2話 時には昔の夢でも
次の日。
東の空が白む前、イーディスは馬車に乗せられた。
セドリックたちは、一刻も早く邪魔者を追い払いたいらしい。こちらの支度が出来てなかったら、どうするつもりだったのだろう?
「まあ、私の荷物はないけど」
イーディスはため息をついた。
いまの自分は、正真正銘の無一文。
剣から着ていた服に至るまで、「国庫の財産から貸し与えられたもの」として返却を要求されたのであった。
これは仕方ない。
貧民街出身の聖女の体裁を整えるため、すべて国が用意してくれたものである。
いまの持ち物として、しいてあげるなら、セドリックから渡された花嫁衣裳もとい白い清楚なワンピース。聖女らしいといえば聖女らしいが、飾りもなければ刺繡もない。
それでも、イーディスの手持ちで継ぎはぎやシミもない唯一の服である。
「……はぁ」
イーディスは着る服があるだけマシだと思うように努めたが、だんだんと息が詰まってきた。
結局、なにもできなかった旅に始まり、誰にも見送られることなくハイランド辺境伯のもとに嫁がされる現状を考えると、ただでさえ沈んでいた気持ちが底なし沼にはまったかのように落ち続けてしまうのだ。
馬車には窓はない。灯りもないのでどんよりと薄暗く、ちょっと手を動かしただけで壁に当たるくらいせまっ苦しい。外の音に耳を傾けたくても、早朝すぎるのか聞こえてくるのは馬車が石畳を進む音だけ。
「まるで、棺桶に入れられてるみたい」
イーディスは自嘲気味に呟き、ゆっくり目をつぶる。
早朝のせいか、はたまた日ごろの疲労か、途端に眠気がきて、珍しく夢を見た。
たった一人の家族と寄り添い暮らしていた、貧しくても幸せだった最後の頃を――。
※
父親は覚えていない。
母親は、10歳のとき暴漢に殺された。
それからの日々は、いつも雨模様。
小柄で貧相な身体に鞭を打ちながら肉体労働に励み、生きるために食べ物を調達する。殴られ、馬鹿にされ、蹴られ、ののしられ……母に守られていた間、感じたことのなかった辛くて痛くて悲しい時間ばかり。
だけど、やまない雨はない。
「おねえちゃん、おかえりなさい」
小さな家に帰ると、たったひとりの家族が待っていたから。
「ただいま、アキレス」
イーディスの強張っていた顔は、自然と和らいでいた。
雨雲が途切れ、暖かな陽光が差し込んできたような気持ちになる。
「すぐに夕食を用意するからね」
「ぼくもてつだうよ」
アキレスはそういうと、よろよろとベッドから降りてきた。
アキレスは文句なしに可愛い。
イーディスと同じ青い瞳をしているはずなのに、澄みきった湖面のように穏やかで、きらきらと輝いている。ふんわりとした笑顔は、何時間でも眺めていたいほど可愛らしい。5歳にしては線が細いこともあり、女の子と間違えられたことが幾度となくあった。だから、イーディスはアキレスに可愛い服を着せてあげたくてしかたなかった。……新しい服を買うお金なんてないから、彼の白くて美しい髪を結ったり、そのあたりに咲いてる花で飾ってあげることくらいしかできないけど。
「それじゃあ、お椀を用意してくれる?」
「うん!」
アキレスは二つ返事で頷くと、小枝のように細い手でお椀を運び出す。
よいしょ、よいしょと身体を揺らしながら運ぶ姿を横目で見ながら、イーディスはスープの準備をする。豆と野菜の切れ端がちょっぴり浮かんだスープは、我が家の定番メニュー。具材の量はその日の収穫で変容するが、調味料なんて贅沢品は一切入っていないし、硬い野菜が柔らかくなるまで煮込めるほど火を焚けないので、どう考えても不味い。
だけど、アキレスは喜んで食べてくれる。
「おねえちゃん、今日もおいしい!」
アキレスの屈託のない笑顔は、イーディスの心を優しく照らした。
「ありがとう、アキレス」
アキレスは異父弟で、血のつながりは半分しかない。
イーディスの父親が死んだあと、母が下働きをしていた家の人との間にできた子なのだ。母はその人と結婚することなく、仕事を辞めてから、アキレスを一人で産んだ。そして、アキレスが乳離れをした直後、母は死んでしまった。
可愛そうなアキレス。
彼を守れるのは、姉の自分しかいない。
イーディスは、一足早く大人になるしかなかった。
でも、後悔はない。
「食べ終わったら、お風呂に入ろうか」
「おふろ!」
「うん、石鹸が手に入ったんだ」
「やったー!」
アキレスはふんふんと鼻歌を鳴らしながら匙を動かす。
イーディスは頬杖を突きながら、愛しい弟の顔を眺めた。
この笑顔を守れるなら、明日も頑張れる。
どんな辛いことだって、痛いことだって、乗り越えられる―――そんな気がした。
いまはもう、イーディスの弟はいない。
※
「……ん」
イーディスはあたりの静かさに目を覚ます。
馬車の揺れはおさまり、馬のいななきすら聞こえてこない。
「ついたの?」
自分で口にしてから、それはないと否定する。
さすがに花嫁が到着したというのに出迎えの声がないというのは、いくらなんでも不自然すぎる。
では、御者と騎馬が交代しているのだろうか?
それもない、と考察する。
王都を経ってから、何日たったのか……宿にすら泊らず、まっすぐハイランド辺境伯領を目指していたが、これまでに何度も御者と騎馬の交代はあったし、トイレ休憩もあった。
そのときは、御者が一声かけてくれる。
「あの、なにかありましたか?」
声もかけずに、長らく止まっているなんて不自然の極み。
イーディスは、馬車の扉を思いっきり開けてみることにした。
「……夜?」
ひょいっと扉から身体を出し、辺りを見渡してみる。
夜の闇は深く、ひっそりあたりを包み込んでいた。月も雲で隠れているのか、数歩先すら見ることが難しい。それでも、御者どころか、馬がいる気配すらしないことだけは分かった。
「おかしいな。これって……?」
馬車から降りて、馬がいるはずの方へ足を向けた直後――、背筋に鋭い悪寒がはしる。なんだろうと振り返った瞬間、物騒な赤い閃光が目の前に飛び込んできた。
「――ッ!?」
イーディスは弾かれたように地面を蹴ると、少しでも前へ滑り込んだ。間一髪、火の玉が頭上すれすれを通り過ぎ、そのまま棺桶のような馬車に激突する。火の玉は馬車に拳大の穴をあけたかと思えば、轟音と共に瞬く間に燃え上がった。
「っち、外した」
ごうごうと燃える炎が灯りとなり、周囲を薄っすら照らしだす。
イーディスの視線の先には、夜の闇に紛れ込みそうな黒い外套姿の人が三人いた。一人は赤い宝珠のついた杖を握り、二人は剣の切っ先が炎に照らされ、ちらちらと怪しげに輝いている。
「なにも分からぬうちに死んでもらう予定だったが……仕方ない」
「ここで始末する」
イーディスが唖然としている間に、剣を持った二人が駆けだす。
「な、なんで、こんなことに!」
イーディスは急いで走り出した。
とにかく彼らから距離をとるように、懸命に足を動かす。状況が全く分からない。御者も騎馬いない理由もわけわからないが、ここにいたら死ぬことだけは理解できる。
「逃がすか!」
背後から、連続で打ち出される赤い魔法弾。
イーディスは無我夢中で暗闇のなかを走った。身体すれすれを通り過ぎていく火の玉を感じながら、必死に頭を働かせる。
ここで、あいつらと戦う?
まず無理だと、すぐに断定した。
鉄製の馬車に悠々と大穴を開けた魔法弾を放つ相手に、魔法勝負を挑むのは無謀すぎる。どんな防御魔法を構築したところで、突き破られてしまうのがオチだ。
剣さえあれば勝ち目もあったかもしれないが、王都で没収されてしまっている。
「はぁ……はぁ……なにか、なにか……っ、あ」
そのとき、イーディスが見たのは更なる絶望だった。
なんとかかわし続けてる火の玉が、イーディスの進む先を残酷にも照らし出す。
「み、道がない……!?」
道が途絶えてる。
イーディスの進む道が先細り、ついには途絶えてしまっているのだ。向こう側に森が広がっているのがかろうじて見えるが、肝心な橋がどこにもない。しかし、引き返すとしても、イーディスの後ろからは容赦ない足音が迫っている。
立ち止まったら殺されるし、引き返しても殺される。
「くそったれ――!」
となれば、選択肢はない。
聖女らしからぬ叫びをあげると、イーディスは全力で走り続けた。どんどん狭くなる道を駆け抜け、そして――一思いに、崖から身を投げた。
「なっ!?」
「と、飛び降りだと!?」
耳元で風を切る鋭い音に混じり、誰かの驚く声が聞こえた気がする。でも、その声を認識するよりも早く、イーディスの身体は瞬く間に落下する。腕を顔の前で交差させ、身体を粉々にする勢いで吹きつけてくる風から守りながら、閉じてしまいたくなる瞼を一心に開いた。
峡谷に地上の灯りは届かない。
月も星も隠れた夜空は、地表を照らしてくれない。
イーディスに見えるのは、震えてしまいたくなるような真っ暗闇。
果てしない落下の後に、なにが待ち受けているのか――まるで分からなかった。
「――っ、こうなったら」
イーディスは咄嗟に、両手を前に突き出した。
「『風よ、我を守る鎧となれ』!」
手のひらからありったけの魔力を放出すると、うずまく風を巻き込んでいった。風の鎧が頭のてっぺんからつま先まですっぽり覆いつくした頃、イーディスは目の前に広がる暗闇が波打ったことに気づく。
荒々しい揺らぎの正体を認識するよりも早く、黒い波はイーディスを簡単に吞み込むのだった。