宝朧〔第二幕〕
(読み) 紅と嘘 宝朧
病院の車を玄関から見送り、茄之助は車椅子を玄関に畳み掛け、紅葉を抱いて運んだ。
「おー、久しぶりのお家だ。」
薄暗い家の廊下を抱き抱えられながら紅葉は辺りをキョロキョロして言う。
紅葉にとっては半年ぶりの我が家だ。昨日の荒々しさは嘘だったたかのように落ち着いた様子を見せる。
紅葉が大人ぶるような態度を始めたのは入院生活が始まってからしばらくした頃のことだった。ある日を境に紅葉の気性はすっかり変わってしまい、未だに茄之助はその理由を明かせていなかった。
だからこそ、普段は大人びた様子の紅葉からテンションの上がり様が漏れて見えたのは茄之助にとって嬉しいことだった。
「部屋、汚いね。」
ソファに降ろされた紅葉が呆れた様に呟いた。
リビングにはものが散乱し、机の上には食べ終わったお弁当のゴミやビールの空き缶が放置されている。
「ずっとお父さん一人だったからな。気を使う人もいなかったし。あぁあんまり見ないでくれ。 ふんっっ」
茄之助は力を込めた掛け声と同時に窓のシャッターを上げた。窓から太陽の光が入り込み部屋が一気に明るくなる。
「うーんとな…ちょっと待っててな、お父さん片付けするから。」
茄之助は焦っていた。なぜなら紅葉のわがまま、紅葉の好きなことをなんでも叶えてあげようと思っていたのにも関わらず、いざ始めようとしてみると何から始めれば良いのか全然見当がつかないのだ。
「よ、よし、紅葉。家に帰ってきていきなりすぎるとは思うんだが、どこか行きたいところはないか?病院にはダメって言われてるんだけどな、こうして久しぶりに病院の外に出られたことだし、」
その言葉に紅葉が一瞬目を輝かせたように思えたが、すぐにもとの表情に戻って応える。
「特に無いかな、別に、興味無いし…」
紅葉は茄之助の目を見ずに、服の端をいじくりながらそう言う
「えーそんなことないだろ、かわいい服買いに行ったりさ、女の子…」
茄之助は言いかけて止めた。昨日の夜の紅葉のことが思いだされた。あの発言の意図をまだ理解できていないのに、再びこの話題に触れるのは良くないと思ったのだ。
「じゃあさじゃあさ、動物園とか行かないか?水族館とか…」
「それも興味ない、全部興味なーい。いいの、お家が久しぶりなんだから。それより…何これ、木箱に、トランプ?ボーリングのピン?」
ソファの足元には何に使うのかもわからないガラクタが雑に置かれている、それを見ながら紅葉は続けて言った。
「私も片付け手伝うよ、、、ゲホッ ゲホッ」
紅葉がソファから試しに立ちあがろうとしてみた時だった、急に咳きが込み上げてきた。
「大丈夫か、体調悪くなってきてるのか?」
茄之助が床に膝をついてソファの紅葉にすり寄る。
「心配しないで。大丈夫、だから。」
やはり紅葉の体調は悪化しているようだった。
これは強がりなのか、それとも自分に何か隠したいことがあるのだろうか。こんなに弱っても親の自分に言えないようなこと。茄之助は心の隅にしこりのような物を覚えた。
「そうか…じゃ、じゃあお父さん片付けしてるからな、何かあったら呼んでな。」
「うん。」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
紅葉は憂いていた。あたかも昨日のことを気にしていないかのように振る舞ってはいるものの、正直なところ気まずさは拭えない。
ソファにうつ伏せに寝転びながら、せっせと片付けをする自分の父親を目で追う。
紅葉だって薄々勘付いていた。この退院は嬉しいものじゃないんだって。
あの頃はまだ毎日が楽しかったな…
◇ ◇ ◇
思い出すのは、紅葉の入院生活が始まったあの日のこと。
「お父様、今日からここが紅葉ちゃんの病室になります。」
茄之助と共に看護師に連れられた部屋は、外がよく見える大きな窓が一番奥に設置された四人部屋。そこにはすでに三人の患者が入院しており、全員が紅葉と同世代くらいだった。
「ほら紅葉、まずは挨拶だろう?」
茄之助が紅葉の肩に手をかけて言う。
「浜辺紅葉!よろしくお願いしますぅ?うーん、あ、お世話になります!」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
明るく誰とでもすぐに打ち解けられる紅葉にとって初対面の他人との同室生活は苦ではなかった。
紅葉は学校であった楽しいこと互いの共通点や趣味の話題で他の患者を楽しませていた。そしてそれは確かに彼らにとって抜群の精神薬であった。
励まし合うのだって紅葉が先陣を切っていたほどだった。
「紅葉ちゃん、私たちほんとに治るのかな、」
「きっと、いや絶対治るよ!だって調べたらね、今のお医者さんはほとんどの癌を治せるんだって!ほぼ百パーセントってネットに書いてあったし!」
紅葉の言葉はおおかた間違いではなかった。その言葉の通り一人、また一人と退院してゆく。
この頃の紅葉は期待に溢れていた。とうとう次の退院は自分の番なのだと信じていた。簡単に治ると疑って止まなかった。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
(ガラガラ)
ある日のこと、いつもの食事の時間でも、お見舞いの時間でもない時に病室のドアが開かれた。直感で胸が高鳴った。私の番だ、と。
「(来た!)」
紅葉は半分布団から飛び出そうとしながらドアの先を見た。直後体が固まる。
紅葉は一瞬で察した、これは自分の退院報告ではないのだと。紅葉の目の先にはあの日の紅葉と同じように親と看護師、それと自分と同い年くらいの女の子が立っていた。
それからも同じようなことが続き、再び紅葉の部屋は人でいっぱいになった。それと同時期に検査の種類、回数も増えていった。
気づけば二ヶ月が経過している。人もどんどん入れ替わっていく。
「お父さん私に何か隠してない?」
ー「またね、紅葉ちゃん」
「ねぇ、ねえってば!」
ー「バイバイ紅葉ちゃん!また遊ぼうね!」
「治るんでしょ?みんな言ってたよね、きっと治るんだよね?」
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
おかしい、何かがおかしかった。どれだけ待っても一向に紅葉の退院の番が回ってこない。父親に聞いても答えてくれない。
もしかすると自分の病気は他の人のものよりも厄介なものなんじゃないだろうか、
誰も本当のことを教えてくれない、これは裏を返せば伝えることがないくらい治療が順調ということか?
しかし、次の日にはもうそんな風には考えられなくなっていた。
茄之助が買ってきた赤いニット帽が何を意味しているのかくらい、紅葉にだって分かっていたのだから。
◇ ◇ ◇
「……葉…紅葉…あぁやっと起きた。そろそろお父さんお昼ご飯作るんだけどさ、何が食べたい?なんでもいいんだ、遠慮はしないでくれ。」
茄之助は紅葉に問いかけた。その茄之助の様子は久しぶりの親子二人の家に喜んでいると言うよりかは、やはりどこか焦りのようなものがあった。
「えっ、何?そんな、うーん、なんでもいいよ。」
「おぉ…そうか、じゃあ焼きそばなんかどうだ、昔良く食べたろ。」
「うん、じゃあそれでいいよ。」
紅葉の合意が取れて茄之助は嬉しかった。ひとまず行動に移ることができるからだ。
「テレビのリモコンここに置いとくからな、掛け布団はいるか?なんか欲しいものあったらすぐにお父さん呼んでくれ、飲み物とかな。あ、エアコンつけるか?」
「もうー、私のことはいいから、はいはいありがとう。」
もう紅葉からは、さっき家に入った当初の機嫌の良さは見られなくなり、いつもの病院での様子に戻ってしまったように思えた。
そう紅葉に言われ茄之助はキッチンに移動した。それでも茄之助は内心喜んでいた。久しぶりに家に紅葉がいる。病院ではできなかった親子らしい生活ができる。紅葉に頼ってもらえる。
キッチンからはリビングでテレビを見てくつろいでいる紅葉の姿が良く見える。昼の時間どきだからなのか、チャンネルをコロコロ変える様子が伺える
茄之助はなんだか不思議な気持ちだった。まるで他人の家にきているように思った。それほどに半年間一人っきりだったこの家に、もう一人がいるという状況は違和感の種であった。
「えーっと、そもそも麺あったかな(ゴソゴソ)あーよかったよかった、あった。賞味期限一ヶ月しか切れてないや。」
「お父さん、それ私に食べさせる気?まぁ私も気にしないけどー。」
小さな声で独り言を言っていたと思ったが、紅葉には聞こえてしまっていたらしい。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
「んー、にんじん硬いや、でもおいしいよ。」
「そうか、そうか、そりゃよかった。作り甲斐があるよ。」
まだゴミが散らかった机の上で親子二人で同じものを食べる。茄之助は幸せだった。この状況がずっと続いて欲しいと思った。未来なんて考えたくなかった。それでも紅葉にはいつか伝えなければいけないことがある。なるべく早くに。
「なぁ紅葉、やっぱり午後はどこかに出かけないか?」
「んもうしつこいなぁ、お家がいいんだよ…どこにも興味なんてないの。」
なぜか紅葉はとろんとした目つきでそう答える。
「紅葉がそれがいいって言うなら強制はできないが」
「へへ、お父さん、ずっと一緒がいいね…ん…」
紅葉は箸を持ち、口から麺をはみ出させたまま寝てしまった。病気のせいで、この時期になると突然の睡眠が頻発するのだと担当医師から聞いていた。
「あーあー食べ途中なのに寝ちゃったよ、」
茄之助は紅葉の食器をわきに寄せ、紅葉をソファーに運び寝かせる、それから紅葉の上にブランケットをかけた。
(昔にも、こんなことあったな、俺がご飯を作って、途中で紅葉が寝ちゃって、それを火花さんが…)
茄之助の頭の中に思い出されたのは、あの、なるべく考えないようにしていた光景。だけど絶対に手放したくなかった光景。
「ウッ…ウゥッッ…」
ガクンと目の前が暗くなり、めまいがした直後、胃の中からさっき食べたものが上ってきた。茄之助は口を手で抑え、急いでトイレに向かう。抑えた手から鈍く濁ったものが零れ落ち、廊下に道ができた。それから茄之助はトイレに着くなり便器に顔をつっこみ激しく嘔吐した。
「ゔぉぇぇえええぇ……はぁ…はぁ…」
まだビチャビチャと口から滴る胃液の匂いが茄之助の鼻を刺激する。
「いやだ、怖い…怖い……」
茄之助はキッチンの食器棚のいちばん奥を開き、ゴソゴソと何かを探し始めた。
「ない、ない!!!」
茄之助は震える手でポケットからスマホを取り出しある人物に電話をかけ始めた。
ー「俺だ、いつもの場所で…あぁ、頼む。」
ー「い、いやだ……頼むよ、お願いだ。」
ー「頼む……待ってるからな!」
そう言い、茄之助は家を出るために立ち上がった。
玄関にいくためには紅葉が今寝ているリビングを通らなければいけない。さっきの音で起きてしまっただろうか。
茄之助は紅葉の顔を見ないようにリビングを通る。なぜだか見ることができなかったのだ。それに茄之助は理由を考えないようにさえしていた。
突如、紅葉がこっちを見ているような感覚が茄之助を襲う。冷や汗が全身に湧き立った。
茄之助は恐怖に似た感情に追われるかのように先を急ぐ。
雑に靴を足にひっかけ、乱暴に玄関の扉を開ける。
いつの間にか外は大雨が降っていた。ザァーという音がうるさいが茄之助が自身の気を紛らわすのには丁度よかった。
◇ ◇ ◇
川が轟々《ごうごう》となる住宅街のあぜ道を歩いてゆく。その足取りは重かったが茄之助は引き返そうとはしなかった。
「紅葉、ごめんな、こんなお父さんでごめんな。」
道中で茄之助は何度もそう呟いては次第に足を早めていく。靴の中にまで染み込んだ雨水が気持ち悪い。
やがて茄之助は、薄暗いシャッター商店街の角にある細道、”いつもの場所”で立ち止まった。
「はぁ、はぁ、流石にまだ来ていないのか、」
首を掻きむしりながらスマホを取り出す。あの通話以降、相手の男から新しい連絡は来ていない。
無視されたかな、と茄之助がうなだれたその時、雨の叩きつける音に混じってコツコツと人の歩く音が聞こえてきた。
その音に茄之助はそっと顔を上げる。そこには例の男がいた。
「この、アホ野郎が」