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楽園  作者: 雨宮寿霖
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第二十一話 時間

 



 自分にとって全てが始まったあの日から、どれほどの月日が経ったのかは分からない。










 人は社会から離れたとき、人と関わらなくなったとき、時間の流れというものに対する敏感さを失うのだと知った。










 しかし今では、胸を喰い荒らすかのようなズキズキとした痛みが、否が応でも己に時間というものを意識させる。














 そしてそれがもたらす抗いようのない現実と自分に残された時間を、あるとき適当に入った民家でまざまざと突き付けられた。




















 ある日、あまりにも歩き疲れていたから、少しの間だけでも風を避けることが出来そう、というだけで特に深く考えずに近くにあった廃屋に入り込み、硬い木の寝台に倒れるようにして眠りに就いた。











 目が覚めたのは、世界が薄紫に染まる時刻だった。




 この世の森羅万象が(まばゆ)く暖かな光に包まれる前、太陽が地平線の下で身支度を整えている、ほんの僅かな間。











 この夜明け前から太陽が昇るまでの時間帯を、一日の中でも特に気に入っていた。

 





 空が徐々に淡く、光を含んだ色彩になり、まるで水底に沈んでいたかのようだった街がゆっくりと浮かび上がってその姿を現すかのような、そんな幻想的な時間だった。













 ひとしきり世界の美しさを堪能してから、(すみれ)色をした薄闇の中で改めて室内を眺める。

 






 寝台と食卓、台所が一間にあるだけのこの家屋には、もともと床板が敷かれていなかった。




 それに加えて荒廃が進んだからか、出入口や窓に何も()められておらず、風が気の向くままに砂や埃を吹き込んでいる。








 雑草が壁と台所の隙間など、人に踏まれることの無かった場所から、様子を窺うように少しずつ顔を覗かせていた。













 腕に力を込めて寝台から腰を上げると、それだけで呼吸が荒くなる。




 乱れた息を整えるために吸い込んだ明け方の空気は少し冷たくて、弱り切った肺はその刺激だけでも立て続けに咳を生み出した。














 まだ世界が眠りに就いているが故の静寂の中、己の荒い息遣いだけが嫌に大きく鼓膜に響く。




 今度こそ息を整えて屈めていた背中を伸ばしたとき、食卓の向こうの壁に鏡が掛けられているのに気付いた。






 大部分が砕け散り、辛うじて(がく)に留められた右上の部分だけが残されている。











 静かに歩み寄り、手を切らないようにそっと触れた。






 その鏡の破片は、左から右に大きく亀裂が入っていたが、己の顔を良く映してくれた。













 自分の顔をまじまじと見るなど、いつぶりのことだろうか。








 顔を洗うときの水面に一瞬映ることはあるが大して気に留めていなかったし、そもそも共同体の中で生活していない以上、自身の身だしなみに気を遣うことにあまり意味を見出していなかった。















 だから久しぶりに己を見て、軽い衝撃と微かな焦燥を覚えた。














 肌は白いを通り越して不健康に青白く、程良い肉付きで張りのあった頬は水分が失われてかさつき、げっそりとこけている。







 そのせいか落ち窪んだ目が、顔中の生気を吸い取ったかのようにぎょろぎょろと動いて見えた。












 髪は自分で適当に切っていた上に水で洗い流すだけだったから、(つや)が失われてばさばさと(まと)まりがない珍妙な髪形をしていて、顎には雑に剃っていた(ひげ)の剃り残しと、無数の(かさ)(ぶた)になった切り傷が赤い線のように散らばっていた。












 流石に自分の顔を忘れることはなかったけれど、酷いな、と口から(こぼ)れた感想は他人事のようで、鏡の中の他人を心配しているかのようなものだった。












 果たして自分はこのような容貌だったのだろうか。



 答えなど、分かり切っている。











 だとすれば、間に合うのだろうか。











 ふと、頭の中を否定的な考えが過り、焦りが心臓を握られたかのような嫌な感覚を伴って全身を駆け巡った。









 鏡の中の男が、こちらをじっと見つめている。







 まるで、この顔を見ろと。



 肉の柔らかさをまるで感じさせないこの顔が、お前の残された時間を表していると。










 そう無言のうちに現実を突き付けてくるようで、堪らずに鏡から顔を逸らした。







 その目に、自分の荷が映る。










 そうだ、と(すが)るように鞄に駆け寄る。









 中を漁り手拭いで包んだ空き缶を、落とさないように慎重に取り出した。







 自分にとってかけがえのない、心の支えとなるものが入った、宝箱とも言えるもの。











 地面に座り、胡坐(あぐら)をかいた脚の上で、ゆっくりと蓋を開ける。









 写真と、手紙。











 手に取り、それらを眺めているうちに心が徐々に平静を取り戻していくのが分かる。




 写真の中の彼らが、手紙の文面が、きっと大丈夫だと、背中を押してくれている心地がした。














 そして――。




 箱の中にある新たに加えられた宝を、そっと、間違っても折らないように取り出した。














 すっと伸びた茎に、天に向かって開く鮮やかな色彩の花弁。











 手の中にある赤い雛罌粟(ひなげし)の花は出来るだけその美しさを留めようと押し花にしているが、紙に貼り付けたそれは水に溶いた赤い絵の具を含んだかような瑞々しさを保ち続けている。








 その目が覚めるような鮮やかな色彩を目にする度に、身体中に()し掛かっていた陰鬱な閉塞感から解放され、心がふわりと軽くなる気がした。














 そして同時に、一人の男のことを思い出す。







 彼は今、どうしているだろうか。




 あれから、ほんの少しだけでも憎まずに、この世界と向き合うことが出来ているだろうか。

 










 ――どうか。











 そんな願いを抱き、身体が祈りを捧げて応じる。

 






 次の瞬間、浮き上がっていた心にガンッと杭を打ち込まれ、無理やり地に叩きつけられたかのような、そんな激烈な痛みが胸に走った。











 まただ、と遠のきそうになる意識の中で思う。







 胸を押さえてうずくまると、身体中を冷たい嫌な汗が流れ落ち、指先から体温が抜け落ちていく。



 目をぎゅっと(つむ)って、気を失いそうになるほどの激痛が(さざなみ)のように引いていくのを待つ。










 この胸の痛みと付き合い出して(しばら)く経つが、これだけはどうしても慣れることが出来そうにない。













 立ち上がれるまでに回復してから鞄を漁り、小さな小瓶を取り出した。



 中から丸薬を1つ取り出してそのまま飲み込む。












 彼がくれたこの薬も、もう半分ほどにまで減った。





 これが無くなったとき、自分はどこまで持つのか。果たして辿り着くことが、出来るのか――。









 そこまで考えて、ハッと我に返る。



 再び堂々巡りのように同じ思考が頭を支配しかけているのを察知し、瞼を閉じてそれらを払うかのように頭を軽く振った。













 目を開けると辺りがほのかに明るく、輪郭をはっきりと見せていることに今更ながら気付く。




 太陽が起き出してきたらしい。









 今日も、この世界の一日が始まる。










 そんな生まれたばかりの柔らかな白い光が、足元の箱を優しく照らし出していた。











 箱が、手紙が、写真が、花が、小瓶が、燐光を(まと)ったかのように淡く輝いている。










 それは、まるでこの世の中心とも言える太陽が自分の未来を祝福してくれているようで、自然と心が上向きになる。












 そうだ。悩んでいる時間はないのだ。




 手早く荷物を纏め、外に出る。








 朝の澄み切った空気を思いっきり吸い込み、長く続く道の先を見据えて一歩を踏み出した。













 必ず、辿り着いてみせる。














 幾度目かも分からない夏。




 その美しい黎明(れいめい)の中で、そう決意した。




非常に励みになるので、感想や☆での評価などをいただけますと筆者は欣喜雀躍します。

お時間があれば、よろしくお願いいたします。

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