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気まぐれ、どんぐり生活  作者: 如月ふたば


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縁へのご縁

 ポットキャスト(音声コンテンツ)を聞いていたら、「ご縁という感覚は仏教的なもの」とあった。

「無宗教が多いとはいえ、日本人には仏教の考え方が馴染んでいるから取り入れる素養があるんだよね」


「袖振り合うも他生(多生)の縁」という言葉の「他生」は仏教用語だ。

 素養のお陰か、私は話を聞くまでご縁という考え方は全世界共通だと思っていた。


 現状で顔を見て関わっている人には当然、縁があるといえる。


 ではSNSのように、袖を振り合っていないが関わっている相手は?

 今の時代はSNSのお陰で、無かった時代には繋がることが出来なかった人物とも関わることが出来る。


 事実、あるスポーツ解説者は「今はSNSで(自分の家族や友人たちと)どこにいても繋がっていられる感覚があるから安心できる」という日本以外の国で活躍する選手も存在すると話していた。

 繋がる相手は国の内外を問わず知り合えるという事だ。

 もちろん顔も知らない、言葉も髪の色も考え方も何もかも違う人知人では無い相手と。


 SNSだけの相手でも関わっているんだから「縁がある」と言っても良い。

 そういう風に私は思う。

 

 オフ会などで会えば更に結びつきは強くなる。

 

 たとえ簡単には会えない、とはいえ話や趣味が合いよく名前を見る相手ならば縁はあるのだろう。



 私にとって気になるところはSNSでは仲が良く、袖を振りあえる距離に居るのに振り合うことが無い距離感の人たちだ。


 SNSだけでなくゲームでよく関わる相手でも良い。

 その誰かと毎日のように電車で顔を合わせているのに「知らない人」だから挨拶交わすことは無い。

 予約時間が同様らしく、毎月、毎週のように病院で顔を合わせる「よく見る人」


 もう少し手を伸ばせば、物理的に触れ合える。

 それをきっかけに「あの人」だったんだ!となる事だってあるかもしれない。

「あの人」と目の前の人物とが線にならず点のまま。

 これに対してはすこぶる縁が無い相手なのではないだろうかと思ってしまうのだ。


 関われているのに物理的に近寄らない。

 だから縁がないと思う、と表現すればいいだろうか。


 そもそもそんな微妙な関係ある訳ないじゃん。と言われたら、そうかも。とも思う。

 かなり低い確率だが、無いとも言い切れない事なのではないだろうか。


 そんなことなんで気になるの?と聞かれたら、ただなんとなく興味があるから気になるとしか答えられない。

 だって、SNSで誰かと仲良くなるたびに「縁」について考えていたんだもん。

 ちょっとくらい的外れかもしれない考えしたって良いじゃないか。


 例えば、リアルに関わっている相手ならプツリと縁が切れてしまうことはあまりない。

 この時期に転勤、転校する。卒業、転職をする。

 だから、それ以降なかなか顔を合わせる機会は無くなるということは事前にわかる。


 急に運悪く事故に合ってしまったなど不測の事態もありえるが、それだって相手の状況は知ることが出来る。


 では、ネットで知り合った相手は?

 相手でもこちらでも、どちらかが縁を切ることを決めてしまったらそれ以降はどうなるのだろう。

 次は無いかもしれない。


 こんな怯えに似た感覚があるから、低い可能性でも「あの人」に手を伸ばせるなら伸ばしたい。と感じてしまうのだろう。


 ご縁なんて考え方、知らなければこうまで思わなかったかもしれない。

「仏教的感覚」ならば、仏教以外の考え方が根付いていたらどう感じていたのだろうとも考える。


 多くの日本以外の国では、宗教心が本人のアイデンティティの土台になっているという。

 アイデンティティの形成って、人生の中でかなり早い段階だ。

 それほど(日本人の仏教への馴染みも含めて)関りがの深い。


 紀元元年はキリストの誕生が基準とされている。

 それに近しいキリスト今日を含む3大宗教の歴史の長さがうかがえるというもの。

(あくまでも例だから、他の宗教を信仰している場合は関係ないと感じているということではないです)


 仏教はそれ以上に長い間存在してきた。


 日本に伝わって来たのが飛鳥時代なら、とてつもなく長いあいだ「ご縁」という考え方が存在していた。

 そこまで昔からでなく「縁」という考え方が入って来たのは本当に最近かもしれない。


 最近だったとしても、日本で生まれ育った人には感覚として幼いころから持っていたはずだ。


 長く培われてきた素養。

 

 現代は情報が多いせいか、時間の流れも時代の流れもとても速い。

 どんどん世界が変わりつつある。

 様変わりしていく世界を見られる機会。


 それは存在してきた感覚が転換する時期だ。


 今まで在った「縁」の考え方も、私の中で変わりつつある。


 それは長く存在してきた仏教感なんかよりもっと短時間で変わっていく。

 変遷を目の前に出来るかもしれないというご縁を私は授かっているのかもしれない。


 だからかな。私はよく縁を考えるのだ。

ニュアンスだけでも伝わると良いのですが、解像度が低いせいでうまく表現できていないにも関わらず最後までお読み下さりありがとうございます。

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