第十四話 害虫
その日、初めて依頼に背いた。
退勤した大佐の後をつけていくと、流れるように飲み屋に入っていった。
奴はクズの頂点に君臨しているような人間だと割り切っていたため、これくらいのことで驚きはしなかったが、自分もしばらく時間を置いてからその店に入った。
偶然を装ってカウンター席にいた奴に近づき、たまたま飲み屋で一緒になった客を装って会話を盛り上げる。
奴の話は反吐が出るほど気持ち悪く(自分が軍のどういう地位にいて、自分の指示でどれほど大勢の人間と貴重な兵器が動くかを延々聞かされた)、せっかくの酒が台無しになったが、適当におだててグラスを空けさせなかった。
奴も持ち上げられて気分が良いのか浴びるように酒を飲み、店を出たのは日付が変わった後のことだった。
店の外は身を切るように冷たい風が吹いていて、いつの間に降り始めたのか、ちらつく雪が舗装された石畳の歩道をうっすらと覆っている。
深夜の凍えるような街中を歩く人影は他にない。
千鳥足で進む奴を家に送り届ける役目を買って出て、支えるふりをして腰に腕を回していた。
意識が朦朧としていて自分がどこにいるのかもわかっていない様子の大佐を誘導して歩かせる。
大通りから脇に延びる小道へ。そこからさらに街灯すら灯っていない裏路地へ。
中ほどまで進んだあたりで、胸ポケットから小型のケースを取り出し、中に収められていた数本の小さな注射器の中から、一本を抜き取る。
極秘に研究と開発が進められていた、蚊の口針と穿刺動作を応用させたマイクロ注射針。
蚊に刺されたときと同じように、この針を用いれば痛みを感じることはない。
主に医療現場で使用されているが、メルダーの主力武器としても、その効果を発揮していた。
肝心の標的はとくに逃げ出すわけでもなく、雪の積もった地面にごろりと転がり、夢と現実の狭間でなにやらぶつぶつ呟いている。
このまま放置しても翌朝には死んでるんじゃないか、とは思ったが、やはりこの男は確実に仕留めておきたかった。
標的がこんなざまなので焦る必要もい。
ゆっくりとした動作で、針を奴の首筋に刺した。
針は少しの抵抗を感じたのちに、ぷつりと難なく肉を通っていく。
そのまま静かに針を抜き取ると、男が目を閉じたまま顔を顰めた。
首に違和感を覚えたのか、呂律が回らない舌でわけのわからない言葉を叫びながら手を振り回し、首を掻き毟ろうと暴れ始める。
それを軽い動作で抑え込んで数秒経ったか、どうか。
奴は口から泡を零しながら痙攣し、そして動かなくなった。
警察がろくな捜査をするわけがない。
明日の朝になって発見されれば酔漢の不運な凍死とでも判断されるだろう。
浴びるように酒を飲んだのだ。
全身から酒の匂いを放っている時点である程度の察しは付く。
物言わぬ肉塊と成り果てたそれを冷えた目で見降ろすことしばし。
冷えた大気に負けないほど冷えたため息を一つ吐いて、踵を返した。
今までのような達成感など、微塵もない。
これでまた戦争の終わりに一歩近づいただろうか、という甘い幸せな夢想など、出来ようはずがない。
結局は自分も良いように使われていただけである。
連中の手は汚さずに自分が奴らの面倒ごとを全て背負ってきたという、それだけのことである。
メルダーは、命じられるままに人を殺す。
もし、本当に戦争が終わったとして。世界に平和が戻ったとして。
――自分はその中に溶け込めるのだろうか。
罪のない誰かを殺したくせにのうのうと生きながらえて。
自分がメルダーを選んだのは何のためか。
無辜の民を傷付けないためではなかったのか。
10年前のあの日に下した決断を、間違いだったと認めたくなかった。
認めてしまえば、この10年は果てしなく無駄だったことになる。
自分の人生が無駄になるだけなら、まだ良かったかもしれない。
しかし自分は、人の人生を破壊し、国を内側から喰い荒らしていた。
罪と、怨嗟の声を増やしていただけ――。
考えれば考えるほど動悸が止まらなくなり、体中から滲み出した汗が全身を冷やして、ますます世界と自分とを隔てていく。
それでも、思考が止まらない。
ここで、止めてはいけない。
もし、今あの時に戻ったとして、自分は同じ選択をしただろうか。
いや。答えなど、分かり切っている。
――無辜の民でありたい。戦争を止めたい。メルダーになって、人々を支えたい。
ハッ、という心からの自嘲が漏れ、黒いインクのような自虐がぼたぼたと垂れるように心を覆い尽くす。
侮蔑と嘲笑の入り混じった罵声が耳を塞いでも防げない心の奥底から湧き上がり、脳みその内側に反響した。
メルダーは無辜とは対極だよお前はメルダーになった時点で二度と光ある世界には帰れない何が世界を救いたいだこの人殺しめバカか頭使えよお前のせいで誰かのどうしても生きたかった明日は永遠に奪われたんだよお前のせいでなおいおいよく考えろよお前は、善良な、市民の、皮を、被った、害虫なんだよ‼
この、偽善者が‼
「それから俺は殺しの依頼を受けることを止めたね。世界の崩壊の片棒なんか担ぎたくねぇと思ってたのに、いつの間にやら俺は片棒を担ぐどころか国を中から喰いまくってた」
幸いなことに、自分が手にかけた人間のデータは処分していなかった。
手元に置いて、それが厚みを増すたびに自分はこれだけの害悪を排除したのだ、という達成感と仕事への誇りを味わえたから。
そのデータを基に一人一人改めて身辺を調べ直した。
知人や友人を訪ねて人柄を聞き出し、標的ではなく一人の人間として彼らに向かい合った。
依頼を受けて自分が殺した人間は、誰からも恨まれそうな根腐れが大半だったが、やはりどうして殺しの依頼が来たのだろうという人も中にはいた。
いや、依頼を受けたときに依頼者からそれなりの説明は受けているはずなのだが、それさえも一方的な印象でしかない。依頼者にとってはそうだったかもしれない。
でも、他の誰かにとっては?
友を殺せと依頼してきた大佐を思い返す。
奴は明らかに嫉妬していた。
自分よりも若く眉目秀麗、品行方正で才があり、部下からの信頼も厚い。
それゆえ軍の上層部に気に入られて出世街道をひた走っている。
対する自分は脂ののった中年で軍の佐官にいるのもコネによるもの。
才能があるわけではなくこれといって目立った成果もない。
常に自分の面子を気にするため期待も人望もない。
あの死刑宣告のような作戦前の会議では、盗聴器越しとはいえ大佐のドロドロとした嫉妬・憎悪・そして本当に一抹の、そんな自分自身に対する嫌悪感が表れていたように思う。
戦争は、人を狂わせる。
いや、人が狂ったから戦争が始まったのか。
もう真実は誰にも分からないし、今更そんなことを知って世界が元に戻るわけでもない。
だが、何の罪もない人間を殺したと知った上で、自分だけ逃げ隠れようとは思わなかった。
手元に残ったデータを基に、遺族がいれば匿名で生活の支援を行ったりした。
身寄りがいなければ、墓に花を供えに行ったり、新聞の投書にその人の生前の人柄を讃える文書を送ったりした。
墓石は長く残り、その人がこの世に存在していたということの証明になる。
常に花が供えられていれば、慕われていた人だったのだと思われるのではないか。
新聞は後世に伝えるには少々頼りないが、それでも公共の出版物としてある程度は保存される。
出来るだけ長く、後世に、未来に、自分が奪ってしまったその人の在り方が残ればいいと思って。
自己満足だと分かっていた。そんなことをしても自分の罪が薄くなるわけではない。自分が手にかけたその事実がなかったことになる訳もないことなど、知っていた。
それでも、何もしないでいるよりは。
殺しを止めてただのうのうと暮らしているよりは。
ほんの少しだけでも、どうしても、人の役に、立ちたかった。
それからしばらくして風の便りに、例の死に急ぎ作戦が立ち消えになったと聞いた。
作戦指揮の大佐が死んだかららしい。
それに加えて、各方面の前線基地に散らばって指揮を執っていた将官たちが、本部に帰還してこの事件を知り、仰天して作戦を取り消したそうだ。
本部には元帥と使えない佐官、その下の尉官しか残っておらず、情報伝達もおざなり。
奴を殺さなければ、将官が返ってくる前に友は葬りさられていただろう。
あのクズの大佐によって、自分から前線を志願したとかなんとか報告されたはずだ。
やっと、守るべき人を一人守れたという細やかな喜びとともに、底知れない恐怖が頭を支配した。
自分が奴を殺さなければ、友は死んでいたということだろうか。
いや、十中八九そうだろう。
自分が依頼を放棄して姿を隠したとしても、奴は別の暗殺者に依頼しただろう。
仮に依頼しなかったとしても、一月後に友は名誉の殉職を果たすのだから。
自分より“持つ”者を決して許さない。
奴は持たない者だった。
持たない者は持つものを妬む。
それはほとんど人の性と言っていいものだと思うし、ある程度は仕方がない。
しかし、奴はそこからさらに下へ堕ちていくことを自ら選んだ。
持つ者をこの世から消し去れば上に昇ることが出来るとでも思ったのだろうか。
自分の心を写し取ったかのような鈍色の曇天を見上げて、深く息を吐いた。
きっとこの世界には、人として堕ち切った人間が、多く蔓延っている。




