寂憬〔第一幕〕
(読み) 紅と嘘 寂憬
ーー“目を背き忌むは大岩の如く、恋焦がるるは大波の如し”ーー
秋の匂いをたっぷりと溜め込んだ病院の一室、太陽の光を優雅に透かす銀杏が見える窓のそば、赤いニット帽を被った少女はベットで横になりながら、おばさん看護師たちが自分の世話をするのを退屈そうに眺めていた。
「わぁ見て見て、外に人が集まってる、何かのイベントかしら」
一人の看護師が窓の外を指差しそう言い、その声に釣られて他の看護師たちも窓の元に集まってくる。
「ほら、紅葉ちゃんも」
別の看護師にそう言われ、紅葉と呼ばれた少女はこっそり視線だけを窓の外に向ける。
「大道芸人ね、紅葉ちゃん知らない?路上で手品とかパフォーマンスをするの。まさに自分を生きる!って感じかしら。」
看護師はそう言って紅葉の反応を楽しみに伺っているようだった。
「私ぜーんぜん興味ないです。カーテン閉めていいですかー?」
紅葉は大人ぶった態度で軽くあしらう。
これはよくあることだった。紅葉はそういう性格なのか、あらゆることに興味を示さない子供だった。
「んもう、紅葉ちゃん。紅葉ちゃんは好きなことないの?いつか元気になれるんだから。そしたら好きなこといっぱいして、素敵な女の子の生活が待ってるのよ!」
そう励ます看護師は側から見れば優しいおばさんと言う言葉がよく似合う人だった。
「はいはい、分かってまーす」
見ていたテレビに同い年くらいの女の子が出てきたのを見て、そっとチャンネルを切り変えるついでにつまらなさそうに応える。
「そろそろお父さんがお見舞いに来る時間ね。あ、そうそう、そういえば紅葉ちゃんのお父さんも歌舞伎の女方さんなのよね?素敵よね〜」
「「「ね〜」」」
他のおばさん看護師らもそれに反応する。
女方とは歌舞伎で女性を演じる男優のことだ。紅葉の父親はそれを生業にしている。
紅葉はそんな様子に呆れつつ、まるで何度もした会話かの様に無機質な声で応える。
「でもお父さん男だよ。女じゃないよ。詐欺師じゃんね。」
「そう、そうかしらねぇ…あ、そろそろお父さんいらっしゃる時間だから私たちは行きますね。」
そう言い、気まずそうに笑って出ていった看護師と入れ替わりに、ずんぐりと大きな背中の父親が部屋に入ってきた。
「紅葉、ただいま。今日も元気にしてたか?やー暑い暑い。ずっと一緒にいてやれなくてごめんな。」
走ってきたのか、はたまた重い荷物のせいか汗をぐっしょりかいた父親が話しかける。黒いTシャツからはみ出た和柄の刺青といい、かなり厳つい見た目だ。バサっと刈られた揉み上げから汗が滴る。
「あ、おかえり。早くぎゅ〜してくれなきゃ紅葉死んじゃう〜」
紅葉の父親、茄之助は急いで荷物を置き、紅葉のブラックジョークに付き合う。近頃の紅葉の発言にはヒヤヒヤさせられることが増えた。それはなんだか諦めのようでもあった。
「紅葉!希望を持ち続けろ!病気が治ったらたくさん可愛いもの着て、楽しい場所に行って、素敵な女の子になれるか…」
紅葉がその言葉を遮る。
「はいはい、もうその言葉聞き飽きたよ。」
「お父さんは何度だって言うぞ!治る!信じれば治る!」
茄之助は紅葉の頭をそっと撫でてそう言った。
なんだかんだ言ってこんな生活が続くのだろう、どうせいつかは元通りになる。そう信じていた。逆にそれ以外なんて一滴も考える由はなかった。
◆ ◆ ◆
古い家が多く目立つしっとりとした住宅街、ただしそれはよくあるそれとは違っていた。耳をすませばリズミカルな音楽や和を感じさせる話し声がどこからか聞こえてくる。その音を辿って行った先にあったのは、住宅街の家なんかよりずっと古そうな木造の建物。
そこは歌舞伎の稽古場だった。中ではスポーツウェアを着た男たちが壁一面が鏡の部屋で劇の練習に励んでいた。ここには女性の姿は見られない。歌舞伎とは女性も男が演じるものであるからだ。汗の酸っぱい匂いが鼻をくすぐる部屋の中で、管弦囃子や江戸時代を彷彿とさせる異様な話し声が響き渡っている。
練習ゆえに舞台セットは用意されてないものの、確かにこの空間には四百年前の風が吹いていた。
シャン♪ シャン♪
「昼休憩入りまーす!」
「ふぅ、疲れた。」
団員たちは一斉に腰を下ろし息を整える。
その中には茄之助の姿もあった。
朝からの稽古をひと段落終え、壁にもたれかかった茄之助は一気に半分近くのペットボトルの水を飲む。
「皆さんお疲れ様です。」
一息つく団員に団長が声をかける。その瞬間団員の心には現代の風がふき戻る。
「お疲れ様ですー。茄之助さんの演技痺れましたよ、あの〜」
「いえいえ、ありがとうございます。田中さんだってあの山から〜」
稽古場に賑やかな談笑が響く。
同じ作品に心を通わせ共に練習する日々を何年も続けている彼らにとって、お互いは家族や親友に近しかった。練習終わりの気の抜けた会話ほど楽しいものはない。
穏やかな秋の昼時。今日は珍しく気温が三十度を超える真夏日。窓から差したギラギラとした太陽の光が茄之助の肌を焼き付け、ジトっとした汗が頬を伝う。
「誰かエアコンの〜〜」
チリンチリン
自転車の音、外では人の生活音が聞こえる。
「今度の公演は〜〜」
ミーンミーン
もう秋だと言うのに、まだ鳴いている蝉がいる。
「私は昨日息子と〜〜」
まるで無の中にいるかのように一瞬にして辺りの音が止んだ。
「そういや今週末って〜〜」
ピリリリリ〜♪ ピリリリリ〜♪
その時、茄之助の携帯に病院から一本の着信が届いた。
突然の出来事だった。
団員たちは一瞬静かになったものの自分に関係がないと分かるとすぐに会話に戻る。
こんなことは今までに無かった。毎日夕方には必ず紅葉のお見舞いに行くのだから定時連絡などは不要のはずだ。
「もしもし…はい…はい…は、」
電話に出た茄之助は目の前が大きく歪んだように感じた。呼吸が浅くなる。その時の顔は数秒前とは打って変わって真っ青だった。
稽古でかいた汗が一瞬で茄之助の身も心も冷やす。
九月十三日。季節に似合わない秋のギラギラした空の下、そこには不気味なほどに大きな入道雲が浮かんでいた。
◇ ◇ ◇
無我夢中で走った。足をこれでもかと動かす。茄之助が気づいた時にはもう病院の廊下にいた。今でも電話の声がずっと頭の中で反芻している。
“紅葉さんの容態が急激に悪化しています。すぐに来てください。”
「紅葉……紅葉……!」
◇ ◇ ◇
案内された重い雰囲気の漂う診察室にて、茄之助は用意された椅子に腰を下ろす。その後しばらくして担当医師は静かに話し始めた。
「お父様、心して聞いてください…予想以上にガン細胞の全身への侵食が早く…もう治療のしようが……紅葉さんは…この二週間…持つかどうか分からない状態です。」
(ドクン、ドクン、ドクン、ドクン、ドクン)
茄之助の鼓動が急激に速くなる。まるで心臓が耳のすぐ横についていると思うほどに鼓動の音しか聞こえない。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
次に看護師が茄之助を新しい病室へ歩いて案内する。まだ昼時なのに不思議と青白くひんやりとした院内は茄之助の不安を掻き立てた。
しんみりとした雰囲気の中、案内の看護師が静かに話し始めた。
「紅葉ちゃんにはまだ体の詳しい容態、そして余命のことは伝えていません。それは、お父様に委ねさせていただく、という形になっております。」
その看護師は紅葉の部屋を担当している顔馴染みのおばちゃん看護師だった。茄之助とも顔見知りで茄之助も普段の様子を知っているのだが、彼女からはいつもの朗らかさは感じられなかった。
「え…その…私は、私はどう言えば…」
「お父様、到着しました、ここが紅葉さんの新しい病室です。」
新しい病室は今までと違い一人部屋だった。そのせいか部屋は無音で包まれていた。
小さく揺らぐカーテンのそばのベットに紅葉はいた。
「あぁ、紅葉…?」
目の前にいるのはたくさんのケーブルが繋がれた娘。かけるべき言葉が見当たらない。それでも声が震えそうなのを隠して名前を呼びかける。
「あっ…お父さん……今日は来るの早いね…」
紅葉のいつになく弱々しい声に困惑するも、茄之助はひとまず平然を装う。
「あっ、ああ…今日は稽古が早く終わったもんでなぁ。」
紅葉は何故か目を合わせてくれない。
紅葉は何を考えているのか、父親である茄之助にもさっぱり検討がつかなかった。
「……お父さん……女の子って…楽しいのかな」
その時、紅葉が静かに口を開いた。この間も紅葉は窓の外を虚ろな目で眺めている。そしてその目線の遠く先には楽しげに歩く女子大生の姿があった。
「あぁ…そりゃきっと楽しいぞ。紅葉も病気が治ったらいろんなすきなことして…素敵な女の子に…」
「嘘つき」
「えっ」
突然の紅葉の芯の通った口調に茄之助は驚き声を上げる。
さっきと違い今回は茄之助の目をしっかりと見て言っていた。
「嘘つき。嘘つき嘘つき嘘つき!みんな嘘つき!全部わたしを励ますためのいいかげんな嘘に決まってる!」
「っ…嘘なんかじゃないぞ。なんでそんな風に思うんだ、お父さん歌舞伎で女方してるから分か…」
「分かるわけないじゃん!男なのに女役なんておかしいよ!女の人の服着て、女の人みたいなお化粧して、女の人みたいな喋り方とか動き方とか!嘘じゃん!嘘の女じゃん!わかった風に言うな!!」
再び紅葉が茄之助の言葉を遮り、暴走したマシンガンのように言い放った後、紅葉は顔をすっぽり布団で覆ってしまった。
「………ごめんなさい…全部嘘…」
紅葉は布団の中から小さな声でそう言い、それ以降喋らなかった。きっとそのまま寝てしまったのだろう。
いつもはあんなにも大人げな紅葉の激昂は茄之助も初めて見たものだった。
きっと今の状況は体力的にも精神的にもキツイのだろう。茄之助は今夜を病室のソファーで過ごすことにした。
⚪︎ ⚪︎ ⚪︎
それから数時間が経った。夕暮れも今日の仕事を終え西に沈み、代わって黒が辺りを包みこんだ頃。
「お父様、少し宜しいでしょうか。」
廊下から顔を覗かせた看護師が茄之助のことを呼び寄せた。
それを聞き茄之助は重い腰を持ち上げ廊下に向かう。
「紅葉ちゃんに病状の件はお伝えになられたのでしょうか。」
「いえ…それが、まだです…」
「そうですか…心中お察しいたします。ただ、お父様、人というのは思っている以上に他人に敏感な生き物です。お父様に真実を隠されているということを、紅葉ちゃんはもうとっくに気づいてしまっているかも知れません。」
その後一呼吸おいて再び看護師が口を開いた。
「それで本題なのですが、紅葉ちゃんと、ご自宅に帰るという選択肢もあるということを伝えにきました。」
「紅葉と、あの家に……」
茄之助はそれを聞いてしばらくの間黙り込んでしまった。
「お父…様?どう…かしましたか…? ひっっ」
不思議そうに茄之助の顔を覗いた看護師が小さな悲鳴をあげた。
「…怖い…怖い…怖い…」
茄之助はさっきとはうって変わった様子で、尋常じゃないほどの汗を流しながらぶつぶつと喋っていた。
その後はっと我に帰った茄之助が思い返したように廊下から紅葉の方を眺めた。
頭の中に思い出されたのは、かつて家族三人で暮らしていたあの時間。
それはなるべく考えないようにしていた光景。だけど絶対に手放したくなかった光景。
茄之助は頭がパンクしそうだった。それほどに何かに悩んでいた。
◆ ◆ ◆
心地よく涼しい朝で始まった秋の一日。
赤い屋根が綺麗な一軒家の前に一台の白いワゴンが停まった。
車から茄之助が出てきた後、車椅子に乗った紅葉が押して外に連れ出された。
茄之助が車椅子を押してある家の門に歩き出す。
「さぁ、着いたぞ、紅葉。久しぶりの……我が家だ。」