番外編 その頃オルフェは
「……。」
アイリーンを乗せた馬車は、火の国へと出立した。
オルフェはその様子を、静かに眺めていた。
その表情には、言いようも無い悲しみが滲んでいた。
「クソッ……!!」
唐突にオルフェが窓ガラスを殴る。
殴られた部分は割れ、ガラスの破片が辺りに飛び散った。
「おいクロノス!いるんだろ?」
オルフェが誰もいない部屋の奥へ向かって、そう声を荒げた。
数秒後、オルフェが割ったガラスの破片がゆっくりと浮かび上がり、元の位置へと戻って行く。まるで時が戻ったかのように、窓ガラスは元の姿へ戻っていた。
《そんなに大声を出すな、オルフェ。》
部屋の奥から、白く荘厳な雄鹿が現れる。
時の精霊クロノスだ。
「俺を火の国へ連れて行ってくれ。
俺がアイリーンの代わりを務める。
火の精霊に直接交渉すれば……。」
《無理だ。》
「なんでだよ!!」
クロノスの素早い否定に、オルフェが叫ぶ。
《今回の件、俺もお前も手を出すことは出来ない。》
クロノスは静かだが、厳しい声でそう言う。
「俺はともかく、お前はアイリーンに助力出来るだろ?!」
オルフェがクロノスの言葉に噛み付く。
《俺も何も出来ない。
オルフェ、よく聞け。我々精霊は、不可侵の制約を課している。
精霊同士の力を干渉させてはいけないのだ。
……下手をすれば、世界の均衡が崩れてしまうからだ。
ドラゴン討伐に関しては、火の精霊サラマンダーが行うこととなった。
だから時の精霊である俺は干渉出来ない。》
クロノスの言葉にオルフェから血の気が引いていく。
「なら、アイリーンが死ぬ間際にクロノスの力でアイリーンの時を戻してくれ。頼む……。」
オルフェが祈るような声でそう言う。
《無理だ。
俺は人の生死に干渉出来ない。それが出来るのは、生命の精霊と、死の精霊だけだ。
人の生死に干渉することは、この二人の精霊の力に干渉することになってしまうのだ……。》
「なら……なら、誰がアイリーンを守るんだよ?!」
オルフェが叫ぶ。
握り締めた拳には、血が滲み始めていた。
《落ち着け。
火の精霊サラマンダーには、すでに話をつけてある。アイリーンは確かにドラゴン討伐に必須の存在だが……サラマンダーがドラゴンに負けるとは思えん。
つまり、アイリーンが命を落とすことは恐らくないだろう。》
「前回、そのクソったれな精霊の制約とかのせいで、お前はアイリーンを助けられなかった。
精霊なぞ信用出来ない。」
《……。》
オルフェの辛辣な言葉に、クロノスは押し黙った。
暫く続いた沈黙を破ったのは、オルフェだった。
「もういい。俺も今すぐ火の国へ向かう。」
歩き出したオルフェの前を、クロノスが塞ぐ。
《待て。それではお前の身が危ない。
落ち着いて考えろ。もしアイリーンに何かあった時、お前はまた記憶で時を渡るのだろう?
お前が死ねば、もう二度とやり直しは効かない。》
「……今の俺が差し出せる対価なんて、前回には遠く及ばない。
アイリーンの記憶は飛ばせても、俺の記憶はもう無理だ。それはお前が一番分かっているだろ?
アイリーンを守りたい。それが俺の願いだ。」
オルフェの悲痛な声が、部屋に吸い込まれていく。
《……俺がアイリーンのもとへ行く。
俺がアイリーンを守ると、約束する。
だからオルフェ、お前はここで待っていてくれ。
酷な事を言っているとは思うが……。俺はお前と違い精霊だから、何があっても死ぬことはない。
アイリーンにも、そして俺にも、お前が必要なのだ。》
クロノスが切望するような声でそう言った。
その声に、今度はオルフェが押し黙った。
その隙に、クロノスが黄金色の光と共に揺らぎ、消えて行く。
「待て、クロノス……!」
オルフェの声は、空虚な部屋に溶けて消えた。




