過去を貯める男
男はものを捨てられなかった。小学生の頃に使っていた国語辞典、中学生の頃に背負っていた通学カバン、高校生の頃に聴いていたCD、大学生の頃に買った手帳。部屋の一角を占める棚には全国各地を集めて回ったご当地の土産品がところ狭しと並べられている。それらの並び順は北から南の順ではなく、彼がその都道府県を訪れた順番で並べられている。その他にも部屋を見渡せば、小説や漫画がぎっしり詰まった本棚、パンパンに膨れ上がったフォルダが大量に収まった箱など、とかく物で溢れていた。たとえ傍目からは要らないと思われる些細なものでもそこに自らの思い出が取り憑いている限り彼は捨てることができなかった。
時間があるときは、思い出の品々を見返し、手に取り、脳が当時の記憶を再現するのに任せた。漫画のページをめくればインクの匂いが立ち、CDを聴けば耳が音を感じる。五感が彼の記憶を呼び覚ます。その時自分はどんな友達がいたのか、ペットはなにを飼っていたのか、誰に恋をしていたのか。そして何を経験して来たのか。桜が咲き、空気が澄み渡った晴れ晴れしい卒業式の日のこと。人生で初めて海外に行った高校の修学旅行のこと。不安げな両親に見送られ、一人暮らしを始めた日のこと。思い出がまた次の思い出を呼び起こし、次々に連鎖していく。彼はその場でじっと、固まっている。
しかし、いくらモノを残していても記憶は勝手に消えていった。思い出の連鎖が、それが昔の出来事であればあるほど短くなっていた。だが彼には何を忘失してしまったのか知るすべはない。それが無性に恐ろしかった。自分が不確かな存在になる気がした。
彼の過去への執着はまるで、転んだ拍子に地面にぶつかり粉々に砕けて散らばってしまった歯のかけらを、一心不乱にかき集めるのに似ていた。自らの一部を失うことへのどうしようもない衝動的な恐怖。ほとんど本能に近かった。けれども拾った歯は二度とくっつかない。
男は悟った。欠けた歯にはめ込むのは元の歯を模した義歯だと。それは思い出も同じだと。人は感情までは記憶できない。いくら五感の情報と記憶から感情を再現してみても、それは過去の感情ではなく、どうしたって今現在の感情でしかない。あの時の幸福感も喜びも現在に持ってくることはできない。
それから男は思い出に浸れなくなった。だがなにも支障はなかった。失うことを恐れていた過去を失ったにも関わらず、彼は彼のままだった。過去は消えることなく彼自身を形成していたのだ。
男はモノを捨てた。この先の未来で経験する感情を求めて。