第一話 追憶の始まり
かつて大都市と呼ばれ、高度な文明を咲き誇らせていた街は、煙るような桜色に包まれていた。
春、地球上の生きとし生けるものがその生を味わい、謳歌する季節。
金の陽光が地上の全てのものを柔らかく照らしだす。
地上から天に向かって一斉に生え伸びた植物には、陽の光を掬い取り宝玉のような輝きを帯びた朝露が湛えられ、元はコンクリ―トによって舗装されていたのだということをまるっきり感じさせない。
その両端にはコンクリ―トを持ち上げるようにして逞しい巨木がいくつも根を張り、どこまでもしなやかに伸びた枝は淡い桜色の花を天蓋のごとく、空が隠れるほどに咲き誇らせている。
その美しい木々を挟み込むようにして、遥か昔には文明の象徴であっただろう数々のビル群が、ひっそりと林立していた。
もうかつてのような威容はのぞめず、半ばから上が失われているもの、表面を覆っていたのであろうガラス張りの外壁が全て割れて飛び散り、幾つもの暗い目を虚空に向けているかのような佇まいである。
それは、己を造る高度な文明と技術を持ち合わせながら自ら滅び去っていった者たちの有様を嘆き、呆れているかのようであった。
それらの建造物は高いも低いも関係なく、緑の蔦が絡まり、あるいは木に取り込まれるようにして自然の一部へと帰ろうとしていた。
まるで、生まれ出るべき物ではなかった物をもとある形に戻そうとするかのように。
――その存在そのものを、なかったことにしようとするかのように。
不意に、金管楽器の高音を吹き鳴らしたかのような音が春の香気を含んだ風に乗せられ、辺り一帯を包み込んだ。
その音を生み出した主は、天を仰ぎ見るようにしていた頭をゆっくりと正面へ向けると、一歩一歩を踏みしめるような足取りで歩み始めた。
四足歩行で、耳が大きく鼻が長い。
その大きな灰色の生き物は群れを成して悠々と道(だったもの)を横断して歩き去っていく。
それを合図にするかのように、様々な生き物が動きだす。
網目模様の首が長い生き物が二、三頭連れ立って歩き、ガラスが嵌められていない窓枠から生え伸びた高木の草を食み始める。
白と黒の縞模様が美しい生き物が薄桃色の花びらが散った草地で寝転び、角を立派に生やした生き物が、しなやかな身のこなしで獲物を探しながらあたりを歩き回り、軽々と崩れた橋を飛び越えた。
その近くを耳の長い生き物がもふもふと跳ね回り、草が方々から生え、朽ちかけて穴だらけのベンチの上で毛玉のような生き物が丸くなって眠っていた。
それらの上を、小鳥が春の到来を寿ぐように、鳴きながら飛んでいく。
穏やかな、春の日である。
時折生き物が鳴く声が遠くに聞こえ、草を踏み分ける音以外は、風が吹き渡っていくのみである。
誰にも邪魔されることなく本能のままに生き、そして死んでいく。
元は自然のものでありながら長らく踏み入ることが叶わなかった、果てしなく広大な場所が自然に還りつつあり、動物たちにとってのオアシスとも言えるようになっている。
ひどく静かで、そして寂寥としていた。
***
かつて食物連鎖の頂点に君臨しているとされた「人類」は、約百年前に滅亡した。
今この地球上にいる生き物たちはその理由を知る由もないだろうが、一言で表すならば「自滅」である。
異なる思想を持った人間を遂に受け入れることのできなかった多くの為政者が、それぞれ暴力という手段によって、全人類の思想を自分にとって都合のいいように統一しようとした。
彼らには、「口」という器官があり、その発達した脳によって「言語」という意思疎通手段も存在していたはずなのに、何を血迷ったのか彼らが最後にとった手段は、原始人さながらの「暴力によって解決する」、と言うことだった。
当たり前のことであろうが、戦争によって多くの人が死んでいく。昨日とりとめのない話をした隣人、かつて隣の席だった同級生、また会おうと約束を交わした友達、そして家族。
生まれた時から側にいて、その存在が自分にとって当たり前になっている人々の死をも目の当たりにしたとき、人間の思考は常時とはいささか異なる働きを始める。
戦争は良くない。
これは義務教育の段階で教えられる、人としての倫理観の根本にも基づく事柄である。
戦争が始まって少しした頃、次第に麻痺していく思考の片隅にも、人としてあるべき在り方を忘れた者は多くはなかっただろう。
話が通じないから、居たら都合が悪いから、という完全な悪意を持って同胞を手にかけるのは、自分が生き延びるために獲物を狩る動物以下である。
これ以上人としての道を踏み外す前に、これ以上多くの人が死ぬ前に、戦争を止めるべきだ。
平時なら当たり前のように人々が抱くこの考えは、親しい人々が犠牲になっていくにつれて異なる様相を呈し始めた。
ここで戦いをやめたのなら。
なぜ、父は死んだのか。なぜ、兄は髪だけしか帰ってこなかったのか。
なぜ、弟は身体すら見つからないのか。
なぜ、彼女は泣き叫びながら自ら命を絶ったのか。
ここでなんの戦果もなく話し合いで停戦協定が結ばれたのなら、親しかった、死んで欲しくなかった、生きていて欲しかった、もういないあの人たちの死は。
一体なんのために――。
こうして彼らは、先に死んでいった仲間たちの死を無駄にしないために、彼らの死に報いるために戦いを続けた。
それは人間にとって「憎しみ」や「復讐」と呼ばれる感情であったが、戦いの熱に浮かされた人々は、その負の連鎖に気づくことはなかった。
もし仮に気付いたとしてももはや誰も後戻りできない場所まで事態は進行していた。
戦争とは、どちらも自分の主義主張が正しいと信じている者同士が行う。
降伏することは相手の意見を通すことであり、自国の犠牲が犠牲のまま終わるということである。
犠牲によって得られる対価はない。
よって彼らは戦い続けた。
自らの思想に反する者が存在する限り。
戦争が始まって100年経った時、世界の人口はおよそ1000分の1に減っていた。
この頃になると、彼らは敵国の人間に敵意を抱くというよりも、自分以外の他者に恐怖心を抱くようになっていた。
目の前にいる人間が自分と違う思想を持っていたら、いつか殺しに来る、という一種の被害妄想のようなものが人類全体に蔓延していた。
それは、人が人たりえることを放棄したという、人間の罪に対する罰であったのだろう。
他者を拒み、戦争を始めたあの日から、人類の滅亡は始まっていた。
そんな中で最初に死んでいったのは、兵士として招集された大人の男たちだった。
国を守るため、仲間を守るため、家族を守るため、そして己の信じる正義を守るために彼らは鉛玉の雨を掻い潜って行き、そして帰ってこなかった。
世界中が混乱し、自分の身を守るのに精一杯だったため、戦地から兵士の亡骸またはその一部が戻って来ても、丁寧に埋葬する時間など無いに等しかった。
最初は、兵士用の共同墓地にまとめて埋葬されていたものの、戦況が悪化するにつれて遺体そのものが戦地から戻ってくることはなくなった。
死んだその場所に放置され、そのまま朽ち果てるのを待つのみ。
初めは仲間の死体の上でなおも戦わなければならないことに酷く精神を摩耗させ、心身を消耗していた生き残りの兵士たちも、時間の経過と共に何も感じなくなっていった。
やがて戦地が拡大していくにつれて、一般人の避難が追いつかなくなってきた。
そうして市民にも犠牲者が出始める。体を動かしにくい老人、小さな子供、力の弱い女性……。
戦地がじわじわと広がっていくにつれて、そこに大地に斃れ伏す死体も同様に広がりを見せていった。
多くの文化財が灰になり、古の時代に建てられた建築物が瓦礫となって、海や川、湖は赤く染まった。
美しい緑はことごとく轟轟と赫く燃え盛り、黒く変じ、全てを灰塵に帰すように、大地を鉄が穿ち、炎が赤い舌のように全てを舐め尽くしていった。
全てが終わったとき、緑と青の対比が美しかった惑星は、焦土と化した大地によってかつての美しさは望めなくなっていた。
今回は世界観の紹介のような形ですが、次回から登場人物が出てきます。