汚れつちまつては、いないんだな
『高慢と偏見』の翻訳を読み比べをしてみた。
本当は読み比べをしたかった訳では無いのだが、先に読んだ物の翻訳が私には古めかしくて。
いくら爵位が無い中間階級とは言え、いわゆるご令嬢が出てくる小説である。
彼女たちから「〇〇しちまいましたわ」とたっぷりと出てきた。
現在ではなかなか聞き及ばない、大変古めかしい表現である。
これ、いつのだよと確認すれば1950年の出版されている。
まぁ、なんとなく納得。
流石に「しちまいました」は、古風すぎる。
他の翻訳も多く出ているのだからと、簡単に手に入るものを入手した。
こちらは2011年に翻訳されたものだ。
大変読みやすい。
しかし読み進めていくうちに「??? 」が出てきてしまった。
穏やかな性格の主人公の姉ジェーンは、主人公エリザベスへの手紙に「リジーちゃん」と呼びかけているのだ。
(リジーはエリザベスの愛称)
英語圏に人間が、ちゃん付け? 妹へ? しかも愛称にちゃんまで付けちゃうの?
私には不思議でしかなかった。
それでも50年に出版された物に比べれば、高雅な印象は減るが読みやすい。
気になるところは、やっぱり気になったままなのだが。
さて、『氷点』という三浦綾子の小説がある。
主人公の陽子の母親は、陽子を嫌い抜いている。
しかし母は、穏やかな性格の為に陽子を呼び捨てにせず「陽子ちゃん」と常に呼んでいる、という所があった。
あぁ、そうか。
「英語圏」という括りではなく、考え方の問題なのだ。
温和な性格だったり人柄が良い方は、あまり呼び捨てをしない印象を持っていた。
それが例えとても近しい間柄であってもだ。
原文が何語かではなく、今回必要だったのは日本(語)的思考と気付いた。
日本語で読む上で大変計算された翻訳である。
今回は『氷点』のお陰で「何コレ変な訳」で終わらずに済んだ。
今まで私が読んだ小説の中には、理解が足りず「つまんない」で終わってしまった作品も多くあるはずだ。
自分の至らなさによって読めなかった作品があるかもしれない。と知れたこは大変な収穫であった。
古い言葉遣いをして下さった『高慢と偏見』のご令嬢に、わたくしはとても感謝しちまったわ。