空を背景に何度も何度も噴き上がる。
喊声の代わりに叫声と銃声が辺りに満ちた。
泣き叫ぶ女、力の限り抵抗する男、為す術なく乱暴に殴打される老人の姿が、目に焼き付けられる。
皆、知っている者たちだった。
彼らの声が風に乗り、まるでここに潜んでいる自分を非難するかのように直接耳に届いた。
――お願い助けて!
――やめろ、撃たないでくれ!
――私たちが何をしたって言うの⁉
――地獄に堕ちろ! この悪魔どもが!!
嘆きが、哀願が、怨嗟の声に突き刺された心が驚き、焦りの気持ちをどんどんと全身に循環させてそれに対処し得る行動を要求してくる。
握り締めた手の平は水に浸したかのように汗が流れ続け、身体の内から水分が無くなっていくのに比例するように、喉が冬の罅割れた大地の如くカラカラに乾いていく。
分かっている。
助けに行かなければならないことなど。
迷彩の一人に体当たりでもして銃を奪って、自分も応戦しなければならない。
1人でも多く村人を助けなければならない。こんな理不尽に、屈してはならない。
分かっている。
分かっているのに、まるで地面に縫い留められたかのように、足が動かない。
周りに生い茂る夏草が何重にも足に巻き付き、その場から一歩も動けなくされたかのようだった。
それなのに、どれだけ目を背けようとしても視線が見えない糸となって惨劇に繋ぎ止められ、瞬きすることなく虐殺の光景を凝視し続けなければならない。
そして、あの男の言葉が、ずっと自分の襟首を掴んで引き止めていた。
――行くんじゃない。分かるだろう? 行ったらどうなるかなんて。わざわざ死にに行くな。
――生きてくれ。この村を一緒に立て直すんだ。俺たちの村を。
噛み締めた唇から血が滴り落ち、草の先端を赤く染めた。
助けに行かなければならない。
村を蹂躙され、大切な人々を嬲り殺されて荒ぶる“感情”は、そう要求している。
だが、常に“理性”は問うていた。
自分が助けに行ってどうにかなるのか? と。
武器を一つ奪ったくらいでどうにかなるのか?
周りには同じ武器を構えた悪魔どもが大勢ピンピンして立っているのに?
憐れな犠牲者を無駄に1人増やすだけじゃないのか?
“感情”が自分の手を取って、目を覗き込みながらこう問いかけて来る。
「皆を見殺しにするの?」と。
そしてそのまま手を引いて向こうまで連れて行こうとする。
その瞬間、もう片方の手を“理性”が掴み、目を覗き込んで問いかけて来る。
「無駄に命を捨てるの?」と。
そして“感情”に抗い、森に向かって手を引き続ける。
そうしている間にも、鉄の生臭さがどんどん強くなっていき、人々の上げる叫声がどんどん小さくなっていった。
こんな所でうだうだ迷っている暇などないのに、“感情”と“理性”が同じ力で手を正反対の方向に引っ張り続けるため、相変わらず一歩もその場を動くことが出来なかった。
己の葛藤に左右され、力を込め続けていた足が限界を迎えてその場に膝を突く。
その姿勢は朝晩欠かさず取っていたもので、身体がその習慣に倣い、手が自然と胸の前で組み合わさる。
口から、流れるように祈りの言葉が紡がれた。
「天に坐します我らの神よ。我らの罪を赦したまえ。我らを試みに遭わせず、悪より救い出したまえ」
どうか、どうか神よ――。
そうやって祈りに集中していた時、不意にその声が鼓膜を震わせて、ハッと顔を上げる。
目を凝らすと、その場所には折り重なるようにして村人たちが斃れていた。
その中心に、まだ座り込む小さな人影が点々と見られる。
きっと、今や骸となった彼らが最後まで子どもたちを守ろうと、円の中心部に匿っていたのだろう。
その座り込んで泣きじゃくる子どもの1人に、目が吸い寄せられる。
時折しゃくり上げながら、顔を赤くして必死に何かを泣き叫んでいた。
「パパぁ————————‼」
うわぁぁぁぁぁぁぁ、と言う絶叫を聞いた瞬間、“理性”が手を放した。
もう、息子のことしか見えていなかった。
私はあの子を助けるためにここに来たのではなかったか。
あの子だけでも助けなければ。
一緒に、村に帰らなければ。
がむしゃらに草を掻き分け、懸命に足を前に踏み出して息子の元を目指す。
しかし、より近く、より大きく聞こえるようになった銃声が一つ鳴った途端、脚がびくりと震えて硬直した。
それは、“感情”や“”理性を超越した、“本能”だった。
“本能”に抗うには、強い強い“感情”が要る。
“感情”なんて、先ほどから繰り返し言葉にしているではないか。
息子を助けなければならない。
それは親として、一人の人間として、当然の“使命”であり、“責任”であった。
だがこの時、それらを上回る程大きな“感情”が、凄まじい速さで心を支配した。
その“感情”、“恐怖”は“本能”に近いが故に他の“感情”よりも強く、容易く心を塗り潰してしまう。
それを平時なら受け入れることが出来ただろう。
しかし、今このような状況下では、己の息子を思う気持ちはその程度なのかと、所詮息子の命より自己保身を優先するのかと、自分自身に対して愕然とした。
そうした様々な“感情”が入り乱れるのに動揺しているうちに、先ほど振り払った“理性”が追い付いてきて、再び腕を掴まれる。
もう、一歩も動けなかった。
そんな自分の苦悩になど微塵も構うことなく、迷彩の1人が無造作に息子の襟首を掴んで引き上げた。
その小さい身体が、為す術なく宙に浮く。
それは、まるで荷物の選別のようで、ただそこにあったからそれを取った、という感情が1ミリも入っていない行動だった。
その悪魔が、表情を一切変えずに銃口を小さな額に付けた。
声が出ない。
出せない。
私の声は息子が使っているのだろう。
全身を使って、2人分の声を上げて、泣いている。
全てが、酷くゆっくりと動いて見えた。
息子の真っ赤な頬を流れ落ちる大粒の涙が、やけに印象的だった。
瞬間、パンッと言う大きな破裂音と共に、時間の流れが元に戻る。
そして、辺り一帯を覆うように響き渡っていたあの子の声が、この世界から消えていることに気付いた。
半ば焦点の定まらない目が、力の一切入っていないあの子の身体を雑に投げ棄てた悪魔の姿を映した瞬間、ゴキリ、と心が嫌な音を立てた。
それは支柱を失い、罅割れながらも何とか形を保っていた心がバラバラに砕け、潰れた音だった。
その衝撃と痛みに耐えきれずに意識が遠のき、ドサリと仰向けに倒れ込む。
草叢が生み出し続ける草いきれと、考えたくもない理由によって生み出された鉄分の生臭さが両方鼻腔に絡み付き、噎せ返るようだった。
目を開ければ、この地上の地獄をちらとも気に掛けずに青々と澄み渡る空が、黒く染まっていく視界に映る。
あの子は、この美しい空の向こうに、神の元に無事に辿り着くことが出来たのだろうかと考え、その考えてしまったことが、自分はもう二度と我が子に会うことが出来ないのだという事実を己にもたらした瞬間、潰れたはずの心が、さらに何かに圧し潰されているかのように圧迫さた。
バラバラに砕け散った心の破片が血流に運ばれて身体中に突き刺さり、身を捩るほどの苦しみと身を切られるような激しい痛みが全身を襲う。
自分は、どのように足掻いても永遠にこの苦痛から逃れることは出来ないのだろう。
全身を蝕む痛みと苦しみに抗えずに意識を手放す寸前、一筋の涙が目尻を伝って流れ落ちた。




