涙宵〔第四幕〕
(読み) 紅と嘘 涙宵
見渡す限りの赤、橙、黄。
秋という存在感が溢れんばかりに目に飛び込んでくるような泡盛神社の境内。中心の通りにはあらゆる看板を拵えた屋台が陳列している。
茄之助は紅葉の乗った車椅子を押し、付き添いの看護師と歩いていた。土の感触が心地いい。
人々はまるで車椅子の紅葉を見てはいけない、と言うルールでも裏合わせしているかのようにいつも通りを振る舞う。
大きな赤い鳥居を潜り抜け、数えきれないほどの紅葉《こうよう》に囲まれた赤い桟橋をゆっくりと渡る。
木々の間から挿し込む光にもう青々しさは残っておらず、すっかり黄金色や赤色に変わっている。
来年は見られない、一緒には。
来年には見せられない、紅葉には。
茄之助は楽しいことだけ考えようと思っていても、そう考えずにはいられなかった。
話は昨夜に遡る。
◇ ◇ ◇
「…お願いします。私が父親として紅葉にやってやれることはこれしかないんです。」
そう言って茄之助が診察室で頭を下げていたのは、紅葉の治療を担当する医師であった。
家で決意を固めた茄之助は、あの後、そのまますぐに紅葉が元々いた病院に向かったのだった。
「そうは言っても、紅葉さんの容態を見るに、外出には相当なリスクが伴います。いくら親子の問題、そして…紅葉さんの余命……だからとはいえ、医師の立場から易々と外出を許可することは……」
状況が状況であった。残り一週間を生きられるか分からない小学生の女の子と、一人の父親の運命を自分の発言一つで決めるのはあまりにも責任が重すぎる。
「私は紅葉のたった一人の肉親です。まだ…まだ、彼女に教えられてないことがあるんです。希望を…周りの人間から紅葉に向けられていた愛を教えられていないんです…!」
茄之助は目を真っ赤にして、声を振るわせながら懸命に訴える。
娘を想う父親の姿が医師の心を動かしたのだろうか。それもあるだろう。しかし少し違っていたようだ。まるで医師自身もこの結果を望んでいたかのように、スッと応えを出す。
「わかりました……外出を許可します。しかし、条件があります。万が一のことに備えてうちの看護師を一人手配させてもらいます。いいですね?」
「本当ですか!!ありがとうございます!!!」
二人ともいつの間にか泣いていた。お互い恥ずかしそうに顔を見合わせて笑う。
その時、生ぬるい秋の風が、生意気に笑うようにフッと部屋を吹き抜けた。
◇ ◇ ◇
「それでは後は頼みます。楽しみにしててな、紅葉。」
茄之助は人の流れが少ないところで立ち止まり、そう言い残して二人と別れた。
「それじゃあ紅葉ちゃん、私と行こっか。」
いつかのおばさん看護師が茄之助に代わって車椅子に手をかける。
「えっ…待ってよ、お父さんは?」
「秘密よ」
いたずら顔でそう言って看護師は小高い木造の箱のような建築物に向かって車椅子を押し始める。そこにはすでに大勢の人が何かを待って座っていた。
「これって…歌舞伎の…」
声を出すのも一苦労な紅葉も流石に声を出して戸惑う。紅葉の目の前に現れたのはすでに色とりどりの装飾が施された歌舞伎の舞台だった。
そんな紅葉に看護師は、観客席の一番後ろに車椅子を停めてから話し始める。
「お父さん、紅葉ちゃんに自分の歌舞伎を見てほしいんだって。」
(いや、だから嘘の女じゃん)
おとといの夜のこともあってか、弱った体故なのか、紅葉は口には出さなかった。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
秋は陽が沈むのが早い。辺りはすっかり暗くなり、和の雰囲気を醸し出すライトや装飾で彩られていた。
時間が経つに連れてぞくぞくと観客が集まってくる。
「わー綺麗な紅葉。ねえねえ知ってる?紅葉の花言葉、”大切な思い出”なんだよ。」
近くに座る若い観客のそんな言葉を聞き、紅葉は自分が父親の歌舞伎を見終わった頃、一体その時の自分は何を思っているのだろうと思った。
父親の歌舞伎、紅葉は何回か写真で見たことがあると言うだけで、実際の演技を見るのは初めてのことだった。
今抱いている感情も綺麗に拭い去られてくれるのだろうか、いや、何が起ころうとそんなことはあり得ないだろう。紅葉は再び病院での生活を思い出していた。
◇ ◇ ◇
そんな紅葉もみじにも希望となる人がただ一人いた。
「なっちゃん!お父さんがね、家にあった私のシールケース持ってきてくれたの!」
それは同室に入院する同い年の女の子 なっちゃん だ。彼女が入院してきたのは紅葉もみじより一ヶ月ほど後だったが、他の子が次々と退院していく中、今までずっと入院生活を共にしている。
二人の間で流行っている遊びは、病院内の売店で買ったシールや自分のコレクションのシールを交換しすること。交換する枚数が増えるするたびに小学生女子二人の絆が強まっていくように感じ、紅葉もみじは再び心の平穏が訪れたかのように感じた。
「もみちゃん、また私たち残っちゃったね、私、ちょっとずつ病院飽きてきちゃったな」
「えー私はなっちゃんと一緒で楽しいよ。シール交換嬉しいし。もうこの病院、私たちのお家だね」
紅葉もみじと同じ境遇の友達、それがなんと心強かったことか。「きっと治るから」、こんな日々のせいか、そんな励ましの言葉も自分たちの方を指してくれる日がいつか来るんだろう、そんな気持ちが紅葉もみじの心の中に芽ばき始めていた。
「紅葉もみじちゃん、私、今度おっきな手術があるんだって。こわいよ…」
「大丈夫だよ!みんなも言ってるじゃん、きっと治るんだって!」
「お腹開くんだって、肝臓?よくわかんないけどそれを綺麗にするみたい、いやだなぁ、私今なんともないよ…」
「頑張っておいで!あ、そうだ……コホン、我が親友なっちゃんにこれを預けよう!私の一番お気に入りのシールじゃ!生きて手術から帰って来たらなっちゃんの一番のお気に入りと交換こじゃ!約束じゃぞ!」
「う…うん!約束ね、じゃ…ぞ!」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
その後、紅葉もみじのシールが増えていくことは二度となかった。代わりにただなっちゃんのベットの上の花束が増えていっただけだった。大人はなっちゃんのことさえ、はっきりと教えてくれなかった。
「なーんだ、全部嘘じゃん。」
紅葉の絶望は計り知れなかった。なっちゃんは最後の希望の砦だった。なんならもう一人の自分のような存在だったのだ。「きっと治るから」ただただこの無責任な言葉に腹が立って仕方がない。
それからというもの、紅葉もみじが何にも興味を示さない性格になったのはちょうどこの頃のこと。好きなことが見つかると失った時が辛い。憧れるものがあると自分の現実が目の前に散らついて苦しい。希望なんて持たない方が自分のためだ。
そう思うのももはや自然なことだっただろう。
そんな紅葉もみじの様子はすぐに周囲の人間の目に留まった。
看護師らは紅葉もみじを励まそうと一生懸命になり、「きっと治るから」「すぐに退院できるから」と言葉をかけ続けた。しかしこれでは希望を持ってもらえないと思ったのだろう。いつしか周囲からの励ましの言葉は「いつか素敵な女の子になれるよ」になっていた。
◇ ◇ ◇
突然紅葉の遠くに行ってしまった意識を現実世界に呼び寄せたのは観客席からの爆音。
一斉の拍手をきっかけに隣に座る看護師が紅葉に話しかける。
「あっ!お父さん入ってきたよ!」
紅葉は息を呑んだ。あれが、自分の父親なのか。目の前に広がる景色、それは紅葉にとってあまりにもありえない光景だった。