第十六話 人は、生きるためなら
その吹っ切るような清々しい笑顔に何を思ったのか、自分でも分からない。
気付けばその質問は、息をするように口からついて出ていた。
「あなたは、それでいいのか」
ここで死を待つような生活をしていていいのか。
世界を歩き回って、色々なものを見て、聞いて、知らなかったことを知って、限りある生を延ばそうとは思わないのか。
短い問いに多くの意味を込めて問いかける。
その瞬間、男の顔から表情が消え去った。
静寂が、二人を包む。
その顔が、夕日の淡い金に照らされた。
一面光と金色に満ちた世界だった。
この世の全てを暖かな金色に染め上げ、運河の表面には金箔がどこまでも貼られていく。
紅に金色を混ぜたような色彩が空一面を彩り、世界はその日一番の輝きを見せる。
その光景を、おそらくこの街の住人はもう見る事がない。
そのような美しい景色は、心が締め付けられるほどに美しいその光景は、過去の幸福と共に封印した。
この街の住人は、夜に生きる。
街灯の淡い光が夜道を照らし、月の光が運河に銀箔を散らすその上で、夜空には冷たい星辰の光が瞬く。
闇と、銀色に支配された世界。
その対照のような世界に、今、自分と目の前の男は、立っている。
しばらくして、男がゆっくりと口を開いた。
「ああ」
短く、だがはっきりと、答える。
何が、とか何を、という語を欠いた曖昧な質問に、それでも男は明確にその真意を汲み取って答えた。
「俺はこの街で生まれ、この街で育った。そして――多くを失った」
それは、この世界の仕組みによって失われた部分もあるのかもしれない。
自分一人が何をどうしようと、変わらなかったかもしれない。
でも、そんな言い訳を免罪符にして、逃げようとは思わない、と。
「俺は最後まで自分がやるべきことをするさ。自分がこの世から無理やり消しちまった人間の、生きた痕跡を残し続ける」
もちろん生前クソみてぇな奴だったのは除外な、とおどけたように言う。
人生をかけて生き抜いた街に、そこに生きた人々に、すべてを捧げる。
それが、この男が決めた残りの人生の生き方なのだろう。
だとしたら、それをこの街の住人ではない人間が、しかも初対面の人間が、横から口を挟んでいい義理などあるはずがない。
「そうか」
それだけ答えて微笑んだ。
男に見送られながら、日が暮れる前に街を出た。
人を葬る元メルダーに長生きしろ、なんて言われたから、かえって長生きできるのかもしれない。
そんな元メルダーの長い物語と、その街の在り方から学んだことがある。
まず、人は自己の栄華のために自己が堕落していくことに気付かない、ということ。
それは戦争の原因にも直結するのかもしれない。
自分至上主義の自己中心的な考えで視野が極度に狭まった結果、自分より何か一部分だけでも優れている人間がいれば異常に毛嫌いし、妬み、嫉み、排除したがる。
確かに自分より能力のある人間が周りからいなくなれば、いつでも自分が最上位に立てる。
ただ、自己の人間性を堕としてまで得た栄光に、何か意味はあるのだろうか。
それは、いつか巡り巡って自分の首を絞めることになりはしないだろうか。
佐官がまともな指示を下せず、元帥指揮下の有能な将官だけでは保てずに前線が決壊して滅亡した、この国のように。
もう一つ、学んだことがある。
人は、二度と得られない幸福には、触れたがらないこと。
「過去の栄光にしがみつく」という言い回しがあるが、これはマイナスの感情を持つ言葉である。
いつまでも自分の過去の功績に囚われていて、自身の現状から目を逸らし続ける者を言う。
これは、その人が今現在その幸福とはかけ離れた状況に置かれていれば置かれているほど、顕著であるのではないか。
しかし、「過去の栄光にしがみつく」ことが出来るのは、その栄光をもう一度取り戻すことが出来る可能性のある者だけである。
過去を懐かしむことは誰にだってある。
アルバムを捲りながら、故人との思い出に触れることはある。
人は、親しかった人を亡くすと、その人を悼むために多くの時間を要する。
大切な人が一人亡くなったとしても、その人が自分にとって大切であれば大切であるほど、悼む時間は長くなる。
それが、一度に起こってしまったら。
昨日まで笑って話していたあの人が、あの子が、一度に大勢いなくなってしまったら。
それなのに街は普段と変わらない。
いつも行く店があって、帰りに立ち話をする角があって。その人の家の前で別れて、自分も家路について。
すべてそこにあるのに、通りに立つのは、自分一人。
喪失が大きければ大きいほど、人はそれに触れようとしない。
もう幸せは戻ってこないのだと、これ以上知ることがないように。
そして、自らの心を守るために。
そこまで考えて、逃がしてくれた元メルダーのことに思考が巡っていく。
あの男は、自らの間違いを認め、悔いてその罪を償おうとしている。
残りの人生をかけて。
もし、世界にあの男のような人間がもう少し存在していたら。
世界は今、どのような形になっていたのだろうか。
まぁ、こんな最悪に近い状況下でもしもを考えることほど虚しいことは無いな、と思い、赫赫とした夕日が背を押す中、ひたすら進み続けた。
甘いな、と元メルダーの男は思う。
赫赫とした夕日に背を照らされて進む元軍人らしい若造は、いまや輪郭もおぼろげなほど遠くまで進んでいる。
赤い煉瓦造りの建物に身体をもたせ掛け、ズボンのポケットに手を突っ込みながら、遠ざかっていく背中を見るともなしに眺めていた。
国の中で世の中に対して疑問も持たず、頭がお花畑みたいな理想で詰め込まれたあの若造には、今頃自分は罪を悔い改めてそれを償おうとする、子どもの教科書に使われる物語の主人公か何かのように思われているのだろう。
また、自然と口の端が吊り上がった。
なぜ逃がしたのか、自分でも分からない。
久々に負けて、気が動転していたから?
元軍人だったから?
頭がお花畑のボンボンのくせに、根性だけはあったから?
――あいつに少し、似ていたから?
軽く吐いたため息は、すぐに溶けて静まり返った街の一部になった。
どんな理由にしろ、あの若造は自分が元とはいえメルダーだということを、本質的に理解していない。
メルダーは、文字通り人を殺すことが職業である。
その職業に就いた理由がなんであれ、大抵の人間は自分から望んでその道を選んでいる。
しかし人間とは本能的に殺人を忌避する。
訓練期間を経てから最初に受ける何回かの依頼の後は、まともに食事が摂れなくなる。
銃や毒などを使ってある程度の距離から仕事を遂行することもあるが、ほとんどの場合は接近戦である。
本能が忌避する殺人を、ゼロ距離で何度も何度も経験する。
その度に精神と神経が摩耗され、やがて慣れていく。
その度に、死にゆく人間の目玉が、恨みを持つようにぎょろりとこちらを向くことにも。
訓練生だったころは人形に照準を向けるのでさえ手が震えたのに、いまや構えてから撃ち出すまでに一秒かかるか否か。
自分が作り上げた穴の開いた人形を見るのにもなけなしの勇気を振り絞っていたのに、幾度か実践を経ると、確実な死のためにさらに加えて二・三発撃つことにも躊躇というものが一切無くなる。
このようにして作り上げられていく「メルダー」が、そう簡単にもとの汚れていない人間に戻れるわけがないのだ。
そして、自分が嫌ったのは、意味のない殺人である。
高位高官を依頼に振り回されて殺し回っていたのは、一生の汚点だ。
だが、今は違う。
俺は生きなければならない。
殺してしまった彼らを、出来る限り後世まで伝えるために。
そのためなら、培われたこの技術を振るわない手段などない。
だから、あの若造は運が良かった。
荷を奪われずに済んで。
――肉にならずに済んで。
もし、本当に旅人が来なくなったら?
目を上げると、旅人の若造はもう見えなくなっていて、太陽が沈み切った街を薄紫の宵闇が包み込んでいた。
もうすぐ、街の住人が出てくるだろう。
何も変わらない日常を求めて。
人は、生きるためなら、何でもする。




