一週間の君とわたし
これは、ありきたりな物語。
記憶が一週間しか残らない少女の物語──。
※
わたしは記憶が一週間しか残らない。どうしてこんなことになっているのかは……分からない。月曜日の朝を迎えると、一週間分の記憶が全部抜け落ちてしまう。
だから毎日のように日記を記している。記憶が無くなっても読み返せば分かるように。
そんなわたしだからか、クラスでは浮いた存在になっていた。
イジメられているとか、そういうのは無い。純粋にわたしとの関わり方に困っているのだろう。一週間しか記憶が残らない。どう接すればいいのか分からないのも無理はない。だからわたしも、極力クラスメイトと関わるのを避けていた。その方が迷惑をかけずに済むから。
どれだけ仲良くしてもらおうと、過ごした時間だけではなく、名前すらも分からなくなってしまう。そんなの悲しいだけ。記憶が消えるわたしは悲しいって感情すら残らないけどね。
「──おはよう」
月曜日の朝。日課になっている日記を読み返す作業を屋上でやり終えたわたしが朝のホームルームギリギリに教室に戻ると、名前も分からない男子が話しかけてきた。
日記にはわたしにいつも挨拶をしてくれる男子がいると記されていた。多分その人がこの男子で間違いないだろう。
「……うん、おはよう」
どう接すればいいか分からないから、わたしは軽く挨拶をして自分の席に座った。日記にも挨拶だけして終わりって記していたから、これでいいはず、だよね。
男子の方は挨拶をするだけで自分の席に戻っていった。わたしとは随分と席が離れている。まさか挨拶をするためだけにこっちまで来たのかな?
※
火曜日。何か大きな変化がある訳でもなく、わたしは流れていく時間に身を委ねていた。
何度も読み返している日記。そこにもこれといって何か大きなことが記されているわけではない。次のテストはここが出るとか、いつまでの課題があるとか、そんな些細なことだけ。今日もきっと何も無いまま時間だけが過ぎていくんだろうな──そう思った時だった。
「な、お昼一緒に食べないか?」
「え?」
上から落ちてきた声に顔を上げると、挨拶をしてくれる男子が菓子パンを二つ持って立っていた。答えに迷っているわたしに、男子はちょっと無理矢理パンを握らせると、そのまま空いていた前の席に座って封を切る。
……わたしまだ、一緒に食べるなんて言っていないんだけどな。
でも断る理由は……あることにはあるけど、既に黙々と食べ始めているから断りづらく、わたしは受け取ったパンのパッケージを見る。
「……焼きうどんメロンパンって……なに」
奇抜なセンスにわたしは顔を顰めた。でも男子はわたしの反応に気づいていないのか、笑いながら答える。
「騙されたと思って食ってみな? ガブッといってみ? 美味いぞ」
「……いただきます」
封を切り、言われた通り思い切ってかぶりつく。
メロンパン特有のサクサクとした食感と甘さ。それに焼きうどんのしょっぱさが混じって、何とも言えない味だった。
「どうだ? 美味いだろ」
でも、男子の……君の笑った顔を見て、わたしは微妙とはとても言えず、笑って誤魔化すことにした。
「……う、うん。美味しい……かな?」
「だろ? パッケージ詐欺ってのはこういうのを言うんだろうな」
わたしの答えに嬉しそうな頷く君。
そんな君の笑顔に、わたしの心臓がとくんと高鳴った。この高鳴りは一体何なのだろう?
※
水曜日になった。今日も君はわたしの前の席でお昼を食べていた。わたしに渡されたパンのパッケージにはナポリタンクロワッサンと表記されている。
「……君って、奇抜なものが好きなの?」
「いや? 美味しいと思ったものが好き。それも美味いから食ってみ?」
一口齧ってみる。無駄にいいクロワッサンなのか、パリパリサクサクした皮が美味しい。しかし、仄かな甘みの中に入ってくるナポリタンの味が、これまた奇っ怪な味を生み出していた。
どう答えようか悩んだが、遠足前の子どもののようにウキウキとした目を見てしまったから下手に感想を口にできない
「……美味しい、よ?」
「おお。いいね、お前とは趣味が合いそうだ」
嬉しそうに笑いながら君はパンを食べ続ける。わたしももふもふと食べ進めていたのだが、不意に君がわたしのことをじーっと見ていることに気づき、食べるのを止める。
「なに、かな?」
「ちょっとじっとしててな?」
「ほえ?」
不意に伸びてくる君の手。何をされるのか分からず、思わず目をぎゅっと瞑ってしまう。その瞬間、口元の辺りを掠める感触がして、恐る恐る目を開くと、ピンと立てた君の人差し指が目に入る。そしてその指先には、わたしの口元に付いていたであろうケチャップが付いていた。
「取れた。もう食べてもいいぞ」
「あ、うん。ありが──ちょ!?」
何を思ったのか、君は人差し指に付いていたケチャップをそのまま自分の舌で舐め取った。
カッと恥ずかしくて顔が熱くなるのが自分でもよく分かる。デリカシーってものが君には無いのかな!? と思いっきり心の中で叫んでしまった。
でもどうしてだろう。全然嫌な気持ちにはならなくて、むしろ嬉しく思えてしまった。
※
木曜日。記憶がリセットされるまでの折り返し地点。
今日のわたしも君と一緒にお昼を食べていた。そうするのがなんか当たり前のようになっていて、君から菓子パンを受け取るのを朝から楽しみにしていた。
「ねぇ、どうしてわたしを構ってくれるの?」
ずっと気になっていたことを訊ねてみる。すると君はパンを食べる手を止めてわたしを見た。
「俺がそうしたいからしているだけ。迷惑だったか?」
「ううん、迷惑じゃないよ。でも──」
──わたしは記憶が残らない。
あと少ししたら君とご飯を食べた思い出はわたしの記憶の中から消えてしまう。
口を噤んだわたしを見て、君はその事を察したのかちょっと困ったような笑顔を浮かべた。
「一人で食べるご飯は味気ない。けど、誰かと一緒ならそれだけで美味しくなるんだよ。それに今言ったばかりだろ? 俺がお前と一緒に食べたいだけ」
「そっか。ありがとうね」
君の頬に赤みが差していることにわたしは気づいた。照れているのが可愛いなって思ってしまう。
「……?」
そんなことを思っていると、心がぽかぽかと温かくなってくる。その理由が分からず、わたしは自分の胸に手を置いて首を傾げた。
「どうしたんだ?」
「ううん、何でもないよ。今日のパンも美味しいね」
わたしは誤魔化すように笑い、パンを食べ始める。
この気持ちは一体何なのだろう?
※
金曜日。今日も君と一緒にパンを食べていると、君は唐突に話を切り出した。
「な、明日って何か予定ある?」
質問の意図が理解出来ず、わたしは首を傾げた。
でも、君の次の言葉でその意味を理解することになる。
「もし暇なら何処か遊びに行かないか?」
遊びの誘い──。日記に記されたわたしはこれまで誰かと遊びに行ったような形跡は無い。初めてのお誘いだったからか、それとも別の感情が働いているのか、わたしは身を乗り出すように答えていた。
「行く。遊びに行きたい」
それは紛れもなくわたしの本心。でも、同時に心にチクッと痛みが走る。
それがどうしてなのかは嫌でも分かる。君と遊びに行くのはきっと楽しい。胸が踊るくらい嬉しい。でも、わたしにはその記憶は残らない。日曜日の夜には全部消えてしまう。それが分かっているのに、わたしは即答してしまっていた。
「君と一緒に遊びたいよ」
「なら決定だ。連絡先交換しておこうぜ」
「うん」
お互いスマホを取り出してアドレスの交換をする。そこでわたしは自分のアドレスに家族以外のものがなかったことに気づいた。
そんな寂しい空間に追加された君の名前。それを見るだけで自然と笑顔になってしまう。わたしは大切なものを扱うように、君の名前が追加されたスマホを胸に抱きしめた。
※
土曜日。君と遊びに行く日。
前日にメッセージでやり取りして決めた約束の場所でわたしは君が来るのを待っていた。普段は絶対にしていないようなおめかしをして、自分が持っている中で一番可愛いと思う服を来て、期待と不安に胸を踊らせながら君の姿を探す。
「──ごめん、待ったか?」
それからすぐに君は手を振ってわたしの元へやってくる。君の姿を見た瞬間、わたしはドキドキとする気持ちを抑えられず、ちょっとぎこちない返事をしてしまう。
「ま、待っていないよ。わたしも今来たところだから」
もちろん嘘。本当は今日が楽しみすぎて待ち合わせ時間の一時間も前からここで待っていた。これまでのわたしは、今日ほどドキドキした感情になったことはあるのだろうか? 多分きっと無いだろう。もしあるのなら、日記に記しているはずだから。
「なら良かった。でもそうだな。まずは喫茶店にでも行ってお茶でもしようか」
「え? 別にいいけど、どうして?」
「俺がそういう気分だから。ほら、行こう」
今日はそれなりに気温が高く、立っているだけでもそれなりに暑く体力を奪われる。もしかすると、君はわたしが長時間待っていたことがお見通しだったのかもしれない。優しい心遣いにわたしの胸はまた高鳴ってしまう。
わたしの手を取った君は、ゆっくりと歩き出す。汗で滲んだ手が少し恥ずかしかったけど、君は何も気にしていないようで、離れないようにぎゅっと握ってくれていた。それが本当に、本当に嬉しかった。
それから喫茶店で冷たくて甘いカフェオレを飲んで他愛ない話をした。映画を見て、動物園に行って、ボーリングをして楽しんだ。
君と過ごす時間はとても新鮮で、とても楽しくて、とても……幸せだった。時間が過ぎるのはあっという間で、気づけばもう空が暗くなりかけていた。
「今日は楽しめたか?」
帰りの分かれ道、君はわたしにそう訊ねてきた。だからわたしは満面の笑みで答える。
「うん。とっても楽しかったよ」
こんな時間がいつまでも続いて欲しい──そう思ってしまうくらいに。
でも、現実は甘くない。明日の夜にはわたしの記憶はリセットされてしまう。楽しくて、嬉しくて、かけがえないと思えた記憶は全部無くなってしまう。
ズキンズキンと、胸が痛んだ。
ああ、そうか。わたしは君のことが──好きなんだ。
だからこんなにも胸が痛いんだ。
泣きそうになる。ここで泣いてはいけない。泣いてしまったら、今日までのこの時間を涙で飾ることになってしまう。だからわたしは必死に耐える。
泣いちゃダメだ。君を困らせてしまう。でも、込み上げてくる想いと、嗚咽はどうしても隠しきれない。
「な、明日も会えないか?」
肩を震わせるわたしをそっと抱き、君はそんな提案をしてくる。
会いたい──そう答えたかった。でも、これ以上はわたしも君も苦しめるだけ。今日までが楽しかった分、思い出が消え去ってしまうのは我慢できない。
幾ら日記に記したところで、書いたものを見るのと、実際に経験したことでは天と地ほどの差がある。
だから今日までのことも、日記には最低限のことしか記していない。そうした方が、今後のわたしの為になると思ったから。ここで経験した想いは、消えてしまうわたしの中だけに留めておこうとした。
でもやっぱり辛い。辛いよ……。消えてしまうのなんて耐えられないよ。これ以上日記に記せない君との思い出を増やしたくない。なのにどうしてかな? わたしから出た返事は自らを苦しめるものだった。
「……会い、たい……っ」
「うん。じゃあ明日も今日と同じ場所で会おう」
そう言って君は、泣きじゃくるわたしの頭を優しく撫でてくれた。そしてわたしが泣き止む頃、ふと思い出したかのようにこう言うのだった。
「……そうだ。明日さ、お前がいつも書いている日記を持ってきて欲しいんだ」
※
日曜日。最後の日。わたしの記憶が消えてしまうまであと少し。君は約束通り待ち合わせ場所に来てくれた。
君もわたしの記憶が今日無くなってしまうことを知っている。けれど、そんな雰囲気を出すことなく、君はこの一週間一緒に過ごしてきた時と何も変わらない笑顔でわたしに接してくれた。
……ああ、優しいな。嬉しいな……。
もう自分では抑えきれないくらい君のことを好きになってしまった。
一生無くしたくない大切な思い出。でも、もう持たない。今日までの楽しくて幸せな思い出を、全部忘れてわたしはまた何も残らない日々を過ごすことになる。それが堪らなく悲しい。
日はもうとっくに沈んでいた。あと数時間でわたしの記憶は無くなってしまう。だから最後に、前に聞いたことをもう一度君に訊ねる。
「……ねぇ、どうして君は、こんなにもわたしに構ってくれるの?」
君は最初からそう聞かれるのがわかっていたかのように口を開く。
「好きだからに決まっているだろ? クラスメイトとしてじゃない。一人の女の子として、お前のことが好きなんだ」
ああ……嬉しいな。大好きになった君に、好きって言ってもらえるのが心から嬉しい。
でも──
「わたしの記憶は無くなっちゃうんだよ。君が今くれた言葉も、全部忘れしまう。わたしの中で無かったことになっちゃう」
「そうだな。今日が最後になる。それが分かっているから俺もお前に気持ちを伝えたんだ。お前の気持ちを知りたいから。答えを聞かせて欲しいから。なぁ? 教えてくれよ。お前は俺の事をどう思ってくれているんだ?」
「どうって、そんなの……っ」
そんなふうに言われたら、もう我慢なんて出来るはずがない。最後の最後までこの胸に留めておこうと思っていた想いをわたしは君に告げる。
「好きだよ……っ。これからもずっと君の側にいたいよぉ……っ!!」
抑えきれない想いが涙と一緒に零れる。
「君と、ちゃんと恋人になりたい……っ!!」
でもそれは叶わない願い。
記憶がリセットされたら、この想いも何もかも残らない。
「そうか。それが聞ければ満足だ。俺はお前が好き。お前も俺のことが好き。なら、それだけで十分」
君は言葉通り満足気に笑顔を見せた。でもわたしは納得がいかない。このままだと君が居なくなってしまう。だからわたしは君の腕を掴んで必死に訴えかける。
「わたしは嫌だよ。満足なんてできないよぉ……」
溢れてくる涙を拭うことなく、わたしは自分の想いを君へ伝える。
「君とずっと一緒がいい。記憶を無くしたくない。君との思い出を消したくなんてないよぉ……っ!!」
「ああ、ああ。分かっている。お前の想いは痛いほど分かる。でも、こればっかりはどうしようもない、そうだろ?」
「どうしようもないなんて言わないでよ……っ。本当に嫌なの。消したくない、無くしたくない……君との思い出を忘れたくないの……っ!!」
必死に想いを叫ぶと、君はわたしの肩を掴んだ。そしてこれまでと何も変わらない、わたしの大好きになった笑顔で顔を合わせる。
「なぁ、日記を見せてくれないか?」
「え……?」
思いがけない言葉にわたしは動揺する。どうしてこのタイミングで? でも、それが君の望みならと、わたしは日記を君に手渡した。
ありがとう。と、言って日記を受け取った君はパラパラとページを捲る。
「ははっ。俺とのこと、あまり書いてくれていないんだ」
「……うん。だって、辛かったから」
書いて残しても、文字だけではこの想いは次のわたしには伝えられない。だから、君とのことは必要最低限のことしか書いていなかった。
「今日この後、日記を書くのか? まだ今日のことは何も書いていないみたいだし」
「……ううん、書かないよ。君との思い出は、今のわたしでさようなら。大好きな想いは全部、今のわたしだけが持っているものだから」
「そうか。明日になったら全部終わりか」
「……っ。そう、だよ」
そう答えて、また涙が溢れてくる。
どうしてわたしの記憶は消えてしまうのだろう。こんなにも忘れたくないと願っているのに、どうして神様はこんな意地悪をするのだろう。
「俺さ、今日までお前と一緒に過ごせて本当に良かったと思っている。だから──」
君はおもむろに持っていたバッグの中から長細い何かを取り出した。それがペンだと気づくのにそう時間は掛からなかった。
そして、わたしの許可を取ることなく日記にペンを走らせる。何かを書き終えた君は、そのまま日記を閉じてわたしに返してくれた。何を書いたのか見ようとしたが、ページを捲りかけたわたしの手を君は制止する。
「明日になったら見て欲しい」
「なんで? 明日にはもう全部忘れちゃっているんだよ?」
「それでも、明日だ」
「……分かった」
君の強い瞳にわたしは頷くことしか出来なかった。
明日になればわたしの中の君は消えてしまうというのに、一体何を書き残してくれたのだろう。
「……じゃあ、ありがとうな、今日まで楽しかったよ」
お別れの時間が来てしまった。
このまま引き止めなければ、君はわたしの前から居なくなってしまう。もう二度と君との思い出を思い出せなくなってしまう。
「……うん、ありがとう。わたしもね、すごく楽しかったよ」
でもこれ以上君を困らせる訳にはいかない。
だからわたしは小さく手を振って、君にお別れを告げた。
「──ばいばい、大好きな君」
※
──朝日が眩しい。
太陽の光で目を覚ましたわたしは、自分の枕元に置いてあった日記を手に取って首を傾げた。
これは一体何なのだろう? そもそもわたし、いつ寝たんだっけ。何も思い出すことが出来ない。思い出そうとしても頭が痛くなるだけだった。それになんだろう……心にぽっかりと穴が空いたような感覚がする。
もう一度日記に目を落とす。よく見ると、その表紙にはこんなことが書かれていた。
初めまして。今のわたし。
これは過去のわたしが記した記憶の日記です。詳しくはページを一つ捲ってみてね。
意味が分からなかったが、とりあえずページを捲ってみることにした。そこにはわたしの記憶が一週間しか残らないこと。月曜日の朝に全部リセットされてしまっているから、読み返して大事なことは覚えておいてほしいと記されていた。
……そうなんだ。
自分のことなのに、結構あっさりとした感想。
とりあえず学校に行かないといけないみたいだから支度をしないと。
それから簡単に支度を済ませて学校に向かう。
記憶が残らないってのは本当に不便で仕方ない。スマホのマップを頼りに何とか学校についたわたしは、そのまま教室に向かう気にはなれず、何気なく屋上へと向かった。そこで日記を読み返してみようと思ったからだ。
どうやら過去のわたしも、月曜日は屋上で日記を見ることが日課になっていたらしいし悪くはない。
屋上に着いたわたしは、日当たりのいい場所に腰を下ろして日記を広げる。何か面白いことでも書いてあるのかなと思ったけれど、業務連絡的なことしか書いてなくてあまり面白みがない。
読んでいれば今朝感じた、心にぽっかりと穴が空いたような感覚の正体が分かるかなって思っていたけど、杞憂で終わりそうだった。
教室に行こうかな。そう思って立ち上がると、タイミング悪く大きな風が吹いて、なびくスカートを抑えるために咄嗟に日記から手を離してしまう。
日記は地面に落ちて風でパラパラとページを捲る。そして風が止む頃、ひとつのページを広げた。
「……?」
そのページは他のページとは違っていた。わたしの字ではない、誰か違う人が残したような文章が記されていた。
「……っ」
何か予感めいたものを感じ、わたしは急いで日記を拾い上げてその文章に目を通す。そこにはわたしとは違うちょっと雑な字で、でも温かい心が込められた言葉が紡がれていた。
────俺はお前を忘れない────。
────俺はお前が大好きだ────。
「……っっ!!」
それを見た瞬間、わたしの中で眠りについていた記憶が目を覚ます。記憶を無くす前のたくさんの思い出が、日記を読み返さなくても鮮明に蘇ってくる。
楽しかったことも。
悲しかったことも。
笑いあったことも。
嬉しかったことも。
そして何より、わたしが君に恋をしていたことを──。
日記を抱きしめてわたしは駆け出した。何度も転びそうになったけれど、足を動かすことをやめない。
これを書いたのが誰なのか、それはまだ思い出すことができない。でも思い出だけは戻ってきた。だから分かる。これだけは分かる。この人はここにいる。そんな確信がわたしの中にある。
廊下を走る。走り続ける。途中で誰かがわたしのことを呼んだような気がしたけど、無視してわたしは足を動かす。どうせ先生が、走るな! って怒っただけだ。そんなの気にしている暇は無い。
そして懸命に足を動かし続けて、ようやく一つの教室に辿り着く。日記に記されていたわたしは、いつもここで語り合っていた。だから絶対に、君はここにいる。
「っっ!!」
息を切らして教室に入ると、大勢の目がわたしを捉えた。訝しげな目、好奇の視線。でもそんなの気にならない。今のわたしは──君のことしか考えられない。
教室を見渡しても誰が君なのか分からない。なら、見つける方法は一つしかない。
「わたしも──!!」
大きく息を吸い込んで叫ぶ。
君に伝えたいわたしの想いを──。
日記に残された君の想いに応えるために──。
「わたしも君のことが大好きだよっ!!」
そんなわたしの発言に、騒がしかった教室が一瞬で静まり返った。人生初の告白を、こんな人前で、大っぴらにしたのが恥ずかしくて顔を上げられない。
けど、このままじゃいられない。意を決して顔を上げると、大勢の目がわたしに集まっていた。でもその中に君と思われる人物は見当たらない。
誰もが、何を言っているんだ? 何しているの? みたいな反応。
……もしかして、わたし間違えた……?
そう思ってしまった途端、恥ずかしさが膨れ上がって死にたくなる。あまりにも情けない失態。
わたしは教室から逃げ出そうと、勢いよく振り向いた。でもその瞬間、ちょうどわたしの後ろに立っていた人に思いっきりぶつかってしまう。
「あ、ごめ、ごめんなさ──きゃっ!?」
勢いよくぶつかってしまったものだから、体勢を崩していたわたしはそのまま真後ろに倒れる。バランスが上手く取れない。これはもうどうしようもない。
告白にも失敗した。無様に転んで、そして笑いものにされる──そんな未来。わたしはこれから来るであろう痛みよりも、そんな悲しい現実が嫌でキュッと目を瞑った。
「……?」
でも、いつまで経っても衝撃が来ない。誰かに支えられているのだと気づく。わたしは恐る恐る目を開く。そこには困ったように笑う男子の姿があった。
「あっ、あっ、あの、すいません……っ!!」
わたしは咄嗟に離れようとした。でも逆に、その男子は突き飛ばそうとしたわたしの手を引き寄せて、そのままわたしの体を優しく抱きしめた。
「……え?」
呆気に取られるわたし。そんなわたしの耳元で、男子は恥ずかしげに囁く。
「……ばーか。本人、真後ろにいるんだけど」
「え?」
理解が追いつかない。完全に思考が停止している。
「呼んだのに無視して走っていくからさ、何だと思って追いかけたらいきなり俺のいない教室で告白始めるし」
「ええ、ちょっと、え?」
でも、分かる。この声も、この温もりも、全部君のものだってことが分かる。
安心して、心地よくて、温かくて、大好きだって思える。記憶が無くなっていても、この恋だけはわたしの中に残り続けていてくれた。
「……あのさ、もう聞いちゃったけど、ちゃんと聞かせて欲しい。お前の想いを。……ダメか?」
「ダメじゃない……ダメじゃ、ないよ」
途端に目頭が熱くなる。こうしてまた君と会えたことが嬉しくて涙が溢れてくる。でも今は伝えたい。もう一度君に、わたしの想いをちゃんと伝えたい。
「わたしも、君のことが大好きだ、だよ……っ」
涙声になりながらもわたしは君に伝える。
それと同時に君の抱擁がより強く、でも優しいものに変わる。
「ありがとう。俺もお前のことが大好きだ」
「うん……っ! うんっ!」
そうしてわたし達は、紅くなっているお互いの顔を見合わせる。そしてそのまま惹き合うようにキスを交わした。
初めてしたキスの味は、記憶が無くなっても、日記に記さなくても、わたしの中に永遠に残り続けてくれる──そう思えるほど幸せなキスだった。
「……わたし、君とのたくさんの思い出を、これからずっと記していきたい」
「ああ。日記が何冊もあっても足りないくらいの思い出を作っていこう」
「うんっ!」
そうしてわたし達は笑い合う。
これは、ありきたりな恋の物語。
未来が約束された、記憶が一週間しか残らない少女の幸せな物語──。
End