いくつもの夜をくぐりぬけて・・・・・母は愚かだった 父は鬼だった (深町正の自叙伝特別編)
1995年1月17日 正月気分がまだ抜けきれていない時、それは阪神間を襲った。実家を離れて近くのマンションの5階、夫婦二人で生活し始めて5ヶ月目の中ごろ阪神間を激しい揺れが襲った。後にそれは阪神・淡路大震災と呼ばれる。直接的な被害はなかった。父がしばらくタンスの下敷きになっていたようではあるが。今は震災の話は都合上割愛する。その5日後に妻の妊娠がわかるも診察した婦人科の機材が古く胎児の心拍の確認に3週間かかった。3月切迫流産の疑いで妻が緊急入院することになり、僕は一人暮らしになだれ込んだ。4月、地下鉄サリン事件。5月オオム真理教強制捜査。この2つは妻が入院していた川西市立川西市民病院の待合室のテレビで知った。5月の末、妻がようやく帰宅してほっとしたその翌日、僕は、母からの父の生死に関わる事後報告の電話を聞いた。
家族を顧みず女を作ってその女との密会中に脳出血で倒れ、父は一人タクシーに乗せられ帰路につかされたが、タクシー運転手が異常に気付き病院に連れていかれ、緊急手術。母と妹と九州に住む父方の親戚数人は立ちあい、息子である僕はその3日後知らされた。僕は蚊帳の外にされたのだ。しかも「医師が、集中治療室には車椅子では入れないから行っても無駄だと言っている」と母は僕が見舞うことを拒んだ。僕はまず「なんですぐ言うてくれへんかってん!?」とブチ切れ、母の言葉を無視し、とりあえず父の入院した病院に駆け付けた。病院の対応は母の言うのとはまったく異なり、 患者の息子であると申告するだけで集中治療室に入れてくれて経過を説明してくれた。命の危険が差し迫った状況だったらしい。器具で頭部を固定され様々な機械に繋げられた父がそこに横たわっていた。説明ではまだ意識は混濁しているとのことだが、僕の声に指が反応していたので、とりあえず安心した。なぜ近くにいる息子である僕に知らせず遠く九州の親戚に先に連絡し呼寄せたのか?僕は母に問いただした。僕の妻が妊娠中でしかも切迫早産しかかっていて3か月ほど入院していたことを挙げて「あんたらに負担かけたらあかんって九州の親戚がいうたから」ということだった。僕には言い訳にしか聞こえなかった。まずは家族や近しい人と連絡をとるのが妥当な行動だと思う。切羽詰まったときに本性を表すのが人だと思う。その時の母がまさにそれだ。理由はいろいろあるが、母はとにかく自らが判断することをやめたのだ。そして九州の親戚に責任転換したのだ。このとき、もし父が死んでいたら、母は僕にどう説明したのだろうか?大いに疑問だ。梅雨の始めのころだった。
父は数日で命の危機は脱した。母の献身的?なリハビリもあり、片麻痺や言語障害は残ったが日常動作にはめどがたってきていたやさき、僕は母から呼び出された。子供が生まれて3週間たった頃だった。虐待傾向があった母に一人呼び出された僕はガイドヘルパーとあらかじめ打ち合わせをしたうえで実家に行った。奥には父がベッドで寝ていた。狭い家だ。母が人払いを願ったからガイドヘルパーには応接間で待機してもらい、母と僕は台所の隅で対峙した。母がまず口にしたのはこれから話す事を嫁に云うなということだった。しつこく言ってきたので、それは内容如何で僕が決めることだと伝えた。母は渋々話し始めた。母によると2、3日前、午前、父が泣きながら母に土下座をして、会社の金を横領していて立場を利用してごまかし続けてきたということと、障害を持ったことでごまかしきれなくなったこと、今日がその決済日で金が落ちなければ捕まることを白状して助けを懇願してきたとのことだった。これもまた僕には事後報告である。その日のうちに家中の金、僕の妹が働いて蓄財していた金をすべてかき集めたが足りず、九州の親戚頼んだが断られ、母の実家に泣きついた。また僕は蚊帳の外だった。表向きは母の義姉や義理の姪の顔色もあり借りにくかったらしいが、母の実家の兄と甥が二人のパートナーの知らない金をわからないように貸してくれたらしい。父が借用書を書くことを申し出たが断られたというこうだった。それから父が暴力を振るうようになって呼ぶときも怒鳴るから怖いということだった。僕はまず横領の額を聞いて唖然とした、6000万程だった。次に使途を聞いた。母によると父はすべて株式投資に使ったといっているらしい。母は少しオーバーに言う癖があり、それまでは割り引いて聞いていたが、数字は正確である。使途もいっかいのサラリーマンが投資できる額をはるかに超えていて、ほとんど使途不明金だ。「なんで警察に突き出さないのか?逮捕してもらって離婚届叩き付ければわかれるの簡単でええやん。このままやったら本人反省せえへんで!」僕は母にそう吐いた。母は「結婚前の娘(僕の妹)を犯罪者の娘にしたくないから」と答えた。そうだった、母が大切なのは世間体だった。僕はそう考えると父が倒れてからの母の言動や行動に得心がいった。もうすでに母は、父のことはどうでもよくて、恐れているのは自分の自尊心が傷つくことだと、僕はその時理解して、眩暈するような感覚に襲われた。救いようがないというかとにかく筆舌に絶する疲労を感じた。嫁には言うなという母の言葉を遮って父に聞こえるように「それを判断するのは僕や!家族に影響が及びそうなことを家族に話さへん選択肢は僕にはあり得んなあ!なんやったらこのまま警察行ってもええしなぁ。ほな、帰るわ」乾いた口調で言って、僕は待機してもらっていたガイドヘルパーとさっさと実家を後にした。帰ってすぐ妻に話したことは言うまでもない。後日父からも呼び出された。金の使途に関しては頑なだった。暴力に関しては一度だけだったと主張する。怒鳴ったどうかと尋ねると母と娘による無言や無視等の今でいうネグレクトがありたまりかねて語気が強くなったという。母や妹の性格や日常の行動から父のいうことにもあまり嘘はないと思った、脳性麻痺という先天的な障害者である僕にはわからないが、父のように突然、身体が不自由になったら精神的に不安定になり、一時的に周囲に粗暴な振る舞いをするのはよくある。母と娘にそういうことにまで考えを至らせなかったのは父の自業自得だと思い、僕は心の中で失笑した。父の話は続いた。「自分の稼ぎで金が残って無いのはおかしい。自分の使った金額くらいすぐ出せるようにはずや。おかあさん、だいぶ宝飾品買ってたみたいやけど、お前知らんか?」と。中小企業のサラリーマンで。小遣い月額10万円、テーラーメイドの背広にオーダーメイドのワイシャツ、数十万の腕時計やライター、一流ブランドの鞄やハンカチ靴下で、接待と称して毎夜、新地の高級クラブをはしごして豪遊。休みの日も接待と称して、有名ブランドのウエアーや道具に身を包みゴルフ三昧、予定がないときは打ちっ放し場か近くのカラオケ喫茶店かパチンコ店に入り浸っていた人が言えるか、と思いながら、人間ってこうも傲慢になれるんだと、感心した。父の話はまだ続いた。
「借りた金は替えさんでええ金や。借用書かかんでええ言われたしなあ、もともとお母さんが実家を守るために相続権放棄した金やからなーーー」僕は聞くに耐えなくなり話の腰を折った。「わざわざ自分の格下げんでも、もう充分下がってるからな。じゃあまた来る」僕はそういい。帰った。それから孫の顔は見せに行っても僕から会うことはなかった。どっちもどっちだと思った。
僕は知らなかったのだが、この数週間前に川西市社会福祉協議会が行っていた【なんでも相談】に母が相談に行ったようだ。たまたまかどうかは疑問だが、その日、母の友人が相談員だったらしくその友人との会話のなかで離婚を決め、家裁にもその友人に付き添ってもらって、そのころには離婚調停の準備を着々と進めていたらしい。市社協の相談員がいくら友人でも、相談者一方の話だけ聞いた相談内容で、家族への連絡もせず個人的に動くのはすごく問題だと思う。
9月18日、破水する妻と市民病院に向かうも、まだと言われて、妻はそのまま入院、僕は自宅に帰った。 翌日、午前から妻に付き添った。 9月19日19時19分、僕は親になった。へその緒を首に巻きつかせ産声を上げず、医師や看護師さんたちの必死の救命処置のおかげでやっと弱々しく泣いたらしい。しばらくして分娩室の前の廊下で待っていた僕の前に看護師さんがその小さくて弱々しい命を連れて来てくれた。只々ありがとうと責任感で胸がいっぱいになって泣こうとしたが、隣りでいてくれていた介助者に先に泣かれ、泣くタイミングを逸した。後で先生の方からお話があるので待っておくように言い、その看護師さんは足早に新生児室に向かって行った。しばらくして医師から、仮死状態だったので努力はしたが脳にダメージが残る可能性があることを告げられた。脳性麻痺である僕はそれ自体はなんとも思わなかったが、妻にどう伝えるか困ってしまった。看護師さんの様子や医師の口調から、普通は大変なことなんだろうなという空気は見て取れた。
そのあとすぐ妻に面会し医師に言われたことを話しすと、「ええやん!命はあるんやから」さすがに疲れてはいたが、あっけらかんとしていた。なにか救われたような気がし、ほっとした。それから妻の退院まで2日、保育器に入った新しい家族の退院は半月ほどかかった。待ち遠しくもバタバタと過ごした。妻は毎日搾乳し凍らせたものを持ち足しげく子供の待つ市民病院にかよった。あっという間に日々は過ぎ、二人暮らしも終わり、三人の生活が始まった。子供の名は、自由の由と羽で由羽だ。僕が考えた。
出産祝いの来訪者がしばらく続いた。母も来た。妹も来た。妹には、父が倒れた時や会社の金を横領していたことがわかった時こんな近いのになぜ真っ先に言ってくれなかったのかと、苦言を言い、今後も同じ対応をとるようならもう知らんと、警告のつもりで言った。11月に僕は個展を予定していたが、その2週間前に水疱瘡にかかった。38度以上の熱が5日間、口内まで水疱ができ痛くて飲食ができない日々が続いた。なんとか治ったもののボロボロの状態で個展をした。個展を終え、ホッとしていた12月のある日、突然母が訪ねて来て、父との別居のため明日引っ越すということ、連絡先を持ってきたこと、離婚調停を別居と同時に始めることやそこに至る経緯等を説明され、理解してみかたについてほしいと言ってきた。父が死にそうなときも会社の金の使い込みがわかったときも今回も、なぜ、親戚や友達には相談して、息子である僕をいつも蚊帳の外にするのか、母に強く問いただした。前者二つの答えは以前と変わらなかった。最後の一つに関して母はこう言い放った、あんたが知らんと言ったと娘に聞いたからと。「僕は ‘知らんでぇ’ と言うて警告はしたけど ‘知らん!’ とは言うてない」と僕は言ったが、母は聞く耳を持たなかった。それに構わず話を続けた。「僕はどっちにもつかへん。長男として中立の立場をとりたい、夫婦というもんはどっちかが一方的に100パーセント悪いっていうことはない。離婚するのは賛成やけど、お父さん昔からあんなんやったわけやない。僕の小さい頃はまじめで子煩悩な人やった。なんでああなったか?そこを考えなあかん。たとえば、95パーセントお父さんが悪いとしても、残り5パーセントは家族であるお母さんや僕ら兄妹も悪いとこあったんちゃうか?」母は僕が自分の側につくと確信していたらしいがそれは母の都合、傲慢である。呆然とする母はつぶやくように「私の何がどう悪いのかわからへん。教えて」という。そんな母を見ていると情けなさで涙がこみあげてきた僕は、声を荒げた。「お母さんはいつもそうや!なんでやねん!頼むからちょっとは自分で考えてえやあ!」と。けれど母には伝わらなかった。自分の思い通りにいかないとわかった母は、自分の前に置いた新しい連絡先の入った封筒を鞄に押し込んで帰っていった。その一部始終を生まれて間もない子供を抱いて僕の横で黙ってみていた妻は、静かに僕の涙をぬぐってくれた。子供も不安げな表情をしていた。これが母との決別だった。母と妹は音信不通になった。それは僕だけではなかった。母が仲良くさせてもらって毎日一緒に買い物をしていたお向かいさんや、僕の同級生のお母さん方とも、音信を閉ざした。おかげでその方々に会うたび「あんたのお母さん冷たいなぁ」という苦言を言われ、その都度あやまるしかなかった。なぜ母は僕との親子関係のみならず友人関係をほとんど断ち切ったのか考えてみた。それは僕にとって非常に不愉快な推測だ。母にとって結果的に、結婚したこと自体汚点で、消したかったのではないだろうか。障害者で息子である僕の存在を含めてーーー。母の実家の差別的な考え方にまだとらわれている母なら、自分のプライドや精神的な自己防衛のため、そう考えるだろう。とにかく、結婚から離婚に至るまでをなかったことにしたかったのだと思う。そう考えれば母の行動にも合点がいく。僕の推測はほぼ正確に母の精神を当てているだろう。まったく不愉快だ。
僕のあずかり知らないところで、離婚調停は始まり、泥沼化していたようだ。離婚することは合意していたものの家やその土地の所有権や分配等金をめぐり大分汚く争ったようだ。母が出ていった後、離婚調停中にもかかわらず、父は数回愛人を招き入れていたようだ。わが父ながらこのふてぶてしさにはあきれた。はっきり言って、その頃の僕は、両親がどうなろうと、どうでもよくなっていた。そんなことより、紙おむつや粉ミルクの価格の安いものを、必死に買い求めるのに、日々の大半追われていた。他にも、妻の実家が半壊し義母の住居問題、や僕の健康や子供の保育所問題といろいろあったが、ここでは割愛する。
1995年は僕にとって、公私ともにいろんなことがありすぎて、目まぐるしく過ぎ去っていった年だった。僕の人生において、おそらく一つのターニングポイントになるだろう。
何カ月たったのか何年たったのか、もう記憶が曖昧になっているが、父に呼び出された折、離婚が成立した事と、家を明け渡し小さな集合住宅に移り住むと告げられた。そのあと続いて、顔を曇らせた。戸籍謄本片手に父は話し始めた。要約すると、
本当に離婚したかどうか確かめるため戸籍謄本をとって見ると娘(僕の妹)の籍が知らない間に婚姻し別の籍に挨拶もなく移っている、とのことだった。当然の報いだと思った。
それから直ぐ父は引っ越し、実家は売りに出された。震災から2 3年たっていた。この間も様々なことがあったが、今は割愛する。万が一の時のために母と妹の連絡先を調べた。父の戸籍謄本で妹の名字や転出場所はわかる。後は電話帳ですぐわかった。
妻が肺炎で入院したり転職したり、僕は川西市で障害者運動したり、物理的に校区の学校は車椅子で行けないから車椅子で行ける学校への子供の通学を希望したり、ほかにも目まぐるしく状況は変化して、時は過ぎ去っていった。ここも今は割愛する。
2002年の正月、父にいつものように孫の顔を見せに行った。部屋に勧められたが、しんどいからと僕は車で待った。いつものことだったが、この日は先に父が出て来た。「さっき延子さんにも言ったんやけど、来週空けといてくれへんか?」 「なんかあるの?」僕は父に疑わしそうな目を向けた。父は困った表情でこう言った。「由羽君の入学祝にランドセル買わせてくれへんか」僕は、後から子供とすぐ出てきた妻に目配せした。妻は静かにうなづいた。「それじゃあ甘えるわ」 父と翌週待ち合わせる約束をして別れた。翌週市の中心地のデパートの特設ランドセル売り場で父と会い、あれこれとランドセルを見ていった。父がいつになく穏やかな表情だった。それが妙に頭から離れなかった。
1月25日昼前、携帯がなった。妻から「家の電話に病院から、父が意識不明で公園のベンチで倒れていたところ偶然通り掛かった人に発見され救急車で運ばれて来たので至急きてほしい」とのことだった。僕が日々の買い物をしているスーパーからその病院は歩いて10分ほどだった。とるものもとりあえず僕は病院に向かった。受付で「先ほど救急搬送されて来た深町長の息子です。父はどこですか?」と聞いて、教えられた病室に向かった。ICUではないことが気がかりではあった。個室の病室父は、バイタルモニターをつけられ酸素吸入させて、寝かされていた。数値的には正常値だが、それも酸素吸入したうえで数値だ。妻もきたところで主治医に呼ばれた。医師の机上の頭部CT写真を見て。ダメなことは分かったが、一応病状の説明を受けた。「発見が遅かったようです。午前8時ごろたまたま犬の散歩で通りがかった女性二人連れが猪名川河川敷の公園のベンチでぐったりしているお父さんを発見され119番通報されたことです。残念です、うちに来た時はもうほどこしようがなくてーーー。意識の回復の見込みはありません。今日明日が山かも知れません」という内容だった。わけあって僕の子供の頃家族のように一緒に暮らしてた父の姪と、大阪に住む父の妹に、とりあえず連絡したらすぐ来てくれた。二人共父が別居してからときどき様子を見に来てもらっていたようだ。父の姪と言っても僕とは年は少し離れている。当時確かどこか病院で看護師長をしていた。二十歳代の女の子を連れて来ていた。娘さんだという。僕が小学部高学年のころ幼児でそれ以来会ってなかったから、年月のたったことを思い知らされた。父の妹が九州の親戚にも知らせたらしい。明日2~3人来るという。
翌日、父の兄と義兄2、3人がやって来た。全員でもう一度主治医の話を聞いた。同じことだった。しかし、最後に付け加えられたことが、僕にとてつもなく重くのしかかってきた。まだ法的に、脳死が人の死だと、認められてなかったからだろう。「配偶者か直系血族の意思が優先される話なんですが、今は不安定でできませんが、自発呼吸が落ち着いても、酸素吸入を継続するのかということを考えといてもらえますか?タイミングを逃がしたらやめれなくなるので」それは父の法的な死をどうするか?という医師からの問いだった。全員。僕が答えるのを待っていた。数秒、重苦しい空気に場が覆われた。僕は否応なく重い決断を迫られたのだ。親というより、他者の命の終わらせ方を決めるのが、この場での自分の逃れられない役割だと思い「はい」と答えた。その僕の答えるのを聞いて全員動き出した。僕は父の姪に、調べておいた母と妹の電話番号を渡して、状況を知らせる連絡してもらうよう頼んだ。来る来ないは自由だが、母と妹に知らせないという選択肢は僕の中にはなかった。母は来なかったが、妹は夫婦で一度だけ来たようだ。それを聞いて、僕は父の酸素吸入をやめる決断をした。父の兄たちは、父宅に寝泊りし預金通帳や有価証券、保険証書等、印鑑等を探し、とにかく現金を作るのに奔走してくれていた。それと父の手帳から、父には二人女がいて、その片方と金銭トラブルがあり、さいさん父が返済を迫っていたものの、ヤクザがらみのたちの悪い女らしいということと、父もその女のお店の若い女の子に手を出してたというぐちゃぐちゃな関係だったことがわかり、借金の返済はいいからもう一切かかわるなという交渉もしてくれたようだ。ありがたかった。当座の父にかかる費用のめどが立った。1月30日、父の酸素吸入を止めてもらった。自発呼吸は、まだ当分大丈夫だと全員確信するぐらいの、力強さがあった。それを確認して父の兄たちは一旦九州へ戻っていった。僕は毎日朝病室に入ると父に「おはよう!」とまず声をかけて、天気のことニュース、子供の様子等話した。今まで、これほど、父と話す機会があっただろうか。2月3日の朝もそんな話しかけで始まった。父の姪とその娘は毎日僕より早く来ていた。二人共明日から仕事復帰するから来れなくなるとすまなそうに言うが、僕の立場からすれば感謝しかなかった。僕は二人に謝意を伝えた。昼近く、ずうっと車椅子に座っているせいか、お尻と腰とひざに痛みが出て、いったん僕が帰ろうとしていた時、父の妹が息子とやって来た。しばらく歓談し事情を話して帰ろうとしていたら「今日は節分やからこれ作ってきた、持って帰り」と、手作りの巻き寿司を数本手渡された。礼を言い、「ちょっと帰ってくるわなぁ、またすぐくる」父にそう言い病室を後にして家路についた。マンションの手前20メートルのあたりまで帰ってきたとき携帯電話が鳴った。車椅子を道端に止め介助者に応対してもらう。電話はマンションの妻からだった。父危篤と知らせが来たという、内容だった。気持ちは焦るものの、身体が悲鳴を挙げていた。父や病室にいた父の妹や姪、姪の娘には申し訳なかったが、マンションの居室に一度帰った。一旦玄関の床に車椅子から降りて、腰と膝を伸ばし臀部のメンテナンスをしてもらい再び車椅子に乗り、最後に水分補給する。その間約10分。僕は再び病院に向かった。道中の事はなぜか記憶にない。記憶にあるのは病室のドアを開けた直後からだ。父の妹や姪は僕に父の死を告げた。それと前後して主治医が来て父の死亡を確認したことと死因の説明をしていった。
それまでバイタルを測っていた機器も電源を切られ静かだった。父は穏やかにそこに寝ていた。父の顔を見て「お疲れ様でした!ありがとうございました!」と頭を下げた僕の目から、自分でもなぜかわからないが、涙が溢れ出てきた。しばらくすると看護師が来て退室を促された。退室した全員、雑多な問題に追われた。10分たっただろうか。看護師に呼ばれ再び病室に招き入れられた。窓から冬の陽光が差し込む明るい病室の中で、数々の管やケーブルから解放された父の遺体がそこに横たわっていた。
様々な手続きを済ませその日は帰宅した。その夜、家族3人叔母の手作りの巻き寿司をかぶっていると、上の階から「鬼は外! 」という子供の声が聞こえてきた。世間が「鬼は外! 」という日に父は逝った。やはり父は鬼だったのだと僕は確信した。