9話 探索!
「こちらでございます」
ローザがダイニングの扉を開けると、美味しそうな香りが鼻孔をくすぐった。
こんがり焼けたパン、みずみずしい野菜で彩られたサラダ、野菜や肉がじっくり煮込まれたスープ。見ているだけで、腹がぐうっと鳴った。はやく食わせろーと、おなかが訴えかけてきている。
そういえば、昨日、サンドイッチを口にしただけで、あとはほとんど何も食べていないのだ。
おなかがすくのも当然のことであった。
たとえば、この「何人がけですか?」と聞きたくなるくらい長い長いテーブル全部を覆いつくすくらいの料理が並んでいても、いまならしっかり食べきる自信がある。
「よ、イーディス。おはようさん」
食べ物に気を取られているせいで気づくのに遅れたが、ウォルターがすでにテーブルに着いていた。今日も軍服をまとっており、手には新聞を広げている。
「お、おはようございます」
イーディスは慌てて頭を下げる。
「かしこまらなくていいっての。いいから、さっさと席についたらどうだ? 腹、減ってんだろ」
「はい」
イーディスは恥ずかしさに頬を赤らめながら椅子に座ると、さっそくパンから口に運んだ。
「――ッん、おいしい!!」
どれも身体がよじれるくらい美味い!
柔らかなパンも新鮮で虫喰いあとのない野菜も、肉が浮かんだスープもすべてがすべて贅沢品だ。
美味しいものは城でも食べた気もするが、それはそれ。これはこれ。
だいたい、城ではパン一つ食べるのにも、「マナーがなっていない!」という注意の言葉が飛んだ。最後までマナーとやらには慣れず、緊張して食べていたので味なんてしなかった。
まだ、アキレスと一緒にやっと手に入れたパンの欠片を食べていたときの方が美味しく感じたものだ。
ようは、食べるときの気持ちの持ちよう、ということなのだろう。
「あ……」
イーディスは口に運びかけたスプーンを止めた。
ウォルターがいるというのに、食べるのに夢中で会話すらしていない。ちらっと彼の方を見れば、ぴたっと目が合ってしまった。
「ん? どうした?」
「いえ、なんというか……その……ありがとうございます、こんなに良くしていただいて」
「気にするなって。むしろ、喜んでもらえてよかった」
ウォルターはそれだけ言うと、新聞を軽く畳みだした。
「なにか困ったことがあれば、リリーやローザになんでも相談しろよ。もちろん、オレでもいい」
「は、はい!」
「だから、そんな緊張しなくていいって」
彼は苦笑いをしていた。
「イーディスはなにかやってみたいことはあるか?」
「やってみたいこと……?」
いきなり言われても、特に思いつくものではない。
これまで生きることに精一杯で、何がしたいのかと言われても困ってしまう。幸せになりたい、というささやかな気持ちはあるが、具体的なことは一切考えつかなかった。しいていうなら、母や弟のアキレスと過ごしたいが、弟はとっくに死んでしまっているのでどうあがいても叶わない夢。それを除外してしまえば、本当にぽっかり空いた穴をのぞきこんでいるような気持ちになった。
「とりあえず、屋敷を散策してみたらどうだ? これからしばらく暮らすことになるわけだし、知っておいて損はないだろ」
「わかりました」
「安心しろ、オレが案内して――」
「旦那様」
ウォルターが自信満々に言いかけたが、リリーがそれを制した。
「旦那様にはお仕事がありますでしょう。私どもでご案内しますので」
「……はいはい、分かってるって」
リリーがぴしゃりと言い放つと、ウォルターはやや消沈したように肩を落とした。だが、リリーの言う通りなのだろう。彼は立ち上がりながら、隣の椅子に置かれていた軍帽を手に取った。
「イーディス、なにかあったらすぐに来てくれ。騎士団の詰め所は屋敷の裏手にあるからな」
軍帽を被りながら、左手を軽く振った。
「いってらっしゃいませ、旦那様」
リリーを含む使用人たちが綺麗に一礼をしたので、イーディスも急いで立ち上がり礼をした。
「いってらっしゃいませ、えっと……」
旦那様と口にしようとして、いやいやそれは違うだろと脳内で突っ込みを入れる。かといって、これまでみたいにウォルターさんと呼ぶのは辺境伯に気軽すぎる気もして、いまさら様付けで読むのもどうかと思ってしまう。
イーディスが床を見つめたまま次の言葉を悩んでいると、ウォルターのため息が降ってきた。
「だーかーら! そんな堅苦しくしなくていいって!」
ウォルターはイーディスの肩をとんっと叩いた。
「そりゃ、形式上は夫婦ってことになるけどさ、イーディスに旦那様って呼ばれるのはなんつーか……もっと、こう……気軽でいいんだよ、気軽で!」
「……ウォルターさん」
イーディスは肩から大きな手を感じながら口にすれば、ウォルターは「よし!」と短く言った。
「じゃ、イーディス。また夕食でな」
手が離れていく。
イーディスが顔を上げたときには、ウォルターの背中が扉の向こうに消えていくところだった。
「イーディス様、お皿をおさげしても?」
イーディスが閉まった扉を見ていると、給仕の女性が伺いを立ててきた。
「いえ、すぐ食べますので」
あと、残っている物はスープだけ。
さっさとたいらげてしまおう。
※
食事を終えると、リリーとローザが屋敷を案内してくれた。
「これまで、聖女様がお泊りになられた屋敷と比べると手狭に感じるかもしれませんが」
リリーが謙遜していったが、全然そんなことはない。
聖女一行ということで、王都滞在中は城に泊まらせていただいたり、行く先々の主要都市では領主の屋敷に御呼ばれしたこともあったが、いつもいつもイーディスは疲れ果て、屋敷の内覧を楽しむ余裕などなかった。それでも、他と比較しても素晴らしいと思える。
本当に数百年前に建てられたものとは思えないほど立派な造りだ。リフォームやリメイクはしているのだろうけど、清潔で綺麗ながら古さが良い味を出している。
一番、素敵だったのは庭だ。
まるで、どこかの田舎の一風景を移築したようなのだ。
薔薇の庭園もさることながら、ちょろちょろと流れる小川を上っていけばこじんまりとした池が広がっている。その池のほとりには東屋と水車がたたずみ、おちついた趣を醸し出していた。
「あ……」
東屋付近を散策していると、カスミソウが目に入った。
小さくて白い花が風に吹かれて揺れている。
「お気に召しましたか?」
「え? ええ、ただちょっと懐かしくて」
カスミソウの花を上手くつなげて、アキレスに花冠を作ってあげたことを思い出す。
白い髪に白い花は目立たないかと思ったけど、シンプルで可愛らしい仕上がりになったのだった。思えば、いろいろな花でアキレスの髪を飾ってあげてたな……と懐かしく感じる。アキレスは男の子だったけど、自分の髪を飾ることが好きで、よく「おねーちゃん、花冠を作って」とせがんできたのだった。
「よろしければ、お部屋にお飾りしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。弟に花冠を作ったことを思い出していただけなので」
「まあ! それは素敵ですね!」
ローザがぽんっと手を叩いた。
「そうだ! 旦那様に花冠を作ってあげたらどうです? きっとお喜びになりますよ!」
「え、ええ!?」
「リリーさんもそう思いますよね?」
イーディスが困惑するなか、ローザが盛り上がってリリーに許可を求める。リリーは特に考える様子もなく、一言だけ口にした。
「かまいませんよ。いいのではないでしょうか」
てっきり否定されるものだと思っていたのに許可されてしまい、イーディスはますます驚いてしまった。だけど、普通に考えて――衣装はもちろん食事に関しても良くしていただいているのに、自分には何も返せるものがない。
せいぜい、花冠を作ってプレゼントするのが関の山だ。花冠なので枯れてしまえば処分できるし、そこまで長く持つものではないので、一種の消えもの系プレゼントと考えればいいのかもしれなかった。
「でも、この花を勝手にもらってもよいのでしょうか?」
「庭師に尋ねてみましょう」
リリーはそういうと、ローザに侍女頭を呼んでくるように指令を出した。
イーディスが花冠を作ることは決定のようである。
「どの花にしようかな」
イーディスは小さく肩を落としたあと、覚悟を決めて花選びを始めた。
ちょっと怖い顔のウォルターが花冠を被ったら、いったいどんな感じになるのだろう?
願わくば、喜んでくれますように。