第72話 約束のキス
翌朝。
「お腹が空いた……。」
アイリーンは空腹を感じ、目を覚ました。
昨夜はあの後部屋に戻り、また眠ってしまっていたのだ。
(昨日は昼食以降、何も食べていなかったから……。うぅ、出発前に何か食べたい。)
アイリーンはふとバルコニーへ続く窓を見た。
昨夜のことを思い出し、なんとなくバルコニーへ出る。
外では霧雨が降っていた。
霧は朝日に照らされ、黄金色を纏っていた。
「アイリーン……。」
声が聞こえた方へ顔を向けると、隣の部屋のバルコニーにセルシス王子がいた。
「セルシス様!いつからそこに?」
アイリーンが驚きの声を上げる。
(そう言えば風の国でもこんなことあったわね……。)
「アイリーンの部屋の窓が開く音がしたから、俺も出てきたんだ。」
セルシス王子が静かな声でそう言う。
彼の表情は暗く、この柔らかな黄金の靄に包まれた朝には似合わない。
「アイリーン、そっちへ行ってもいいか?」
「え?」
アイリーンが答えるより早く、セルシス王子が助走をつけて跳ね、隣の部屋のバルコニーからアイリーンの部屋のバルコニーへ飛び移る。
しかし霧雨によりバルコニーの床が濡れていた為、着地した瞬間セルシス王子が滑り転びそうになる。
「セルシス様!」
アイリーンは咄嗟に風の魔法で彼を支えた。
「?!」
アイリーンが風を巻き起こしたのを目の当たりにしたセルシス王子が驚き、アイリーンを見つめた。
「あ……実は昨夜ーーー」
アイリーンは昨夜、風の精霊シルフから加護を受け取り、風の魔法を使えるようになった時のことを話した。
「風の精霊シルフ様からも加護を……。すごいな。」
話を聞いたセルシス王子が、心底驚いた顔をしている。
(そうよね……これで私は時の魔法、水の魔法、そして風の魔法を使えるようになった。こんなにたくさんの魔法を使えるのは……世界で私だけだわ。)
「アイリーンが風の魔法を使えるのなら、俺はいつ空から落ちても、いつ転びそうになっても安心だな。今みたいに支えてくれるだろ?」
「…………。」
アイリーンは口を噤んだ。何と答えれば良いのか分からなかったからだ。
(はいと答えたいけれど、約束は出来ない。
もし生きて戻れたとしても、もう王太子妃には相応しくない身体になっているかもしれないわ。でもこんな事言いたくない。
口にして、もし本当になってしまったらと思うと……怖くて仕方ない。)
「っ……」
アイリーンが無言でいると、痺れを切らしたセルシス王子がアイリーンの手を握り引き寄せる。
そしてセルシス王子の唇が、アイリーンの唇に重ねられた。
「ん……っ!」
驚き丸くなるアイリーンの瞳と、不安と熱に揺れるセルシス王子の瞳がかち合う。
唇が離れる。しかし依然顔を寄せたままセルシス王子が囁く。
「勘違いするなよ。今のキスは決して別れのキスではない。約束のキスだ。
必ず……必ず生きて俺のもとへ戻って来てくれ、アイリーン。
逃げて良い。どんな身分でもいい。どんな姿でもいい。俺の隣はアイリーンだけの場所だ。」
それはアイリーンが一番聞きたい言葉だった。
一度目の人生で婚約破棄された時の記憶が甦る。
アイリーンはあれからずっと不安だったのだ。
セルシス王子との未来を願いながら、本心ではセルシス王子との未来を信じられないでいたのだ。
セルシス王子の言葉で、アイリーンの心に刻まれた、不信感という名の傷の痛みが和らいでいく。
セルシス王子がアイリーンの姿形を確かめるように、深く抱き締める。
腕の中、アイリーンは彼との未来を思い描き、静かに闘志を燃やした。
(願う未来の為に闘う。決意も覚悟も出来ているわ。)
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(私は決意も覚悟も出来ているのに……)
「ええと、ブランチはサンドウィッチと、スコーンと、フルーツと……」
《ほう。では俺はいちごを貰おう。》
「おい待てトカゲ!いちごは俺のだ。」
《いちごは年功序列だ!》
「それはおかしいだろ!!」
(なんでお二人はこんなに緊張感がないのー!!)
アイリーンはレティウス王、火の精霊サラマンダーと共に馬車で移動している。
道中はドラゴンを倒す為の作戦会議を行うと言われていた為、馬車に乗り込む寸前までアイリーンは一生懸命思案していた。
しかし実際に馬車で始まったのは、ブランチだった。
大きめのバスケットから、次々と美味しそうな軽食やお菓子が出て来る。




