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第22話 今こそ守る時

「燕、見るな。下がってろ」


目の前の男から庇う様に、俺は燕の前に立った。

足を止めた男が、俯いていた顔を上げる。


「……ぉ前……その目……」

「あ?何だよ?」


不安定に揺れる男の長い前髪から覗く不気味な窪んだ目が、俺にぎょろりと向けられた。

背筋に気持ち悪い汗が伝わり、嫌な記憶が脳裏に過る。


「…覚えてる……覚えてるぞ……」

「………」

「…()()()も、邪魔してきたガキだ。せっかく俺が見つけた獲物だったのに…お前のせいで殺せなかった……お前のせいで……お前のせいで…」


ぶつぶつと掠れた声で呟き続け、男が苛立たしげに髪を掻きむしっている。


…奇遇だな。俺もだよ。どんなに忘れたくても忘れたくても忘れたくても忘れられないよ、その目だけは。忘れる事など許されない目。何年経っても頭にこびりついて離れないよ。




俺の目の前で椿さんを刺したお前の事だけは。




「っ…あ、……あぁ……っ………!?」


…ああ、気付いてしまったか。

背後から聴こえる不規則な呼吸。燕が倒れてしまう前に、この状況をどうにかしないといけない。とは言え、下手に視線を切れば、その瞬間飛びかかってきてもおかしくない。

何をしてきても、何一つ不思議ではないのだ。


「(…どうする…)」


異常者というのは、こうして現実で相対するとこれ程までに恐ろしいものなのか。

荒事には普通よりは多少慣れているつもりだ。自慢にもならないが、椿さんを喪ってから暫く、俺は一時期荒んだ生活を送っていた事がある。

されど喧嘩。たかが喧嘩だ。明確に人を殺せる凶器に立ち向かった経験は、無い。


「……」


そして、恐怖以上に奥底から湧き上がる感情がある。

暗くて昏い、どろりとした感情。

今更、これは一体何だ、などとぬるい事を言うつもりも無い。鼓動が跳ねながらにして、芯は冷え切っていく。




こいつが憎い。


こいつが憎くてたまらない。


こいつが




こいつを




「晃」

「っ…」


息を吸って吐くことすらままならない逼迫した状況下。今、この場で最も落ち着いていたのは、この場で最も意外な人物であった。


「ひ…雲雀…?」

「雲雀、どうすればいい?」


横目だけを向ければ、強い決意の込められた無垢な瞳が、下から真っ直ぐと俺を見つめていた。

揺れる事の無い強固な目。あの日の記憶など無いだろうに、お姉ちゃんの尋常ではない様子を目にしただけで、事態を理解したのだろう。それを目の当たりにして漸く、俺の中から込み上げていた澱んだ闇が晴れていく。


そして俺は、一つの決意を固めた。


怒られるかな。怒られるだろうなぁ。泣かれたら嫌だなぁ。あーくそ。防犯ブザーくらい持たせときゃ良かったなぁ。


「…雲雀」

「ん」


「手段は何でもいい。警察(おじさん)をどうにかして呼んでこい。…出来るか?」

「ん」


迷う素振りすら無い、即断だった。

こくりと縦に動いた小さな頭がこれ程までに頼もしいと思う日が来るだなんて。お前をこんなに誇りに思った事は無いよ。


「晃は」

「お姉ちゃんは、俺が死んでも守ってやる」

「………」

「あー…はい。生きます。頑張ります」

「ん!」

「!?あ、晃、何言って…!」

「動けない奴は黙ってろって」


どうせ膝が震えてまともに走れもしないくせに、口だけは達者なんだから。

男が一歩前に出て、俺達全員の身体が震えた。


それでも、俺だけは下がることは許されない。許さない。


心を奮い立たせると、同じ様に前に出て、俺は男と真正面から向かい合った。


「また…逃げるのか…?今度は、逃さない……、今度こそ……」

「やー涙ぐましいね。あんな赤ん坊の顔までしっかり覚えているなんて。その素晴らしい記憶力、もっと別の事に使えば?」


膝が震えそうなのを、爪先に力を込めて無理矢理抑え込む。


「…お前は…いらない…。お前じゃない…。あの女みたいに…また邪魔するなら…お前も…殺す、ぞ…」

「へー見逃してくれるんだ。意外に優しいところあるじゃん。何で幼気な子供を殺そうとするん?」


声が震えそうなのを、軽薄な演技の中に無理矢理閉じ込める。


「……うるさいんだよ……子供はうるさい…特に赤ん坊は…うるさい……うるさいうるさいうるさいうるさい……うるさい……!」

「…マジでたったそれだけなのかよ…」


握り締めすぎて震えていた手から、熱が引いていく。

何とも勝手な言い分もあったものだ。ならば己は産まれた時から弁えていたとでも?

せっかく腸が煮えくり返ってどうにかなりそうだったのに、ここまでお目出度いと、最早恨み憎しみよりも、哀れみが先に来てしまいそうだ。


また髪を掻きむしっていた男の動きが、ぴたりと止まった。血走った目が狙いを定めたのは、言うまでもない。


「…もう、いい…」


鋭い刃の切っ先が、緩やかに俺の胸へと向けられる。


「なら、もう、お前も、殺そう……。その目……その目だよ……。皆その目で俺を見る…。その真っ直ぐな目は…嫌いだ…!」

「雲雀!走れ!!」

「!!」


俺の声にすかさず反応した小さな足音が、脱兎の如く遠のいていく。お姉ちゃんとの運動の成果がここに来て活きている様で何よりである。その努力を無下にする様な真似だけはしてはいけないな。お兄ちゃんとしても。


「っっ!」


ここで俺も逃げてしまえれば、それが一番楽なのだろう。だが生憎と、俺の背中には弱っちい小鳥がいる。最早ピヨピヨ鳴く事も出来ない有様の情けない小鳥が。


なら、誰かが守ってやらなければならないだろう。

それがたまたま俺だっただけだ。


あの日からそう誓っただけだ。


「っ!?」


刃を向けられて逃げるどころか向かってきた俺を見て、一瞬、男の足が鈍った。

悪いね。これ以上、あんたのくっさい体臭を乙女に近づけるのもあれだろ?


その機を逃すまいと、先に手を伸ばそうとした俺であったが、男が体勢を立て直すのも、これまた早かった。


こちらへと向かって躊躇無く突き出される鋭い刃。男の右手から繰り出された純然たる殺意を、間一髪右脇の下を潜らせる形で躱した俺は、男の手首を掴んで逆向きに捻り上げる。堪らず男が落とした包丁を、靴で手の届かぬ距離へとどうにか蹴飛ばした。


「(…おじさん…!訓練、役に立ちましたよ…!)」


まさか、あの人がここまで想定していた訳も無いだろうが、教えてもらっておいて良かったと、心から感謝する。


「ぐっ…!」


この後、このまま、背後に回り込んでっ…、上手く膝を折らせれば…。


だが、実戦と訓練では、やはり状況が違う。

こちらの余裕の無さもそうだが、何より相手の必死さ、容赦の無さが段違いだ。


「……がぁあっ!!!」

「っ!」


獣の様な咆哮を上げて、男が尋常ではない力で無理矢理俺の拘束を振りほどいた。

っ…何だよこの馬鹿力。まさか、薬にも手を出してるってやつ?


だが一先ず武器は無力化した。なら、こっからは正真正銘ガチの殴り合いで…


「晃ぁっ!!」

「っ!!」


踏み込んだ俺を、震えながらの大声で必死に食い止める燕の叫びが聞こえてきたのはその直後。


「(何――)」


男が落とした筈の包丁を、手に持っていることに気づいたのも、また。

その刃の切っ先は、既に俺の腹部へと迫っている。


「(2本目っ――)」


ああ、それは、予想していなかった。


参ったな。下手に踏み込むんじゃなかった。


刺されたら、痛いんだろうか。痛いんだろうな。











ああ、こんなに血が出てるのを見るのは、あの日以来だ。




こんなに出るもんなのか。




こんなに痛くて、苦しいのか。





椿さんは、そんな痛みを味わったのか。






椿さんは





椿さんに






こんな痛みを味合わせたのか!






「―――――な」


男が目を剥いて、信じられない形相を見せている。


何だよ、そんなに驚くとは思わなかったな。


「い……………」




掌を貫く刃を、流れ出る血も厭わず躊躇無く握り締めて、俺は目の前で唖然とする男を毅然と睨みつけた。










「――――っっってぇなコラあ!!!!」


そして、もう片方の腕で容赦も加減も無く、思いっきり男の頰をぶん殴った。あの人の分をこれでもかと言う程に込めて。

経験だけは豊富な分、こう言う時の俺は殴れる人間だっつーの。やってて良かった喧嘩。いややっちゃ駄目なんだけどさ。


「はぁ……!はぁ……!!………は…!……は…………っ」


無様に、そして情けなく地面に叩きつけられた男が何度も転がり、動かなくなった。

それを満足に見届ける余裕も無く、俺は肩で大きく何度も呼吸して、必死に痛みを殺す。


包丁が絶賛ぶっ刺さったままの掌がとんでもなく熱い。テレビの中でしか見たことの無い新鮮ピチピチの少なくない血液がぼたぼたと流れ落ちて、早くも地面に血溜まりを作り出している。


「(痛い痛い痛い痛え痛え痛えいた―――)」

「晃、晃!晃ぁ!!」

「(――く、……ないっ!!!)」


男が動かなくなった事で、燕が涙を流しながら何度もつんのめって、俺の元へとやってきて弱々しく縋り付いてきた。俺の顔と掌とを交互に見て、ただでさえ青い顔をみるみる更に染めていく。


「あきら、ち、血が、出て、やだ、やだ、晃、死んじゃう…死んじゃうよぉ…!!」

「死なんわ。別にそんなに痛くねーし。…あー…抜いていいのかコレ…?」

「駄目に決まってるでしょ!!…ん!?駄目なの……?え、どうしよ、どうしたら……っ」


燕のあまりの取り乱しぶりにかえって冷静になった俺は、何でもない振りを装って未だ血の滴る掌を上下に振ってみせる。はい、演技ですけど、何かぁ゙…っ゙?


まあ、高校で掌に包丁ぶっ刺さった馬鹿の治療法なんて教わる訳無いわな。

いや、でもまあ、刺さったままじゃ止血もままならんし、抜くしかないよな。…抜くのか……。いや、抜けるのか……?刃は幸い比較的細いし、…いけるか……?


「ごめん、ごめ、ごめんなさい…!私が、私が役立たずだからぁ…っ」

「いや燕さん…」

「あの時だってそうだったっ!晃は私達を必死に゙守ろうとしてくれて!なのに私は何の役にも立てなくて!泣き喚くしか出来なくてぇっ…!」

「燕……」

「ごめんなさい……!ごめんなさぁい………っ!」


…高校で大事な女の子が泣いてるのを慰める上手い方法とか教えてくんないかな。教えるべきじゃない?ホント日本の教育って遅れてるわ。情けなくて涙が出ちゃう。男の子だもん。


「つば――」


無事な方の手を、燕の頬に添える。

涙と鼻水で濡れた顔を惜しげも無く晒す燕の向こうで





男が、立ち上がっていた。

その手には、さっき弾き飛ばした包丁。






「燕!!!」

「ぇ―――――」




男が意味不明の叫びと共に三度包丁を手に携えてこちらへと駆けてくるのと、俺が燕を横に突き飛ばしたのは、ほぼ同じタイミングだった。


座り込んだままの俺では避ける事などままならない。


ならばと、もう片方も犠牲にする覚悟で、血が噴き出すことも厭わず、俺は両手に力を込めて必死に体勢を立て直そうとするも、


「(くそ、間に合わな―――)」











「よく頑張ったね。晃くん」











「ありがとう。君を本当に誇りに思う」


目の前に、見覚えのある背中が立ちはだかった。

よく知っている背中。いつも慌ただしい背中。いつも娘達に呆れられている背中。




あの人と、同じ背中だ。




何て、頼もしい。


「(あー……くそ……)」


せっかくの格好づけどころだったのに。

結局、何一つ良いところも無いまま全部掻っ攫われるんかい。


力が抜けて、再度その場に座り込んだ俺の目の前で、大の大人の身体が綺麗に半回転して、背中から地面に豪快に叩きつけられる光景が繰り広げられるのだった。

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