覚えたよ。本当に?
中学2年生の頃だと記憶している。
私はとある小説家と出会い、彼女の書いた小説を手に入る限り読んだ。
「自らの意思で彼女の小説を選び取った」という気持ちに当時、鼻を随分と高くしたものだ。
今思えば、本当に鼻持ちならない態度である。
自分だけの意思で何かを選び取れるほど私には、知識が無かったからだ。
今でも、何も知らないと思う。
誰かに一つ教えてもらうたびに、自分の無知であると心底辟易する。
唯一救いがあるとすれば、「無知」だ分かっている事だろう。
数年前からだと思うが、小名異常な印象を受けるタイプのクイズ番組を見かけるようになった。
小学生の時に習う社会や理科、中学で習う漢字の読みを回答者の芸能人が答えると言った類の番組だ。
そのような番組が増えてきたなと思う頃に、ネットで〇〇という漢字を正しく読めますかという記事に気づくようにもなった。
「それ、読めてどうするの」
難読漢字の問題を見たときの、毎回の感想だ。
読めないより、読めるに越したことは無い。
当然だ。
大事なのは、読める事ではなく、いつその言葉を利用するかだろう。
使えない言葉読めて楽しいのだろうか。
楽しいんだろうな。
暇も潰せて知識も増えるし。しかも、とてもお手軽に。
その増えた語彙ちゃんと利用できてるのかと、問題作成者に問いたい。
問題を作るために言語はあるのではなく、使うためにあるのだ。
文字を使って情報を発信している人々なら、全てでなくても肯定てくれるだろ。
せっかく作ったクイズなんだ。
答えを覚えてもらったら、使ってもらえるように例文を1つ入れるだけで良い。
語源を伝えるのも良いだろう。
何かを一つ知ったら、もう一つ知りたくなるじゃないか。
せっかくなら、自分の物にして使って見たくなるじゃないか。
何もかもを知り尽くしている人なんて、どこにもいないはずなんだから。