恋咲〔最終幕〕
(読み) 紅と嘘 恋咲
目を瞑る 心臓を叩く 大きく深呼吸 白塗りと木の香りが鼻を撫でる。
茄之助はいつも以上に緊張していた。そのせいかいつもより幾分か鼓動が早い気がする。舞台袖からは橙、深緑、黒の垂れ幕や舞台セットの家、そして大勢の観客が見える。
茄之助が最初の入場だ。
心地の良い機を待つ 一歩前へ さらに前へ 茄之助の鼓動と拍子木の音が重なる。
今だ。
「我が娘に、最高の嘘を」
茄之助は和楽器の演奏と共に舞台へ繰り出した。
◇ ◇ ◇
艶やかな桃色の和服、滑らかな白塗りに包まれた可憐な女性がゆっくりと、小さな歩幅で舞台中央まで歩いてきた。そして、まるでこの機会を祝福するかの様にニコッと微笑む。
「綺麗…」
それは紅葉はから無意識に呟枯れた言葉だった。
周りの観客も指の先まで洗練された女方の艶かしい動作に目を奪われているようだ。
それは女方が歩くことによる床の軋む音さえが紅葉の元まで聞こえるほどだった。
町娘の役を華麗に演じる父親の姿が紅葉の瞳孔をこじ開ける。紅葉の黒目には確かに父親の姿が映っているのだ。
「いやだ……」
紅葉にとって自分の病気はもう治らないということは、ずっと前に確信に変わっていた。
それなのに周りの人間は「病気が治ったら素敵な女の子になれるから」なんて言葉をかけてくる。励ましの裏返しもいいところだ。
それを嘘だと決めつけて、自分から希望を捨てなきゃやってられなかった。そうでもしなければ、紅葉は惨めさでおかしくなっていただろう。
それなのに、
嘘じゃなきゃいけなかったのに…
硬い岩が砕かれていくように、少しずつ感情が露わになってゆく。
それは心の中で、希望を捨てようという決意と憧れという名の感情が、正面からぶつかり合っているような感覚だった。
そうして舞台から目が離せずに、自分の気持ちに整理がつかないまま、眼前の物語は商人の日常の場面から借金取りの場面にまで移っていった。
◇ ◇ ◇
軽快な演奏と共に物語は盛りに突入した。和太鼓や尺八の奏でる音が一瞬にして舞台に喧騒を創り出す。
《借金取り》『いで、けふこそ三千両をさをさ払はせめや、この悪しき商人め!』
借金取りが目を釣り上げて家の扉を息を勢いよく蹴破る。
茄之助はそれに間抜けに驚いたような演技で応えるが、心の中では別のことを考えていた。
(思った以上にライトが眩しくて、逆光で観客席が見れないな。紅葉の場所さえ分からない。)
《商人》『いま少し待ちてえもらはで負ふや、願ひたてまつる。いかでか妻子には手をないだしそ”
商人は声を震わせながらわざとらしく妻子を背に腕を広げて見せる。
(確かに紅葉の言う通り女方は想像上の女、幻の女、嘘の女だ。)
《借金取り》『しか家族が大事か!それならばなんぢの娘を市に売り捌く!』
いかにも悪そうなやつ、と言った風な男が仲間を連れて商人の目の前に迫る。
(でもな、紅葉…女方っていうのは女の女らしい部分をこれでもかと注ぎ込んだ究極のリアルなんだぜ)
《商人の娘》『やめたまへ、な触りそ!!』
茄之助が演じる商人の娘が借金取りに腕と肩を押さえ込まれる。
(俺があの子にできる最期のことは究極の女の子を見せてやることしかないんだ。)
《借金取り》『かくし、かくし、おい!な暴れそ!お前ら、かれを捕まへよ!』
借金取りから逃げ出し家の外に出た町娘だったが、すぐに行き止まりに追い込まれてしまった。
観客たちはすっかり物語の世界に取り込まれ、その場の全員が息を呑み、首を舞台に寄せていた。
(まずい、もうすぐ劇中最大の決め台詞。この台詞を紅葉に……どこにいるんだ紅葉、間に合ってくれ。)
「がんばれー!!」
その時静かな客席から幼い声が響いた。聞き間違うはずもない。あの声は…
(見つけた! ッッスーーーー)
《商人の娘》『我は町一番のこはき娘なり!いかに無謀なる戦ひにもゆめゆめ思ひ絶えはせず!』
(良かった、間に合った!)
「っ…がんばれ!! っ…がんばれぇ!!」
叫ぶだけの体力がないはずの紅葉からは考えられないほど大きな声が出た。
ずっと紅葉の中に巣喰っていた何かは茄之助によってもうとっくに壊れていた。
紅葉にとって茄之助は人生で初めて見た”女の子”だった。素敵だと、心から思った。自分もああなりたいと願った。
《借金取り》『なにと?うおう、やめよ!やめよ!!!』
軽快な和太鼓に合わせ茄之助は借金取りから和服の帯を奪い、走って逃げ去って見せる。
観客は大盛り上がりだ。
「がんっ…ばれ がんばれ!」
紅葉は胸の中に溜まってたもの全てが、波のように押し寄せるかのように叫んだ。それは父への贖罪、歓喜、希望、そして恋であった。
「がんばれっー!がん…うっ…ゴフッ…」
自分の体のことなんてもう気にしちゃいなかった。ただ目の前の光景が羨ましくて、それを見ているのが嬉しくてたまらなかった。
「紅葉ちゃん…?紅葉ちゃん、しっかり!」
隣の看護師が慌てて紅葉の体を支える。
紅葉は血を吐きだしていた。それでも細い首を目一杯伸ばして舞台の方を見ていた。今まで目を背けていた分を埋めるように、一瞬に永遠を願うように、ほんの一秒でも多くその場の一部でありたかった。
生きたい。私も、“素敵な女の子”になってみたい。
もう嘘は嘘じゃなかった。紅葉の目からは大粒の涙が溢れる。かつて嘘だと決めつけていた、病気の自分へかけられた励ましの言葉が思い出されてゆく。
“紅葉ちゃんなら絶対に治るんだから!”
“紅葉!希望を持ち続けろ!”
「嘘な…もんか、…ゴホッ…嘘な……もんか! ゲフッ… 私っ!…だって……………」
「紅葉ちゃんっ!ダメっ…死んじゃう…だれかっ、だれかっっっ…!!」
・
・
・
◇ ◇ ◇
ようやく劇も閉幕を迎え、茄之助は舞台の撤収作業に取り掛かっていた。
「(紅葉、楽しんでくれたかな。)」
茄之助は逆光でよく見えない観客席の紅葉の声が聞こえてきた方向に目をやる。
「紅葉、今もこっちの方見てるのか?歌舞伎、どう思ってくれたかな、早く会いたいな。」
茄之助はそんな独り言を言って恥ずかしくなってみたりもした。
(まだ時間はたくさんあるんだ、この後は紅葉と一緒に屋台を回ろう。)
自然と笑みが溢れ、片付けの手も速くなる。
それは突然の出来事だった。
「うっっ……」
息ができない。キーンという音が頭の中で響いている。心臓が痛い。視界の外から黒いモヤが入り込んでいく。
「(なんだ…まさかクスリが障ったのか…)」
まるで周りの時間がゆっくりと進んでいるかのようだった。茄之助は頭からゆっくりと木の床に倒れた。
◇ ◇ ◇
「歌舞伎面白かったねー、あの商人の娘役の女役者さん超素敵だった!」
「え?歌舞伎役者は全員男だよ、」
「え?嘘?!そうなの?全然気づかなかった!」
ヒュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
ヒュ〜〜〜〜〜〜〜〜〜
その時、満月の夜空を二本の花火が天高く昇って行った。
「あっ、花火大会始まる!」
土手に座り込む観客も皆、音に合わせ顔を上へ向ける。
次の瞬間、二つの花火の光が澄んだ夜空で弾け、夜の境内を美しく照らした。
ーー“目を背き忌むは大岩の如く、恋焦がるるは大波の如し”ーー
それは、なんとも美しい紅色の花火だった。
〜終(?)〜
桜が綺麗に咲き誇る街の高校某所。時は三月。学生はちょうど卒業シーズンを迎えていた。
「いやー楽しい高校生活だったね、もう大学生だって、信じられる?」
「無理無理ー、で、どうする?この後カラオケでも行っちゃいますか?」
「いいねいいね!」
「浜ちゃんも行くよねー」
そう言われ一人の少女に他三人の目線が集まった。
「えぇーっとー、ほんっとごめん!私いかなきゃいけないところがあるんだ。だから打ち上げには行けない。じゃあね!ごめんねみんな!またいつか!」
「えー連れないな〜また連絡してよね〜〜」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
その日高校を卒業したばかりの少女が走るのは古い家が集まった住宅街。
この日を八年間待ち望んでいた。
それはいつかの歌舞伎劇場のある街。
耳をすませばリズミカルな音楽や和を感じさせる話し声がどこからか聞こえてくる。
思いっきり足を動かし約束の場所へ、ただひたすらに突き進んでいく。
「はあ、はぁ、」
「おっ来た来た。みんなー注目。今日から俺たちの劇団に新しく加わる仲間を紹介するぞ!さぁ、まずは挨拶だろ?」
がっしりとした背中の大男が少女の背中に手を回して言う。
「浜辺紅葉!お世話になります!」
ここまで読んでくれて本当にありがとうございます!!
道徳の教科書とか六法全書とかそういうの全部燃やして、なんでもいいから感想をください!
悪口でも、日記でも、メモでもなんでもいいです。
誰か一人が僕の作品を最後まで読んでくれたという報告、通知が来るのを楽しみに待ってます!