7話 深夜の会合
イーディスが眠りに落ちた頃。
ウォルター・ハイランドはあくびを噛み殺しながら、執務室へと向かっていた。
「ったく、いま何時だ?」
ウォルターは執務室に入るなり、迷いなく椅子に足を進ませる。そのまま崩れ落ちるかのように腰を下ろすと、気だるげな眼で時計を見上げた。
「十二時か……長い一日だったぜ」
ウォルターは、机上に置かれた二種類の書類に視線を落とした。
片方は数日前に王都から届けられた報告書、もう一方は部下のスパークリングが独自に調査した報告書だ。どちらも同じ事柄について書かれたものだったが、内容や色合いがかなり異なる。
目を通すのも億劫な時刻だが、明日からの行動に差し支える。ウォルターは書類に手を伸ばし、ぱらぱらとめくり始めた、そのときだった。
「失礼します、旦那様」
「入れ」
扉を叩く音がし、姿を現したのはスパークリングと侍女頭のリリーだった。
両者ともハイランド家に長く仕え、ウォルターが特に信を置いている人物である。
「奥様は無事にお眠りになられました」
「奥様じゃねぇよ」
ウォルターは、リリーの言葉をすかさず否定した。
「上の命令に従って、屋敷に迎え入れただけだ。聖女をむげにはできねぇだろ」
「えー、本当ですかー」
ウォルターが正論で返したのに、スパークリングは白い目を向けてくる。
「聖女様を安全な場所まで送り届けようとしてたのは、誰でしたっけ?」
「『国境さえ越えれば、王国の手も届かなくなる』とおっしゃっていましたね」
リリーも眼鏡のつるをくいっと上げると、スパークリングを援護するように話し出した。
「『この国にいる限り、有事があれば再び聖女が必要となる。だから、俺のところにいるより逃がした方がいい』と断言されていましたよね?」
「『スパークリング、お前の妹が公国の衣装店に嫁いでたな? そこに連れて行けば、あいつも安心して余生を過ごせるだろ』とか言われたんで、急いで妹に手紙を書くはめになったんですけどー」
「悪かったって! 事情が変わったんだよ」
ウォルターは額に右手を当てると、二人から眼をそらした。
「……あいつを幸せにするって約束したんだ。馬鹿王子やエリシアより幸せになって、見返す手伝いをしてやるってな」
「それは、夫として?」
「まさか!」
ウォルターは間髪入れずに否定した。
「俺なんかより、ずっといいやつがいるだろ」
右手を少し動かせば、額の角に手のひらが触れた。その感覚に舌打ちをし、不快さを打ち消すように右手を払った。
「あいつに本当の意味で好きなやつができたら、さっさと離縁して、そいつと一緒になれるように取り計らう。ただ、あいつは幸せになるための方法とか人生の楽しみ方とか、そういうのは不器用だろ。だから、俺が手伝ってやるってだけだ」
「そうですか……」
リリーは疑わしそうな視線を崩さない。
「ま、確かに、その気持ちはわかりますわー」
スパークリングは執務机の上にある報告書を一瞥した。
「あの子、悲惨な暮らしだったみだいですからー」
スパークリングの問いかけに、ウォルターは無言で肯定した。
『ハイランド辺境伯は“払いの聖女”イーディス・シルバーベルと婚姻するように』という王命が下ったのは、いまから一週間前――つまり、イーディスと『迷いの森』のふもとで出会う四日前のこと。
あまりに唐突な王命に、ウォルターは憤慨しそうになった。
なにせ、王家の使いが持参した「イーディスの素行調査書」には「王都の孤児で貧相なやせっぽち。得意技能はなく、聖女であることしか利点がない」としか書かれていなかったのである。魔王を倒し、囚われの令嬢を救い出したというのに、あまりにも特記事項がなさすぎるし、人となりが見えてこない。
聖女の「旅立ちの儀」に、ウォルターの代理で出席したスパークリングの感想の方が、人物像が伝わってくるというもの。
とはいえ、その報告も、
『赤髪の女の子でしたよー。ちょっと不安そうにしてましたけど、しっかり前を向いていたし、宣誓も間違えずに唱えられてたから、まー、旅でどう成長するか期待ってところですねー』
という、簡素なものだった。
仕方なしに、ウォルターはスパークリングに聖女の調査を命じ、聖女を迎え入れる準備をはじめるも、屋敷にこもっての書類仕事に嫌気がさし、「『迷いの森に魔物退治へ行く』」という名目で、休憩がてら足を伸ばした先で――赤髪の少女がふらつきながら歩くのを見た。
「……」
少女の青い目はうつろで、粗末なワンピースはボロボロ。泥まみれで、身体も傷だらけ。
あまりに悲惨な姿に、ウォルターは声をかけた。
『大丈夫か?』
しかし、少女は見向きもしない。
最初は「あー、またこの見た目のせいで無視されたのか」と思ったが、少女の目は焦点があっておらず、本当に聞こえていないのだと分かって引き返す。
赤髪の少女は木の根に足をとられ、転ぶ瞬間だった。
「……あいつだけだったな」
当時のことを思い出していると、ウォルターの口から言葉がこぼれた。
「あいつだけ? なにがですー?」
「オレのこと、魔族だとか怪物とか呼ばなかったんだよ」
いまでこそ、リリーたち屋敷の者たちやスパークリングをはじめとした部下たち、スプリングフィールドの街の人たちも、ウォルターのことを怪物呼ばわりしない。
だが、最初の信頼関係を築くまでは、何度も何度も見た目のせいで阻害されてきた。いまだって、初めて会う人間は大抵――たとえ、見た目のことを知っていたとしても「魔族!?」と驚くものだ。口に出さずとも、目には忌避の色が見え隠れする。自分の額の角のせいだと理解していても、いまだに慣れることができない。
ところが、イーディスは最初からウォルターを人間として扱ってくれた。
「そりゃ、見た目が見た目だからな。怖がってる様子もあったけどよ、あいつは最初からオレを人間として見てくれた」
それに気づいたのは、イーディスが自分の背中で寝入ってからだった。
あまりにも心から安心したような寝息に「見ず知らずの男の背中で寝るなんて」と呆れたとき、この少女はウォルターのことを安心できる存在として見ていることに気づいたのである。
魔族だと欠片でも思っているなら、もう少し緊張するというもの。
初対面なのに、一人の人間として見てくれる――それだけで、ウォルターは泣き出しそうになるくらい嬉しかったのだ。
「んー、でも、ウォルター様。それって、聖女様の能力だと思いますよー」
スパークリングは非情な言葉をかけたが、ウォルターは気にならなかった。
「人間か魔族かを見極める目を持っている、って話だろ。別に、それが理由でもいい。オレは――あいつを幸せにしてやりたいんだ」
あのときに感じた果てしない喜びが、どこかへ消え失せるわけではないのだから。
「で、具体的にどのように幸せにするのです?」
リリーが口を開いた。
「幸せの形はそれぞれだが……ひとまず、三か月後までに、なんとか自信をつけさせたい」
「三か月後って……あー、例の令嬢の晩餐会までってことですかー」
魔王に囚われていたエンバス侯爵家の令嬢――すなわち、エリシアの実姉が隣国に嫁ぐ前、お祝いの晩餐会を開くことになったのだ。
「イーディスは絶対に招待される。そこで、旅の仲間とも否応がなしに再会することになるはずだ。そんとき、あいつが胸を張って参列するだけで……少なくとも、エリシアの奴は面白くないはずだぜ」
ウォルターは、にたりと笑った。
「次の聖女がエリシアってのが馬鹿げてる。なにか裏技でも使って、イーディスの役目を乗っ取ったんじゃねぇの?」
「まー、普通はそう思いますけどー。ウォルター様、それは外では言いふらさないでくださいねー。エリシア様が、本当に聖女かもしれないんですからー」
「分かってるって」
ウォルターはため息をこぼすと、この話は終わりだとばかりに手を振った。
「……では、私はこれで」
リリーは静々と頭を下げると、音を立てずに退室した。スパークリングも後に続こうとしたが、ふと思い出したように口を開いた。
「ところで、聖女様が焼き殺されかけた事件ですけどー。犯人、まったく目星がつかなんですよ。御者と馬の行方も分かりませんー」
「はぁ? そんなわけないだろ?」
イーディスが乗っていた馬車は、迷いの森から少しそれた街道で見つかっている。彼女の証言通り、無残にも焼け焦げてしまっていた。あまりにも焼けてしまっているので、馬車の紋すら分からず、イーディスが生き残っていなければ、誰の馬車なのか調査が難航したはずだ。
「関所があるだろ。片っ端から調べろって話だったじゃねぇか」
「調べましたよー。御者が使った通行所の類が、よくよく調べたら全部偽造だったんですって。だから、身元もなにもかも不明ってことです」
「偽造かよ……どこで本当の御者と入れ替わったか、それとも――最初から、王家がイーディスを殺すつもりで馬車に押し込んだか」
ウォルターはしばし悩んだあと、大きなため息をついた。
「王家に報告するのは少し待て。偽造手形に何かしらの癖がないか調べあげろ」
「癖から作成者を特定するってことですかー、了解しましたー。……ウォルター様はよっぽど聖女様が好きなんですねー」
スパークリングは間延びした声のまま敬礼すると、そそくさと退出した。
「……別に好きってわけじゃないっての」
ウォルターは誰もいなくなった部屋で呟く。
自分のところにお払い箱された娘を哀れに思っているだけだ。そうでなくても、恩義に似た感情を抱いているのだから、気になるのは当然だろう。
「とりあえず、明日からだな」
明日から、イーディスの幸せ探しが始まる。
いったい、イーディスは朝からどんな顔をするのだろう?
彼女の反応を考えるだけで、くたくたになるほど疲れているにもかかわらず、ウォルターの口元には笑みが浮かんでいた。
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