這哮〔第三幕〕
(読み) 紅と嘘 這哮
「この、アホ野郎が」
「やあ…き、来てくれたんだな。」
「お前…この前これが最後だって、言ってたよな。」
茄之助の目の前に現れたのは、かっちりとしたスーツを着た強面の男。そう言って懐からタバコを取り出した。その袖の隙間からは刺青がいくつも見える。
「あぁ分かってる。分かってる…」
「お前は組を抜けた人間なんだから、そもそも俺たちのような奴らとはもう関わっちゃダメなんだ。そろそろ完全に引けよ。でも、お前のあの電話での様子どうしたんだよ。だから、まぁ、なんだ、相談くらいなら乗ってやるよ。かつての仲間じゃあないか、もしかして紅葉ちゃんのことか?」
男は極道の組員だった。そして茄之助も元その組員だった。昔から仲の良かった二人は、茄之助が数年前に組を抜けた後も交流があり、その関係は茄之助がクスリを入手する場所にもなりつつあった。
疲労を飛ばすため、そう言った名目である時から茄之助は男からクスリを買うようになっていた。そして男もその理由から薬を売っていた。
「実はなぁ紅葉の余命はもうそんなにないらしい。残り二週間、会話ができるのは残り一週間。火花さんが亡くなって、もうすぐ紅葉までいなくなる未来がもうすぐそこまで来てる。正直現実から逃げたくてしょうがないんだよ。なぁくれよいつものやつ、ちゃんと払うからさぁ。」
そこまで茄之助が話した途端、男は大声で怒鳴り出した。
「お前はまた逃げるのかよ!かつてあんなに良くしてもらっていた組を、家族のために抜けて、次は家族を失う恐怖から逃げるためにおクスリかぁ?!あぁあぁあぁ、お前が欲しいのはこれかよ!」
そう言って男は胸ポケットから白い錠剤が入ったガラスのボトルを見せびらかす。
「何があろうともお前には絶っっっ対に渡さねぇ。」
茄之助の目に鈍い輝きが宿る。そう、茄之助は薬物中毒になりかけていたのだ。
「くれよ、それがないともう、ダメなんだあ。」
茄之助が男の足元にしがみついて懇願する。
「逃げるなよ!、これからも逃げたら終わりだぞ!紅葉ちゃんのパパはお前一人なんだぞ!」
男が茄之助の両肩を掴んで怒鳴りつける。それに茄之助は怯んだ様子を見せたが、なんとか喉から声を絞り出した。
「う、うるさい!!お前に、お前に俺の何がわかる!!!」
そう言って茄之助は男に殴りかかった。茄之助の顔は涙と鼻水で溢れかえり、ぐちゃぐちゃだった。
「おい!、やめとけよ…!」
そうして茄之助は、男の抵抗も虚しく倒れた男の胸ポケットからクスリを瓶ごと奪い取り、持ってきていた傘も忘れて一気にもと来た道を走り出した。
もう後ろは振り返らずにとにかく前に進むことだけを考えていた。
茄之助の背後から男が何か言っているが、茄之助にとってそんなことはどうでもよかった。
「や…やめておけ!、お前…もう、そのクスリ長いだろ!…心臓……止まっちまうぞ!」
大雨の中を走っていく茄之助に男がかけた言葉はことごとく雨の音にかき消され、ついには茄之助の耳に届くことはなかった。
◇ ◇ ◇
ザッ ザッ ザッ カラ カラ カラ
ザッ ザッ ザッ カラ カラ カラ
足音とガラス瓶の中で何かを揺らす音、二つの音を鳴らして走って来た茄之助が家に駆け込んだ。
服も髪もびしょびしょ、最低限の水分を玄関で絞り出す。
家を離れたのは20分くらい。紅葉はまだ寝ているだろう。しかし今回も茄之助は紅葉の顔を見ることができなかった。
なるべく玄関から遠くの部屋へ進む。あいつは追ってきているだろうか。仮にもあいつも元々茄之助もいた組の一員、下手したら総員で襲ってきてもおかしくは無い。ただ、なぜかそうなるとは思わなかった。
茄之助は今は物置に使っている、一番奥の部屋の和室で心を落ち着けることにした。薄暗い部屋の中には段ボールや最近は使わない歌舞伎の道具が多く置かれている。
「はぁ、はぁ、早く…」
息を落ち着けながら、ポケットから男から奪ったボトルを取り出し眺める。それは片手に収まるサイズのガラスのボトルだった。中には白い錠剤状の“クスリ”がぱっと見でも百粒は入っているように見えた。
まだ息も荒いままの茄之助は、十粒ほどを一気に口の中に放り込んだ。
「水、水」
いつかに貰ったお酒の瓶が段ボールなどの荷物に紛れて置かれたのを見つけた茄之助は雑に荷物をかき分け、奥に進み瓶を手にする。
大きな瓶を片手でつかみ逆さ向きに持つ。唾液で溶けて塊になりつつあるクスリを一気に喉に流し込んだ。
その姿はまるで昔話に出てくるような、村を襲う鬼の姿そのものであった。
「がぁ、ゴホン、ゴホン………あぁ…わはははは、わははははははははは、逃げちゃう?このまま逃げちゃうか?わはははははははは」
茄之助は狂ったように笑い始めた。しかしその笑い声はすぐに止むことになる。
次の瞬間、茄之助は視線を向けた方を見て心臓が止まりそうになった。
茄之助が先ほど荷物をかき分けたことにより、今まで隠れていた物が姿を現していた。
それは亡き妻の遺影が飾られた仏壇だった。遺影の顔はちょうど茄之助の方を見ていた。
「あぁ、あああああ、違うんだ、これは…」
背中から崩れ落ちた茄之助は手足をジタバタさせながら土下座の体勢に体を動かした。
「火花さんがいなくなってこの家には俺と紅葉の二人になった。紅葉に寂しい思いをさせないようにって俺、頑張ったんだぁ。でも、次に紅葉が急にガンになってこの家には俺一人になった…すごく寂しかったんだぁ」
茄之助は顔をぐちゃぐちゃに涙で濡らしながら亡き妻の遺影に謝るように嗚咽を漏らした。
「今こうやって紅葉と二人で過ごしている時間があるけど、幸せな時間があるとやっぱり僕は思い出しちゃうんだよ、火花さんがいた時のことを…いくら今が楽しくったって一週間後にはもう会話もできなくなるらしい。二週間後には…永遠に…一人に…うわああぁあ、怖い、怖い、怖い、現実が怖くてたまらないんだ!!」
そこまで喋った瞬間のことだった、さっき飲んだクスリが今になって効いてきたのだろうか、体と頭がフワッと軽くなるような感覚に襲われ、茄之助の意識は闇に落ちた。
◇ ◇ ◇
「(ここは、どこだっけ。)」
「(僕は何をしていたんだっけ。)」
茄之助は周りを見ようとしてもするが、あたりは白い光で包まれているせいで眩しく、今どこにいるのかははっきりと分からなかった。
時間が経つにつれて光は薄れ、周りの風景は鮮明なものへと変わっていった。
「(ああ、そうだそうだ、今日は紅葉と火花さんと家族三人で初めて水族館に来ているんだったな。)」
そこは四方の壁が水色の部屋、真ん中の低いガラスの壁で囲まれたブースにはたくさんのペンギンと子供達がいた。
五歳の紅葉も、ペンギンの触れ合い体験で、他の子供達と一緒に台の上ではしゃいでいる。
それを囲うように観覧席が設置され多くの親は各々談笑するなり写真を撮るなりしていた。
茄之助は今までずっとそこにいたかのように紅葉を遠くから眺め続けていた。
『おかあさーん!おとうさーん!』
無邪気に紅葉がこちらに向かって叫び手を振っている。
それに茄之助は手を振りかえす。横には紅葉に向かって手を振りかえす人がもう一人座っていた。
茄之助はふと横に視線を向ける、そこには若き茄之助の妻 “火花” がいた。
その視線に気付いたのか火花も茄之助の方を見た。
『茄之助さん、私、今が幸せ。』
『どうしたの?そんな急に、』
茄之助はなんともない様子で応える。
茄之助はこの夢を見ているかのような状態に違和感を全く持っていなかった。むしろさっきまでのことは何も覚えていなかった。
『紅葉が楽しそうに毎日を生きているだけで幸せ。それにこうやって茄之助さんと紅葉の幸せを見るのが幸せ。明日もまた幸せが続くんだろうなって思うのが幸せ。』
そう言って火花は再び視線を前に向けた。そこには相変わらずペンギンと戯れている紅葉がいた。
『(僕もそう思うよ)』
茄之助はそう言おうとしたがなぜか口が動かなかった。しかも視線は火花の方を向いたままで体も動かない。
『私ね、子供って空っぽな器みたいだなって思うの。周りの物を見たり、親の言うことを聞いたりすることによって、だんだん満たされていく。でも、それじゃ、いつか同じようなものでいっぱいになっちゃうわ。だからね、そうなる前に私、紅葉には広い世界をいーっぱい見せてあげたい。好きなものを見つけさせてあげたいの。』
そう言う火花の目からは涙が大量に溢れていた。火花は茄之助の方を向こうとしない。それでも茄之助は火花から視線を外せず体が硬直したままだった。
『だからね、茄之助さん…紅葉を助けてあげて、話を聞いてあげて、』
◇ ◇ ◇
「うぅーん」
リビングから聞こえた紅葉の寝言で現実に引き戻された。
そこはさっきと変わらない埃の被った物置部屋。茄之助はいつの間にか寝てしまっていたのか、もうすっかり夜になっていた。
茄之助は火花の遺影を抱きしめて泣いていた。
「寝てた…のか?」
顔に畳の跡がついているのを確認し、さっきのことを思い出す。
「紅葉は…助けを求めてる…」
(ずっとそうだったのか、)
(自分が気付いていないだけだったのか、だったら何に……何を……)
茄之助は自問を繰り返し再びうなだれた。
その時、突如、秋の空から部屋の中に一縷の風が吹き抜けた。それはカーテンを美しくなびかせ、やがて茄之助の元にたどり着く。心地よく暖かい風は茄之助を包み込んだ。
(あなたならできるわ。紅葉をこんな大きくなるまで育ててくれたんだもの。ありがとう、茄之助さん。)
茄之助ははっと顔をあげる。これはクスリの幻聴か、それならそれでいいと思った。
「でも、どうすれば……」
(長くて残り二週間、会話ができなくなるまで一週間、父親の自分は何ならできるのだろうか。)
「『話を聞いてあげて』か。」
その時、茄之助は昨夜の紅葉からの暴言を思い出した。
あの時の紅葉は何かに追い込まれているようだった。あの紅葉をあそこまでにする”何か”に何もできない、という事実と無力感が静かに茄之助《もみじ》を刺す。
茄之助はくしゃくしゃっと頭を掻きむしる。
その時、寝ているはずの紅葉から声が聞こえた。
「素敵な…女の子…」
再びリビングから紅葉の声が聞こえた。
「…っ!」
その声に茄之助は急いでリビングへ走り、紅葉の元へ駆け寄る。
寝言だった。
紅葉の目尻から溢れた一雫が月明かりで煌めく。
茄之助は動揺していた。紅葉からこんな言葉を聞くのは初めてだったからだ。
自分の病状に強がっているだけと思っていた、小さな子供から溢れでた小さな本音。
自分は我が子に全然寄り添えてなかったのかという不安と罪悪感が背中を這う。
しかし、同時に茄之助の胸の中には固い決心が芽生えていた。
「俺は……この子のために最高の嘘を演じてみせる。」
茄之助はクスリの瓶を持つ手を思いっきり振りかぶり、ゴミ箱に投げ捨てた。
「うおっしゃああぁ、やるぞぉぉおおお!」
いつの間にか雨は止んでいた。外には清々《すがすが》しいほどに雲のない月夜が広がっている。
十四夜月明かりで包まれた家族の家、茄之助はそっと紅葉の額にキスをした。
明日は秋祭り。十五夜の月下に嘘が咲く。