3話 ツノのある青年
濁流に流されて、どれくらいの時間が過ぎたのか?
「風の鎧があってよかった」
イーディスは川辺に打ち上げられると、力なく笑った。
風の防御がなければ、荒れ狂う波に身体を壊されていたところだった。
「……逃げないと」
落下したときよりも、空はだいぶ明るみを帯びている。
ここで寝転んでいたら、自分を殺そうとしてきた連中が追ってくるかもしれない。
まだ、死にたくない。
死ぬのはこわい。
イーディスは、その一心で足に鞭を打つ。
よたよたとふらつく足で、手近の森に向かって歩き出した。とにかくここから離れて、少しでも人のいる場所に行きたい。ちょっと大きな街に行けば、人に紛れて逃げ切るかもしれない。
いずれにせよ、このまま留まっていては見つかってしまう。
旅の途中に「なにかを追跡するなら人通りの少ない森の方が痕跡が残りやすくて辿りやすい」と習ったことを思い出しながら、イーディスは足を進ませ続けた。
「……はぁ……はぁ……」
ところが、思うようにいかない。
先に進みたいのに、一歩一歩が重くてたまらないのだ。
足を前に出すたびに、身体がぐらりと斜め前に傾く。喉もひりひりと張りついてしまうくらい乾いている。お腹だって、何度なったことか分からない。ああ、つらい。ここで、足を止めてしまいたい。ひんやり冷たい地面に横になってしまいたい。
「それでも……わたし、は……」
先に進む。
気持ちは前に向かっているのに、足は重くなるばかり。気のせいだろうか? 太陽がとっくに昇り、空はすっかり青く染まっているのに、イーディスの視界は端から暗くなり始めている。
なんか、おかしい。
それでも、前へ、前へ。
「……あっ」
右足が木の根にとらえられ、身体が大きく傾いた。これまでなら、なんとか踏みとどまることができたのに、左足にまったく力が入らない。
このまま、なすすべもなく転んでしまう。
せめて、両手で身体を支えなければ! と思うのに、腕は鉛のように動いてくれない。
数秒後に迫る痛みと急速に接近する地面から目を背けるように、イーディスは瞼を閉ざした。
「――ッ、危ない!」
しかし、痛みは襲ってこなかった。
代わりに感じたのは、右腕を引っ張り上げる強い力だった。
「しっかりしろ、大丈夫か!?」
荒々しい声と肩をゆすられる感覚に、イーディスは重たい瞼を開ける。
「……あ……」
ぼんやりと、自分を覗き込む青年を見つめ返した。
見上げるほどの大男だった。大男といっても、愚鈍な感じではなく、例えるのなら大型犬だ。動きが俊敏で狙った獲物は逃がさない大型の狩猟犬のような青年である。見ようによってはカッコいいが、どちらかといえば、厳つくて怖い顔立ちをしていた。荒々しい黒髪の隙間から見え隠れしている小さな角も、青年の恐ろしさを引き立てる。
その見た目は、まるで魔族のようでもあった。
「よかった、意識はあるみたいだな」
恐ろしい容貌の青年は太陽を背負い、心からの笑顔を浮かべた。額の角も顔立ちの恐ろしさもなにもかも忘れさせるほど暖かい表情を見て――イーディスは直感した。
ひとまずは、助かったのだと。
「ぼろぼろじゃねぇか。一体、なにがあった?」
青年はイーディスを木の根元に座らせると、目線まで屈んだ。さっきまでの笑顔はかけらもなく、どこかおっかない表情をしている。
しかし、いくら見た目が怖くても逃げ出したいと思わないのは、彼のまとう雰囲気のおかげだろうか?
「わ……わた……し……は」
イーディスは答えようと口を開いたが、掠れたような声しかでなかった。
「ん? 喉が渇いてるのか。ほら、水だ」
「でも……」
「いいから、飲め!」
イーディスは青年から水筒を受け取ると、戸惑いながら口に含んだ。レモン水のように、少しだけさっぱりした感覚が鼻を抜けていく。干からびていた喉は待ってましたとばかりに潤い、申し訳ないから一口だけだと考えているのに、二口、三口と飲んでしまう。水筒の三分の一ほどを飲み干してしまったが、身体が脱皮して生まれ変わったような感覚に、たまらずほっと息をついた。
「ありがとうございます……すみません、たくさんいただいてしまって」
「礼はいらねぇよ。それより、こんなところでなにしてる? ここは、迷いの森だぜ?」
「迷いの森?」
「ま、森のはずれだけどな。まさか、ここがどこなのかも知らなかったのか?」
青年の問いかけに、イーディスはこくりと頭を下げる。
それから、イーディスは馬車が何者かに襲われ、命からがら逃げだしてきたことを話した。
青年は怪訝そうな顔で聞いていたが、イーディスが一通り話し終えると大きく頷いた。
「……大変だったな、よく頑張って逃げた」
偉いぞ、とでも言うように、ぽんぽんっと頭をなでてくる。
イーディスはしばらくぽかんとした呆けてしまったが、暖かい手と優しい感覚や「頑張ったな」というねぎらいの言葉が心にゆっくりと沁み込むにつれて、心がいっぱいになって目元が潤むのを感じた。
「あ、悪い! 嫌だったか!? ごめんな、ガキ扱いしたつもりじゃなかったんだ」
青年はイーディスが泣き出しそうなことに気づくと、弾かれたように手を引く。
別に、子ども扱いされたことが嫌だったわけではないと主張したかったが、数年ぶりに心に満ちたこの感情を表す言葉が思いつかず、ふるふると首を振るのがやっとだった。
「あー、それで、家はどこだ? 送ってやるよ。いつまでも、ここにいるってわけにはいかねぇし」
「その……」
「自分は聖女で、ハイランド辺境伯領に移送される途中だった」と言葉にしようとして、イーディスは口を閉ざしてしまう。
これは、恐ろしい辺境伯から逃げる絶好の機会だ!
青年はイーディスが聖女だと気づいていないし、身分を隠して逃げることができれば――すべてのしがらみから解き放たれ、本当に意味で自由になれるかもしれない。
ここで、イーディスは青年の姿をもう一度見る。彼は濃い緑の軍服をまとっていた。勲章の類は見当たらないし、階級章もつけていないが、濃い緑の軍服は辺境伯領が着る制服のだと聞く。
少しでも言葉を間違えれば、青年はイーディスを聖女だと見抜き、主人のもとへ連れていく。
だから、嘘をつかないといけない。
それなのに――、
「帰る家は、ありません」
イーディスは、どうしようもない真実を口にしていた。
「新しい家に連られる途中だったんですけど、行きたくありません」
イーディスは、スカートの裾をぎゅっと握りしめた。
「馬鹿正直に何を言っているのだ」と怒る自分がいたが、震える口からは真実が零れてしまう。それを抑えようとしたが、焦る思考に代わりの言葉を見つけさせるのは至難の業であった。
「もう戻れないし、でも、行く場所もなくて」
「はぁ、仕方ねぇな」
イーディスが言い淀んでいると、青年は面倒くさそうに息を吐いた。
「あんた、ここでずっと座り込んでるつもりか?」
「それは……」
「嫌だろ。なら、どこかへ行くしかない。だから、オレが近くの街まで連れて行ってやる。いいか?」
「は、はい!」
イーディスが縮こまりながら答えると、青年は大きく頷いた。
「申し訳ないとか、考えるんじゃないぞ。そもそも、お前の陰気な顔が気に入らねぇ。
せっかくだ。そんな暗い顔が吹き飛ぶような場所へ案内してやる」
青年は一瞬、底抜けに明るい笑顔を浮かべる。しかし、イーディスが瞬きする間に元のおっかない表情に戻ってしまっていた。
「っと、そういや、名前聞いてなかったな?」
イーディスは戸惑った。
本名を答えるか、それとも偽名を答えるべきか。
イーディスが悩んでいると、彼はもどかしく感じたのだろう。ぐいっと顔を目と鼻の先まで近づけてきた。ただでさえ凶悪な顔が目の前にある。それだけで卒倒しそうなのに、彼は低い声で
「名前は?」
と問いかけてきた。
これには敵わない。イーディスはあっさりと白旗を上げた。
「イーディス」
「んー?」
すると、青年の顔が奇妙に歪んだ。なにかを思い出しているような、不可解な表情だった。
「聖女の名前と同じだな。いいことあるぜ、きっと」
「……」
「オレは、ウォルターだ。よろしくな、イーディス」
青年は尋ねてもないのに自分の名を口にする。
陽気な表情になればなるほど、口元が歪み、その隙間から凶悪な牙が光った。やっぱり怖いと思わないといえば嘘になる。だけど、悪い人でないことは確かだ。
「ほら、行くぞ。立てるか?」
イーディスは立ち上がろうとしたが、これまた不思議なことに、膝が床にくくりつけられたように持ち上がらなかった。何度か試してみたが、うんともすんともいかない。
「足が動かなくて……」
結局、イーディスは申し訳なさそうに笑った。
「仕方ねぇな」
ウォルターはイーディスを軽々と背負った。
「あっ……!」
「無理は禁物だぜ。ま、どうしても嫌なら降ろすけどさ」
「……ありがとうございます」
イーディスは彼の好意に甘えることにした。
いくら喉の渇きをいやしたところで、正直なところ、イーディスは疲れ切っていた。
「近くの街まで着くのは、昼頃ってところか。ま、寝てればいいさ。街に着く頃に起こしてやる」
「ありがとう、ございます」
イーディスは頷いて答えた。
この人の言葉に嘘はない。
若干、薄れゆく意識のなか、イーディスは爽やかな香りに気づく。
甘酸っぱい果物のような爽やかな香り。香水の類だろうか、とぼんやりと考える。
ウォルターの背中は、不思議と安心した。
彼はしっかりとした足取りで、森の出口と思われる場所へ進んでいく。
微かな振動と優しい香りに包まれているうちに、イーディスの瞼は重さは増し始める。
イーディスが夢へ落ちていくまで、時間はかからなかった。




