第十九話 手紙
意識を手放す前の、ぼんやりとした視界に映ったものだったため、最初は見間違いかと思った。
だが、少し目を凝らして気付く。
乱雑さが感じられる他の家具とは異なり、それには秩序が感じられた。
少し躊躇ったが、結局身を起こす。
鉛のように重たい頭と身体を何とか立たせて、歩を進める。
重力が10倍になったんじゃないか、と思うくらい、足が重たい。
それは、出入り口から見て右脇にある本棚の下にあった。
置いてある、というよりも、どこからか落ちてきた、といった方が正しいような気がする。
白い、封筒。
両掌を広げたような大きさで、この地域に特有の、複雑な紋様をした封蝋が押されていた。
表面に、宛名があった。
この手紙を手にした貴方へ
何だこれ、と少々面食らう。
何か厄介事に巻き込まれたら嫌だな、と思ったが、とりあえず中身を確認してから決めれば良いか、と思い直して封を切り、収められていた4、5枚の便箋を取り出す。
少し黄ばんだ、植物の繊維で作られたと思われる優しい手触りの紙の上には、実直な文字が並んでいた。
おざなりに文字を書いてきたのではなく、何年も、或いは何十年も誠実に文字と向かい合ってきた者の字だと、直感で分かった。
手紙は、その顔も知らない真面目な人物からの問いかけで始まった。
*
突然、手紙の受取人となり、戸惑われただろうか。
申し訳ない。
だが、我々は顔も名前も知らぬ貴方に、これを託すことを選んだ。
我々は明日、この村を離れる。
敵の略奪部隊が、山の向こう側にまで迫っていることを知った。
女や子ども、衣類や食料を奪われ、男は殺される。奴らは略奪という目的のために破壊活動を行うことはあるが、それは必定ではない。
よって、我々は村を明け渡すことにした。
誰一人として欠かないために、一滴たりとも血を流さないために、そして遥か遠い昔から守り伝えてきたこの場所に、皆で帰ってくるために。
我々は、決してここを捨てる訳ではない。
必ず、戻ってくる。
だが、もし、何か我々の身にこれ以上ないほどの災厄が降り掛かり、それが叶わなかった場合。
記憶だけでも、魂のほんの一欠片だけでも良い。
祖先が眠るこの土地に身体と共に帰ることが出来なくとも、我々がこの場所に生きた証を残したい。
ここに全員で帰ってきたのだということを、この土地に、祖先に、後世に、伝えたい。
そこで、貴方に頼みがある。
この手紙には、写真が二枚同封されている。
その内の一枚を、村の中央、この建物の前にある広場に、埋めてはもらえないだろうか。
それだけで、我々は帰って来ることが出来る。
また、皆で暮らすことが出来るのだ。
そしてもう一枚は、貴方に持っていて欲しい。
我々は生まれてから、ほとんどこの村を出たことがない。
外の世界というものを、あまり見たことがないのだ。
不躾な願いだと分かっている。
だが、我々を貴方と共に、連れて行ってはもらえないだろうか。
貴方の見る景色が美しいものかどうかは、分からない。
しかしそれが、この世界の現実なのだろう。
我々はその世界を、見てみたい。
皆で旅をして、皆で暮らす。
これ以上の願いはない。
再度述べるが、我々は貴方のことを全く存じ上げることが出来ない。
貴方がどんな経歴を持ち、どういった経緯でここを訪れたのかも分からない。
それでも我々は、貴方を信じる。
どうか、心より、お願い申し上げる。
*
ぽたり、と雫が便箋の上に落ち、下に書かれていた文字を滲ませた。
ああダメだ、折角の手紙なのに、と思い堪えようとしたが、ぐっと声が漏れて、堰が切れたかのように後から後から涙が溢れる。
脚に力が入らなくなり、そのまま拝むように膝を突く。
この手紙は、奈落の底で悶え苦しむ自分に射した、一条の光だ。
この手紙が、自分を絶望から掬い上げてくれた。
震える手で、便箋を持ち上げる。
――それでも我々は、貴方を信じる。
紙の上に書かれたその文字を、何度も何度も繰り返し読む。
貴方を信じる。
この言葉が、今までの自分の行いに、意味を持たせてくれた。
無駄じゃないと、肯定してくれた。
生きる目的を、与えてくれた。
もし自分が旅をしていなかったら、この手紙のことは気にも留めなかっただろう。
ろくな戦力も持たない、相手にするのも時間の無駄だと思うほどの小さな村にいる人間が、迫りくる死の恐怖に抗い、闇雲に他者に縋ろうとしているのだ、と解釈したかもしれない。
人は、自己中心的な、無知と傲慢の塊だと思っていたから。
でも、今は違う。
旅をして、人を知った。
他者を憎み、排除しようとするのではなく、命を懸けて他者を守ろうとした者がいることを知った。
そして彼らも、“人”だった。
それはひと際まぶしい輝きを放つ、純然たる事実だった。
長い長い旅の中で人という存在の本質をやっと、ほんの少しだけでも理解出来たからこそ、そこに書かれている村人たちの純粋な願いを、過たずに真っ直ぐ、全身全霊で受け止めることが出来た。
旅をしていたからこそ、信じてもらうことが出来た。
そうした輝きを放つ人間の側面を、未来に繋いでいく術がもう残されていない、この絶望と苦しみは、理解した者にしか得られないのだと、教えてくれた。
人を、他者を思いやり、共に生きることの得難さを理解したからこそ、得られた苦しみだった。
だからこそ、誰かに望みを託される喜びも、知ることが出来た。
それだけで、「貴方も人を信じることが出来るのだ」と、教えてくれた気がした。
そして彼らは、この世界の現実を見たいと言ってくれた。
他者と共に生き、他者を想い、他者を守り、死してなお共に在ろうとした彼らの最後の願いも、世界を知ることだったのだ。
彼らと同じ望みを抱いていたこと、そして彼らも自分と共に行きたいと願ってくれたことは、何よりも救いとなった。
それは、あまりにも真っ直ぐで高潔な彼らに、少しでも受け入れられたような気がして、何にも代えがたいほどの喜びだった。
――どうか、心より、お願い申し上げる。
手紙を胸に押し抱き、嗚咽を漏らしながら、何度も何度も頷いた。
もちろん。
貴方方が自分の全てをこの世に繋ぎ止め、意味を持たせてくれた。
生きる意味を見失い、地に倒れ伏していた自分の手を取ってくれた。
圧倒的他者である自分を、信じてくれた。
だから今度は自分が、貴方方の生きた証を、この世に刻み付けたい。
自分の全てを懸けて、恩返しがしたい。
不意に手紙が淡い光に照らされ、白く柔らかな光を帯びる。
雨が止んでいた。
所々に出来た薄墨色の雲の切れ間から、透けるように薄い光が幾本も降り注ぐ。
暖かいその光はまるで白いベールのように、涙に濡れた頬を優しく拭っていった。




