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楽園  作者: 雨宮寿霖
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第十七話 幻想

 もうじき、生物にとって一年で一番厳しい季節がやって来る。

 


 メルダーの男と別れたのが二月(ふたつき)前。


 樹から葉が落ち切っており、細々とした影を揺らすのみである。

 このまま大陸の上部を進むのは季節柄厳しいだろうと目途を付けて進路を変え、大陸の南側から東へと横断することにした。



 突風が身を切るような冷たさで、ごうと後ろから吹き抜けていく。

 高い建物は崩れ、塔は折れている。窓ガラスも砕けて割れたものがほとんどで、通りに人は一人としていない。


 遮られるものがない風は、どこまでも轟轟(ごうごう)と吹き渡っていき、この世界から温もりを奪っていった。




 あの街を出てから、人に会っていない。

 普通ならば、寒いからみんな家に籠っているんだろう、とでも思うのだろうが、さすがにそんな訳ないことなど、もう知っている。

 

 もうここから先の人類は滅亡したのだろうか、という考えが何度頭をよぎったかわからない。


 そんなときに、その存在を思い出させるように、そして人という存在が選択した愚かな行動の代償について、改めて心に刻み付けようとするかのように、砲声が、銃撃音が、人々の微かな悲鳴と哀願が、唸りを上げる風に乗って耳に届く。

 


 まだやっているのか、と思うし、ずっとやり続けるんだろうな、とも思う。

 


 文明の利器によって都市部で守られ続けていたため、あまり実感はなかったが、冬は生物にとって一番過酷な季節である。


 窓ガラスと扉が用をなさないため、雨と雪を辛うじてよけるのが役割となった建物に入り、荷の中から毛布を引っ張り出して丸まる。

 骨の芯まで凍らせるような冷たい風が遠慮なくびゅうびゅうと入り込み、身体の熱をじわじわと奪って行く。

 


 やっとの思いで一夜を過ごし、(まき)を集めて暖を取り、食事をする。


 冬は圧倒的に食料が摂れない。

 荷の中に詰め込んでいた食料のほぼすべてを一週間で食べ尽くしたため、防寒具を着込んで廃墟を漁り、一冬を越せるくらいの缶詰を調達していった。



 冬の間は思うように進めず、毛布にくるまって白い息を吐きながら、鼠色をした天より降り積もる雪を、じっと眺めていた。




 

 そして、黒と白に覆われた死の季節が影を引くように去り、祝福の季節がやって来た。


 太陽が暖かな光を注ぎ、凍てついた大地が解け、雪解けの雫が金色の光に染まる。

 鳥が歌い、草花が色づき、動物たちが歓喜の声を上げる春。



 旅を始めてから、春が巡るたび、全身全霊でその到来を祝ってきた。

 きっと野に生きる動物たちは、冬が過ぎ春が訪れるたびに、この喜びを味わっているのだろう。


 甘い花の香りを含んだ柔らかい風を胸に吸い込みながら、そんなことをぼんやりと考えた。




 故郷から遠ざかれば遠ざかるほど見たことのない景色や文化が増えていき、こんな状況なのに、まるで子どものように湧き出す好奇心が抑えられなかった。

 



 あるとき、苦労して一つ山を越えたことがあった。


 本格的な登山のためのフル装備が必要、というほどの険しい道のりではなかったが、その山を越えなければ前には進めないようだったので、ぜいぜいと肺をいわせ、笑う膝を叱咤(しった)しながら、半ば(くずお)れるように頂上に到達した。


 そして、呼吸を整えて何気なく顔を上げたとき――。



 心からの感嘆が、口をついて出た。

 そこに広がっていたのは、雄大な渓谷だった。

 


 雪を頂上に(いただ)いた翠緑(すいりょく)色の山脈が左右に(そび)え立ち、その遥か下方、両の山裾が重なり合う場所に硝子を伸べたかのように透明な渓流が静かに流れている。

 そして今自分が立つ足元から渓流へと続くなだらかな斜面。



 そこには、見渡す限りのホワイトクローバーが咲き乱れていた。



 冬の雪が名残を惜しんで、その姿を花へと変えたかのように。

 いまだ雪をその山頂に戴いたがごとく、一面にその白さを輝かせている。



 風が吹いた。

 


 ぶわり、と地表を撫でるように吹いた風は、ホワイトクローバーの花や草の上に乗った朝露を、一斉に舞い上がらせた。



 それは、縫い留められた宝玉が風に舞っていっぺんに飛び散っていくかのような美しさで、陽の光を反射してきらめくその様は、どんな宝物よりも美しいのではないかと、本気で思った。




 うわあぁぁぁぁぁ、と歓喜の声を上げながら傾斜を駆け下った。


 ここしばらく声を出していなかったから、久々に腹の底から出す声はとても気分が良くて、それだけで心が上向きになれた。



 辿り着いた渓流はおそらく雪解け水なのだろう、恐ろしく澄んでいて、緩やかに流れていなければ硝子を張ったと言われても信じたのではないかと思うほどだった。

 おそるおそる指先を入れてみると、きん、と音がするほど冷たく冷えた水が指を濡らした。

 不意に、好奇心が頭をもたげる。

 


 ――こんなに美しくて澄み渡っている渓流を、中から見たらどうなるのだろう?



 一応荷の中にタオルがあることを確認して、上着を脱ぎ、空気を出来る限り吸い込んでから、思いっきり頭を突っ込んだ。


 世界の音が、一気に水流にかき消される。

 氷に頭を包まれたかのような冷たさに顔を上げそうになったが、好奇心という欲求の力で頭を押さえつけた。


 激しい水流が収まり、鼓膜が緩やかな自然の流れのみを捉えるようになった頃、ゆっくりと、瞼を開ける。



 その瞬間、遥か東国に伝わる伝承を思い出した。

 水中に存在するという龍王の宮殿。



 その呼び名は、水晶宮。



 目の前に広がる、あまりにも幻想的で現実離れした光景に、自分は伝説の宮殿に迷い込んだのではないかと本気で思った。


 興奮の余り、溢れそうになる声を懸命に抑える。



 もし、水中でも息が出来たのなら、地上と水中の区別が付かないかもしれないと思うほどの、遥か彼方までも見渡せるその透明度。


 渓流は深さが2メートルほどで、その底には青々とした植物が茂っている。

 それらが出したのだろう酸素が葉や茎に(まと)わりついていて、さながら真珠のようだった。

 地上にある植物が生えているということは、この渓流は雪解けの時にだけ現れるものなのだろう。


 そして、所々に街灯やベンチが置かれ、橋が掛けられている場所もあった。



 それらに陽光が幾筋も降り注ぎ、植物が生み出す硝子玉(がらすだま)のような泡が、その(きら)めきをまとって天へと昇っていく。

 



 山に積もった雪が解け、流れ出ることによって、この幻想郷は出現する。

 その限られた時期に訪れることが出来た自分の幸運を、とても嬉しく思った。





 東へ東へと進むうちに、気候や文化の違いも顕著に表れてきた。


 風にはどことなく砂が混じるようになり、建物も瀟洒(しょうしゃ)な造りというよりエキゾチックで妖艶(ようえん)な造りと言ったものが増えている。


 その中でも、群を抜いて目を引く建物があった。


 まっすぐに伸びる水路と遊歩道。その先に、丸く太い柱に白亜の大理石でできた壁や床、栗の形をした大きな屋根がのった見事なまでにシンメトリーな建物。



 これは、何のために造られたものなのだろう。

 この地の有力者の邸宅だったのだろうか、と想像を巡らせながら、好奇心に引っ張られるように速くなった足で、あちこちを見て回る。


 タイルがはめ込まれてできた壁を持つ建物も道中の街で見かけており、異国の文化の美しさと技術に何度も驚嘆した。



 壁にはめ込まれたタイルの繊細な模様を観察していたとき、ふと、ある考えが頭をよぎった。

 それは、その小ささに不釣り合いなほどの冷たさを持ち、春のように伸びやかだった心を瞬く間に氷漬けにした。



 ――もし、人間が戦争をしていなかったら。



 きっと、今でもこの一帯は有名な観光地として、旅行客で賑わっていたはずだ。

 ゆっくりと目を閉じて、もう一つの、あり得たかもしれない世界を、想像する。




 風の音がゆっくりと質量を増していくように、街の喧騒が徐々に耳の中で響き始める。

 


 道の両脇には所狭しと露店が立ち並び、店主が声を張り上げて客を呼び込んでいる。


 その国ならではの美しい工芸品に惹かれて立ち寄る者、嗅いだことのない美味しそうな匂いに誘われる者。店主たちの活気ある呼び声に負けじと、道行く人々の興奮の熱気も凄まじい。


 人の流れが大きな潮流のようで、前からも後ろからも絶え間なく人が通り過ぎていく。



 その中に、本と周囲を見比べながら、脇目も降らずに先を行く者がいた。

 周囲とは異なる印象を持つ彼に興味を覚えて、後を追うことにする。


 前から来る人をよけ、後ろから来る人とぶつかりそうになりながら、人波を縫うようにして辿り着いた先は、先ほどのシンメトリーな建物だった。手にしていた本は、ガイドブックだろうか。

 視線が何度か目の前の建造物と本を往復し、満足そうに中へと入っていく。



 それを見送って周りを見渡せば、実に様々な人がいた。現地の人もいれば、旅行客だろう人々がキャリーバッグを引いて横を通り過ぎる。旗を持った人を先頭にした一団が、がやがやと進んでいく。


 この地方に特有の黒髪に、旅行客の自分と同じような金髪が混じる。

 その他にも赤毛に栗色、自分好みに染めたものまで多種多様に渡る。



 その全ての人々が、異国の文化に興味を示し、敬意を表して、純粋に目に映る光景を楽しんでいた。



 街の喧騒が遠くなっていく。


 潮騒のようにゆっくりと引いていき、静寂が再び辺りに満ちたとき、に目を開けた。




 がらんと広い建物前の中庭。

 街全体を熱気で包むほどの人々はもはや影も見えず、白亜でできた建物の前にぽつりと立つのは自分一人だけ。



 もし、人間が異なる何かに敬意を示せていたら。

 もし、それらを受け入れて、共に楽しもうと思うことが出来ていたら。

 


 自分は今、一人ではなかったのだろうか。

 


 同じ星に生まれた仲間を殺せと、軍人として命じることもなかっただろうか。



 はぁ、と一つ小さなため息を吐いてのろのろと歩き始める。

 歩きながら、どうしても考えてしまう。



 わかっているのだ、歴史に“もしも”なんて無いということを。

 


 それでも、何度そう言い聞かせても、その“もしも”を考えずにはいられなかった。

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