第71話 より良い未来へ
《ひとつだけ誤解して欲しくないのは、僕はサラマンダーを信頼してる。
彼は勝てない闘いに挑むような奴じゃないよ。
でもドラゴンの力は強大だから、何が起こるか分からない。だから、もしドラゴンに殺されそうになったら、風の魔法の力で逃げて。
約束だよ、アイリーン。》
「はい。ありがとうございます、シルフ様。」
アイリーンはやっとそれだけ口にする。
(本当はもっと感謝を伝えたい。
この不安な気持ちも聞いて欲しい。
でも、今は頭がぐちゃぐちゃで……言葉が出てこない。)
シルフが飛び立つ。
切ない夜風と共に、シルフの姿は見えなくなった。
アイリーンは手に入れた力を試すように、風を起こした。巻き上がる夜風がアイリーンの肌を撫で、マントがはためく。その冷たい夜風は寂しさを増長させた。
気付けばアイリーンの瞳からはぽろぽろと涙が溢れていた。
シルフの優しさに触れたせいで、アイリーンの虚勢が完全に崩れ去ってしまったのだ。
涙と共に心の奥底から本音が溢れ出す。
(家に……私の居場所に、帰りたい……。
母様に会いたい。ドラゴン討伐なんかに行きたくない。
暖かな陽が射すあのクロノス邸で、またお茶を飲みたい……。戻りたい、日常だった日々に。)
アイリーンは羽織っていたマントのポケットに手を入れた。そこには、クロノス邸を出る前夜に母アリシアから渡された金貨袋が入っていた。
(今、夜の暗闇に紛れて逃げれば…………。いや、逃げたところであの日々には戻れない。
愛しい日々の終わりを知るのが、こんなに苦しいことだったなんて……。怖い。これからのことのすべてが怖い……。)
アイリーンは胸が締め付けられる感覚に襲われ、その場に蹲った。
「私、どうすれば……どうすればいいの……。」
「顔を上げろ、アイリーン。」
低く優しい声と共に、柔らかな光が辺りに舞う。よく見るとそれは火の粉だった。
アイリーンは顔を上げ、声のした方を見た。
そこにはレティウス王が静かに立っていた。
「?!何故ここに……」
アイリーンが驚き立ち上がると、レティウス王がアイリーンの手を掴み、自身の胸へと引き寄せる。
「やっ……!!」
アイリーンがレティウス王から離れようともがく。レティウス王はそんなアイリーンの両手を掴み言った。
「俺の目を見ろ。」
アイリーンはレティウス王を睨むように見つめた。燃えるような彼の赤い瞳にアイリーンの顔が映る。
レティウス王はアイリーンから目を離さず、素早くアイリーンのマントのポケットから金貨袋を取った。
「あ……それは…………。」
(どうしよう……逃げる選択肢を持っていたことがバレているのだわ……。)
アイリーンの怯えた瞳を見つめながら、レティウス王は優しく微笑んだ。
「アイリーン、よくここまで逃げなかったな。
チャンスはいくらでもあった。この金貨袋もあった。しかしお前は、逃げなかった。」
「え……」
予想していなかった言葉にアイリーンが目を見開く。
「俺から言えるのは1つだけだ。
アイリーン……勇気を持て。勇気がお前自身を、そしてお前が守りたい者達を導く。
お前の勇気で、より良い未来へ向かうんだ。」
「より良い未来……。」
アイリーンは自身にその発想がなかったことに気付いた。
「そうだ。
お前にも未来への願いがあるだろ?
それを叶える為に、勇気を持って今、決意しなくてはならない。闘い、未来を掴み取る決意を。
逃げたとしても、逃げなかったとしても、もう今までの日々には戻れないのだから。」
レティウス王の言う通りだった。
アイリーンはどんな選択をしても、今までと同じ日々には戻れない。
であれば、より良い未来へと向かえるような選択をするしかないのだ。
ドラゴンがいる限り、未来は不安定なものになる。もしドラゴンが時の国へ降り立っていれば、とうに日々は崩れ去っていたのだから。
アイリーンは自分が望む未来について考えを巡らせた。
(1度目の人生と同じ結末は嫌。
私が大魔法使いを目指したのは……大切な家族を、居場所を、守りたいから。願う未来は、家族と共に生きられる未来。そして……セルシス様と慕いあえる仲になる未来。
大切な人達との未来を掴む。その為になら、私…………。)
「レティウス様、私闘います。
貴方と共に……闘わせて下さい。」
「勿論だ。安心しろ、勝算はある。
俺とサラマンダーを信じろ。俺もお前を信じているぞ。」
レティウス王が見つめる、涙に濡れたアイリーンの瞳には、希望の光が宿っていた。