第二十六話 幸福
そこで、一つ嘆息する。
「本当は、奴らも可哀そうな人たちなんだよ。いつまでも自分たちが間違っていることをしていると気付かないで、過ちを何度も何度も繰り返しているのだからね」
この世に蔓延る明らかな矛盾に気付かずのうのうと暮らしている愚か者と同じように、この世界には自らの過ちに気付かず、あまつさえそれを正義だと信じ切っている連中もまた腐るほどいる。
この世の理と照らし合わせながら、何が正しくて何が間違いなのかを考える頭くらい人間は持っているはずだ。
今、我々が必死に間違った正義から助け出そうとしている“奴ら”だって、神に背いていることくらい分かっているはずだ。
それなのに、奴らは自分たちの行いを正当化していた。
前にラジオで聴いたことがある。
神に与えられた手足、神に与えられた頭脳、神がこの星に生み出された様々な素材を用いて、己の生活、ひいては文明の質を上げ、より神が創り給うた存在に相応しい存在へと自らを高めていくことで、より良く神に奉仕することを目的とする……云々。
馬鹿馬鹿しい。
何が質を上げるだ。
何が奉仕だ。
あんたらは神の力を信じていないのか、と声を大にして怒鳴り散らしたいくらいだった。
神がお与えくださったものに満足し、謙虚に、敬虔に、周りにいる者を愛して生きる。
何故そんな簡単なことが出来ないのか。
所詮は利益のためだろう。
より金が欲しいだけだろう。
そんな下賎な考えをする者どもに、神が振り向かれるはずがない。
だから髪が金の色になるんだ。
人の見た目は中身を表すとは、よく言ったものだな。
まだ幼い息子が怯えるだろうから聞かせなかったが、奴らは髪が変色しただけではなく、長年に渡るおぞましい実験の結果、身体を流れる血さえも真冬の凍てつく湖水のような、触れれば身を切られるほどの冷たさを帯びるようになってしまったらしい。
だから、奴らには感情が無いのかもしれない。
絶えず身体を流れ続ける冷血が人の情という温かなものを全て凍り付かせたことで、神が生み出し給うた“人”という存在ではなく、自己の富や利益といった欲のみを追求する下等な生物へとその存在を堕としてしまった……。
遠くを見つめながら、そんな愚にも付かない可哀そうとも言える連中について考えていたから、険しい顔をしていたのだろう。
息子が「パパ……?」と心配そうな声を上げるのにハッと我に返る。
「ああ、ごめんな」
そう言って笑い掛けると、息子も得意そうな笑顔を浮かべた。
「だいじょうぶだよ! きょうしんぷさまがいってたもん! 正しいぼくたちがぜったいにかつって!」
両手の拳を握りしめ、瞳を黒玉のように煌めかせながら自信に満ち溢れた笑顔を顔一杯に浮かべている。
それは子どもながらに、見る者に絶対に大丈夫だと信じさせる力を持つもので、心配をしているのは時間の無駄だと教え諭してくれているようでもあった。
ふ、と張り詰めていたような身体中の筋肉が弛緩し、頬が緩む。息子の頭に手を置きながら言う。
「そうだな。神が、我々をお導き下さるんだ。あんな異端な奴らなんかに、我々が負けるわけないな」
「そうだよ! それにね……」
ふふふ、ともったいぶったあと、秘密にしてきた壮大な計画を打ち明けるように、両手を広げて宣言した。
「ぼく、大きくなったらきしだんに入るから!」
ぼくつよいんだよ、やつらもあっというまにけちょんけちょんだもんね、と言って、目の前にグーのパンチを繰り出す。
そんな息子を持って、誇らしい気分にならない親などいない。
この子は賢いし、このように勇敢な心も持っている。
将来は本当に、この村初の騎士団入りを果たす人物として大成するかもしれない。
「おお! 騎士団か! 楽しみだなぁ。じゃあ今日から家に帰ったら特訓だな!」
「うん! ぼくもうパンチとキックできるんだよ!」
そう言って連続パンチを打ったあと、蹴りと(だいぶぎこちないながらも)回し蹴りを披露して見せた。
「凄いじゃないか! じゃあ敵が来たらどうするんだ?」
そう言うと、いたずらっ子のように目をきらりと光らせ、「こうだ!」と叫んで飛び掛かって来た。
自分は大人だとは言え、子どもから不意の体当たりを食らえば力の優位性など無いに等しくなる。
うわ、と言って尻もちをついたところに、怒涛のくすぐり攻めをされる。
笑いながらなんとか身を捩って脱出し、体勢を整えて反撃した。
2人分の笑い声が、金糸で織られた薄布を纏ったかのような空に響いていく。
「お、今日も元気だなぁ」という声に顔を上げると、麦藁帽子をかぶって麻袋を背負った男がこちらを愉快そうに眺めていた。
自分より10ばかり年下のその男は、快活な性格から村の若い衆の纏め役のような立場にいた。
空いた時間に村の子どもと遊んでくれることも多いことから息子も良くなついている。
今も良く日に焼けた褐色の顔に笑みを浮かべながら、「どうした、いたずらでもして父さんにお仕置きされてんのか?」と聞くその男に対して、息子も嬉しそうに答えている。
「ちがうよ! ぼくいつかきしだんに入るから、そのとっくんだよ!」
そう言いながら鼻を鳴らす様子を見て、彼は豪快に笑った。
「こりゃまたこの村から傑物が生まれそうじゃねぇか! なぁ親父さんよ。面白くて良い息子を持ったな!」
人の良さそうな笑みを向けられ、地面の上を転がって砂まみれになった身体をはたきながら「いやいや」と首を振った。
「まだまだこれからだ。私がそういったことについて息子に上手く教えられるか分かないからな」
「まーた謙遜しなすって」
そう言って大仰に手を振り、
「この村であんたほど真面目に物を考えてる人間なんて片手で数えるほどしかいないよ」
と光栄なことを言ってくれる。
「いや、これからも息子に色々と教えてやってくれ」
「おうよ!」
じゃあ遅くならないうちに帰るんだぜ、と言って麦藁帽子を振りながら歩いて行く男を見送りながら、「パパ、ほめられてよかったね!」と弾んだ声で言う。
「パパだけじゃないぞ、お前も褒められてただろう?」と息子を見遣ると、照れ臭そうに「えへへ」とはにかんだ。
橙色の柔らかな光が、地平線の向こうに沈んだ太陽の衣がたなびくように山々を照らし、私と息子の頭上では美しい薄紫として広がっていて、まるで藤棚の下に立っているかのようだ。
そして教会の向こうの空では濃藍の布に縫い留めた宝石のように、煌めく星が瞬いていた。
「そろそろ帰ろうか」
「うん! おなかすいたぁ」
息子の手を引いて家路につきながら、「帰ったら夕飯の手伝いをしてくれるかい?」と問う。
「いいよ! ぼくがおてつだいしたら、すごくおいしくなるね」と何の躊躇いもなく述べるのに苦笑する。
自分の影と並ぶように、息子の小さな影が足元に伸びている。
いつもと変わらない、ありふれた平和な日常。
決して裕福とは言えないが、とても温かで、何よりも大切で、かけがえのない日々だった。
戦時下を生きる毎日は心が休まらないことも多い。
それでも、村の周りに広がる美しい自然と心優しい人々に囲まれ、愛する息子が少しずつ成長するのを見守る。
たとえ暴力と残虐と理不尽に塗れた戦時下であったとしても、そんな日常に転がっている小さな幸せを1つずつ拾いながら、生きていく。
それだけで、十分だったのに。
それなのに――。




