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6話 幸せになりたい



 あれは、何年前のことだったか。



「アキレス・シルバーベルはここか」


 黒服の男たちが訪ねてきたのは、しんしんと雪が降りつづける夜だった。

 暖炉はあってもくべる薪はなく、イーディスはアキレスにありったけの毛布を被せると、二人寄り添いながら震えていた。隙間風がびゅうびゅう吹きつけてきて、あまりの寒さに足の指が取れてしまうかもしれないと懸念し始めた頃、いきなり扉をぶち壊され、黒服の男たちがぞろぞろと侵入してきたのである。


「貴方たちは誰!?」


 イーディスは立ち上がると、最愛の弟を背で隠した。


「異父姉だな。お前は関係ない」

「関係ない? 私はアキレスの保護者です!」


 イーディスが精いっぱい強がったが、黒服の男たちは無表情のまま態度を変えない。黒服たちはイーディスの二倍以上の背があり、見上げると首が折れてしまいそうだった。しかも、そんな男たちが五人も並んでいるものだから、巨大な壁が立ちふさがっているようで、狭い家はさらに窮屈に感じる。


「さっさと弟を渡せ」

「アキレスをどこに連れて行くの!?」

「……わしのもとで高等教育を施す」


 黒服たちの奥から、しわがれた声が聞こえてきた。黒服たちはさっと道を開け、声の主をイーディスの前に通した。しわがれた声の男はシルクハットをかぶり、白い仮面で顔を覆っていた。全身をすっぽり覆うコートは黒一色で装飾も何もないが、一目で高級品だと分かるくらい品の良い仕立てである。


「そして、わしの跡取りになってもらう。わしの血を引いた、唯一の息子よ」


 仮面の男は、イーディスを前にしながら、イーディスには見向きもせず、アキレスだけを睨んでいた。その視線は親が子に向けるものではなく、まるで商品の品定めをしているようで、鳥肌が立つほど不気味だった。


「母さんとアキレスを捨てておいて、いまさら父親面? 冗談じゃない!」


 イーディスが吼えるが、仮面の男は視線ひとつ寄こさなかった。


「下女の子など、認知する価値もない。だが、男子であったなら話は別だ」


 淡々と感情のこもっていないしわがれた声に、イーディスは怒りが抑えられなくなっていた。

 イーディスの命より大事な弟を――仮面の男は、道具かなにかにしか思っていない。跡取りとしての愛情が欠片でもあるなら話は変わってくるが、そのようなものを一切感じなかった。


「アキレスは渡さない」


 イーディスは言い切った。


 昔から、人の感情はぼんやりと感じることができた。このおかげで、母が死んだ後も、くそったれな貧民街で細々と生き延びることができていたのだと思う。

 仮面の男はアキレスを道具にしか思っていない。こんな男たちに渡したら最後、アキレスは幸せになれないのは明白であった。


「……なら、ここで二人して死ね」


 仮面の男は感情をまったく変えず、ひどく暴力的なことを口にした。

 この提案には、イーディスも青ざめる。

 怒って暴力にはしる人はたくさん見てきた。その多くは前触れがあり、どんなに顔を取りつくろっても怒りの感情が見え隠れするものなのに、感情の起伏は平坦のまま言ってきたのである。


 こんな恐ろしい相手に、アキレスを任せるわけにはいかない。

 だけど、どうやって守ればいいのだろう?

 イーディスが必死に頭を働かせている――そんなときだった。


「ぼ、ぼく、いくよ」


 アキレスが毛布から抜け出すと、おっかなびっくり立ち上がった。


「アキレス!」

「ぼくがいけば、おねえちゃんはたすかるんだよね?」

「ああ、命を奪うことはしないと約束しよう」

「だめ!」


 イーディスは仮面の男に背を向け、アキレスの目を見つめる。青い瞳は涙で潤み、不安と葛藤であふれていた。


「行ってはだめ、アキレス。あいつら、アキレスを利用しようとしているだけよ。ついていったら、なにをされるか分かったものじゃない」


 そして、イーディスは弟の耳もとに口を寄せた。


「ここは、おねえちゃんが時間を稼ぐから、窓から逃げなさい。3軒向こうの通りを右に曲がれば、騎士の詰め所があるから、ひとまずそこへ」

「でも……それだと、おねえちゃんが死んじゃうよ」

「大丈夫、私はそう簡単に――」


 死なないから、と口にしようとしたとき、がつんと後頭部に強い衝撃がはしった。なにが起こったのか理解する前に、視界に銀砂が飛び散り、ゆっくり傾いていく。アキレスの怯え切った顔が遠ざかり、冷たい地面に頬がついた。


「お、おねえちゃん!!」

「……手間をかけさせおって。いくぞ」


 後ろから殴られたのだ、と分かったときには、黒服たちは狭い家になだれ込み、アキレスの両腕をつかんでいた。アキレスは必死になって手足をばたつかせるも、枯れ木のように細い腕では大の男に敵うはずもなく、ずるりずるりと部屋を引きずり出されてしまう。


「まって! ぼく、ついていくから! にげないから、おねえちゃんもいっしょにつれていって! むりなら、おねえちゃんをたすけて!」


 しかし、仮面の男も黒服たちも聞き入れない。


「やめて! おねえちゃん! おねえちゃんー!」


 アキレスが大粒の涙を流しながら、悲鳴をあげている。

 だめだ、姉として――大切な弟を助けないと。


「……待って……」


 イーディスは、声を出す。


「……行かないで……!」


 このまま、アキレスを行かせてはいけない。

 アキレスを仮面の男のもとへ行かせたら、数か月後には■んでしまう。イーディスは、郵便配達員から受け取った■■通知書は、今でもありありと思い出すことができた。


「連れて、行かないで……!」


 だから、必死に手を伸ばす。

 痛みで横たわった身体に鞭を打ち、なんとか立ち上がって引き留めようと指先までピンっと伸ばす。


 そして……、











「――ッ、アキレス!」

「うわっと!」


 飛び起きた瞬間、なにか硬いものにぶつかった。

 頭がじんじん痛む。いったい、なにが起きたのだろうか。額を抑えながら薄目を開けると、そこには同じように顔を抑える影があった。


「ウォルターさん?」

「いきなり起き上がるなって!」


 よほど痛かったのか、ウォルターは目元に涙をにじませていた。


「どうして……? アキレスは……」


 ここまで口にしたとき、イーディスは昔の夢を見ていたことに気がついた。


「うなされてるから、心配してたが……まあ、元気そうでよかった」


 ウォルターは額を押さえながら、おおきく息を吐いた。


「心配したんだぜ。三日も寝込んでたからな」


 ウォルターはそれだけ言うと、少し真顔になった。


「……あんた、聖女だったんだな」

「……はい」


 イーディスは目を伏せる。

 ウォルターの感情をうかがう気力もなかった。



 だって、自分はここで終了だ。

 ウォルターはとてもいい人に見えたけど、それは自分の勘違いだった。


 だって、あの恐ろしい噂のハイランド辺境伯だったのだから。


「……」


 腹の奥が冷えていく……。

 視界が黒い靄に覆われるように、暗くなっていく。指先からつま先まで、氷のように冷たい。背中から冷汗が出ている。身体が小刻みに震える。歯がカチカチなる。

 だが、不思議なことに、怖がっているのは身体だけらしく、心は冬の湖面のように静かだった。



 やっぱり、自分が幸せになるなんて――ありえないことだったのだ。


 生きようと思ったことが、馬鹿だったのだ。

 死ねば、楽になれる。きっと、あの世でアキレスは寂しがっている。自分はできるだけ早く、彼のお姉ちゃんとして傍に逝ってやらなければならないのだ。


「本当の本当に聖女なのか?」

「よく言われます」


 どうせ殺されるなら、痛みは長引かない方がいい。

 長々と殺され続けるより、一回でさくっと殺してほしい。きっと、この人も孤児で貧相な聖女なんて厄介者の面倒をみたくないだろう。

 そのことを伝えようと口を開きかけたとき、ウォルターは静かに話しかけてきた。


「なぁ、アキレスって誰だ?」

「弟です」

「だったら、その弟に会いに行け」


 ウォルターは近くの木椅子に腰を下ろした。腕を組み、少し身体を前に傾けると、おもむろに目を閉じる。


「これから、オレは、うっかり寝る。なにがあっても気づかない」


 ウォルターは、目をつむったまま話し続ける。


「これは、寝言だ。

 『聖女様の役に立ちたい』という侍女がいる。玄関で旅支度をして待っている。そいつに、弟のところまで案内してもらえ。んで、一緒に国外に脱出しろ。そこまですれば、王家の奴らも追ってこないさ」

「ずいぶんと長い寝言ですね。

 ……安心してください。弟は、もういませんから」


 ウォルターは目を閉じたままだった。口を固く結び、ぴくりとも動かない。

 イーディスは口元に微笑を浮かべた。笑える状況じゃないのに、なぜか笑いが込み上げてくる。


「最初に言いましたよね。行く場所も戻る場所もないって」


 ここで、イーディスは自分の失態を悟った。

 馬車で襲われたとき、逃げずに命を絶つべきだったのだ。


「私なんて……生きていても、役に立ちませんから」

「それは嘘だ」


 ウォルターの目が開いた。鷹のように鋭い双眸が、こちらを捕らえている


「死にたくないから、野盗から逃げ出したんだろ?」

「それは……」

「だったら、オレも言ってやる」


 ウォルターは乱雑に立ち上がると、こちらに近づいてくる。そのまま武骨な手を伸ばしてきた。イーディスは避けようとするが間に合わない。イーディスの身体は倒れ、ウォルターが圧しかかってきた。間近に迫った顔と閉塞感に息を飲んだ。


「ああ、確かに聞いたさ。どこにも行き場所がないって。だったら、これから生きる理由を作ればいいだろ」


 赤い瞳の奥が、さらに赤く燃えるようにちらちら輝いている。


「悔しくないのか? 見返してやりたいって思ってないのかよ!?」


 イーディスは激情をぶつけられ、どくん、と心臓の鼓動を感じた。


 悔しくない、といったら嘘になる。

 あれだけ頑張ったのに、ねぎらいの言葉もなかった。

 結果が出せなかったのだから仕方ないけど、お疲れ様の一言くらい欲しかった。しかも、用が済んだら厄介払いなんて、こんなの酷すぎる。


「だいたい、死にたいなんて口にするんじゃねぇっての。

 お前がいなければ、坊主は売り飛ばされてた。あいつが助かったのは、これまで積み上げてきた努力のおかげだろ? イーディスは役立たずなんかじゃない」


 聖女になってから、聞きたかった言葉が初めて聞こえた。


 黒い靄に覆われた世界が晴れ渡り、色彩を帯び始める。

 ベッドに押し倒されているのに、人を噛み殺してしまいそうな凶悪な顔が目の前にあるはずなのに、胸の奥がポカポカする。


「私、は……」


 イーディスは、震える唇を開いた。


「悔しい」


 やっとの思いで言葉を絞り出す。


「私だって、役に立てるってことを……証明したい」


 泣いては駄目だ、と思うのに。

 悔しさが洪水のようにこみあげてくる。ひっきりなしに嗚咽が漏れ、涙がぽたぽたとシーツを濡らした。


「ああ、いいぜ」


 彼の目が一層物騒な光を放った。


「オレが、協力してやる。奴らを見返して、辛気臭い顔を吹き飛ばして笑えるようにしてやる」


 彼はにたりと笑うと、身体を退けた。


「イーディス、今日は休め。明日から、あんたを幸せにしてやるからさ」


 凶悪な顔とは似つかわしくない柔らかい声で言うと、部屋を去っていった。


 イーディスは一人、横になっていた。

 窓から月光が差し込み、殺風景な部屋を静かに照らしている。


「アキレス、ごめんね」


 誰もいない空間に、ぽつりと呟いた。

 深い藍色の空には、半分かけた月が浮かんでいる。



「もう少し、逝くのが遅くなるよ」


 半身を失った自分に言い聞かせるように、静かな決意を口にする。

 決意を言葉にすれば、無意識に張り詰めていた緊張が解かれていくのが分かった。

 イーディスの意識は、すぅっと幕を引くように遠くなっていった。

 そして、そのまま眠りに落ちる。



 今度は、夢を見なかった。












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― 新着の感想 ―
[一言] 大切な弟を物のように扱われて取られて、自分も物のように扱われて殺されかけてだけど、見返すんじゃなくて役に立てるって証明するって言うイーディスたんに感動する自分と兄貴マジ男前押し倒されたい幸せ…
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