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楽園  作者: 雨宮寿霖
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第十一話 蛮行

 その日の内にその街を出て、東へと進んだ。


 何日間かはいくつかの似たような街に行き着いて、そこの廃屋やら比較的破損の少ない無人家屋に寝泊まりした。


 「国」という機能を維持した共同体に出会うことはなく、それゆえ「法」による支配はほとんど無力化されていた(戦争が激化した時点でほとんど意味を成さないものとなってはいたが)。

 

 よって、この世において善悪の基準を判断するのは個人の倫理観のみということになってしまったが、そもそも人に出会うことが滅多になかった。

 というよりも、互いが互いを避けているように感じた。


 なるべく出会わないように、自分の存在を悟られないように。


 今まで生き残っていた人間は大体が民間人で、自分の家族や親戚、友人などがどのような末路を辿ったのかをよく理解している人々だった。

 そして民間人だからこそ、戦時下における人々の本性とでも言うのだろうか、生き抜くためには隣人をも犠牲にして生き残らねばならない非情さを知っていたため、他人と慣れ合うことを嫌っている風だった。


 これ以上自分自身に、害が及ばないように。


 あるいはそれは、一つの優しさだったのかもしれない。

 これ以上見知らぬ誰かを、傷つけないために。


 そして善悪の基準が個人の倫理観に支配されるとは言っても、戦時下の倫理観などは常時よりも当てにならない。




 (にしき)のように色付いた木々が世界を紅と黄に染め上げ、澄み切った風が肌に心地よい清々しさを与えるようになった頃、煉瓦造りの華麗な街並みに足を踏み入れた。


 最近まで人がいたようで、植木や街路樹などは綺麗に刈り込まれており、硝子がきちんとはめられた曇りのない両開きの窓も、歩く自分の姿を鏡のように映していた。

 煉瓦でできた石畳の歩道の両側には瀟洒(しょうしゃ)なデザインの街灯が等間隔で並べられ、人の往来で活気のある、明るい場所だったのだろうと想像するのに難くなかった。


 図書館でもあれば寄ってみようか、と取り留めもなく考えていたとき。


 

 唐突に頭皮に激痛が走り、ぐん、と首がのけ反った。


 

 視界いっぱいに、抜けるように高く、水彩画のように淡い水色の空が広がった。

 髪を強い力で後ろに引かれ、無理やり上向きにさせられたのだと理解するのとほぼ同時に、喉元に、何か冷たいものが触れた。


 足音も気配も何もない、あまりにも突然の蛮行(ばんこう)に、驚きや恐怖の叫びを発する暇もなかった。

 なるべく相手を刺激しないように両手を上に挙げ、視線だけを動かしながら相手の出方を窺う。


 喉の凶器を一度でも横に引かれたら、その瞬間に自分は終わる。

 

 心臓が胸の内を暴れまわり、嫌な汗が手のひらと背中に際限なく流れ落ちた。

 自分のものしか聞こえない浅く早い呼吸の中、数秒にも満たない時間が永遠の長さに感じる。


 耳元に生温かい吐息が近づき、地の底から這い出たかのように低く、害意にまみれた男の声が、囁くように言った。


「このまま振り向かずに荷物を置いて去れ」


 言い終わると同時に、首元にある残酷な冷たさが少しだけ離れるのを感じ、全身の筋肉を覆っていた緊張が(わず)かに緩まる。

 確かにこんなに大きな鞄にいろいろ詰め込んでいたら、そりゃあ狙われるか、と今考えなくてもいいことを考えた。


 ゆっくりと、右のショルダーストラップから外していく。続いて、左。

 少し離れたとはいえ、まだ目と鼻の先にあるような白刃を意識しつつ、ゆっくりと、肩から降ろした鞄を両手で掴みながら、地面に置いた。


「よし、そのまま行け」


 ナイフが視界から消え、一つ大きな深呼吸をする。

 そのまま一歩、二歩と小さく歩を進めた。

 

 三歩目を、右足が踏んだ瞬間。その足を軸に、相手の顔面があるだろう位置へと回し蹴りを叩き込んだ。


 しかし、足首に訪れるはずの衝撃は感じられず、渾身(こんしん)の一撃が宙を切ったことを知る。

 寸前で相手が後方へと飛び退って回避、鼻先を(かす)めるに留まったのだ。


 近づかれたときに足音も気配もしなかったため、何か、酷く身のこなしを制限し、そして常人以上に自由に操ることを要求される職に就いていたのだろうと察せられた。

 ――軍人か? 

 いや、昨今の軍人は飛び道具があるから、ここまで距離を縮める対人の接近戦術は必要とされない。

 

 だとしたら、軍人以外で、なるべく人に気付かれず、このご時世でより必要とされたもの――。


 間合いを取りつつ相手を観察する。

 パーカーのフードを目深にかぶっていて表情はよく見えず、髪で目元も隠されている。


 笑いそうになるほど典型的な裏稼業の人間だった。

 わずかに見えた口元から、あまり若くはないことがわかるのみ。


 だが、先ほどの素人では考えられない反射神経の良さから、年齢の差を相殺してもなお、おつりが相手に与えられるほどの技術の差を感じる。

 

 奪われかけている鞄は、旅の始まりの日に故郷から背負ってきたものである。

 その中身も、今まで訪れた街や国の家屋から拝借したもので、食料や衣類、寝具、簡単な医療道具、そして本やちょっとした記念品が収められている。


 今後の生活に必要だというのも勿論だ。

 だが、あの鞄はむしろ、自分にとっての、今までの旅路の痕跡そのものである。

 

 抵抗もせずに目の前でかっさらわれていくのは、今までの旅で得た学びやそこで生まれた感情、そして、ささやかだが自分にとっては大切な思い出そのものまでが奪い去られていくようで、それを黙って受け入れるのは、どうしても、自身の矜持(きょうじ)が許さなかった。


 が、多少想定していたとはいえ、明らかにこちらの分が悪いと改めて気付かされて後悔している。

 そんな自己反省を切り裂くようにして、(やいば)を手にした男が躍りかかってきた。

 基礎的な体術を習得しているのみの自分が、どこまで対処できるのか。


 ぺろり、と下唇を舐めて視線を相手に定め、腰を低く落として重心を固定する。

 

 ナイフを持って突き出された右腕を(かわ)しざまに抱え込み、関節の可動域とは逆の方向に捻り上げた。

 くぐもった呻きがフードの中から漏れ聞こえる。

 それにより一瞬行動が鈍くなった相手の顎にアッパーカットを食らわせた。


 その反動で男の身体が吹き飛ぶ。

 これで諦めてくれないかな、と思い様子を伺っていたが、男は石畳にのびたままだ。

 気を失ったのなら今の内に逃げるべきだろうと、道の端に放置されていた鞄を掴んで顔を挙げたときだった。


 

 銀色の光が、目の前を刹那の速さで通り抜けた。


 

 音もなく近づいていた男が、ナイフを振り抜いていた。

 額を、横一文字にズキズキとした痛みが広がっていく。


 あと一瞬、ほんの少し回避が遅れていたら、目をやられていた。


 飛び退って距離を取ろうとするも、疾風のごとく追い上げられる。

 首を狙った一閃を屈んで回避、そのまま男の腰を掴んで身体ごとぶつかりに行った。二人して倒れこんだ石畳の上でナイフを持った男の右手を掴み、そのまま踏みつける。

 呻きながら取り落とされたそれを蹴り上げて遠くへ飛ばして無力化し、男の上に馬乗りになって張り手を五往復ほど食らわせた。


 男の唇が切れて血が滲みだしたとき、やっと、お互いが動きを止めた。

 

 二人の男の荒い息遣いのみが場を支配する。

 息を整えることしばし、だいぶ呼吸が安定してきた頃、男が苦笑気味に口を開いた。


「俺も、身体が鈍ったな」


 見た目で人を判断するんじゃなかった、と(いま)だ整わない息を、吐き出すように言った。

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