4.王家の馬車が迎えに来ました
七日後の早朝、迎えの馬車がやってきた。
平凡な構えの仕立て屋の前に停まったのは、王家の紋章が描かれた豪華な馬車だ。
馬車の周囲を黒い制服の近衛騎士団が囲み、そのさらに外側を白いローブの神殿騎士団が護衛している。
この大きな街でも、こんなに厳重な警備は見たことがない。
そして、その馬車から降りてきたのは、なんと、国王陛下その人だった……。
「渋くて素敵……」
「陛下、すごくかっこよくない?」
「……愛妾になりたいかも……」
モーリーンを見送りに来た若い娘たちや、近所の奥様たちが遠巻きにして国王陛下を見つめている。
ひそめたささやき声は意外とこちらまで聞こえてきて、護衛騎士かお付きの人にとがめられるのではないかとはらはらした。
レクトマリア神聖王国、国王オルヘイム二世。
我が国の国王陛下は五十歳を過ぎているとは思えないほど若々しかった。
現役の騎士にも劣らない鍛えた体に鋭い目つき。黒褐色の短髪にはわずかに白いものが見える。
余裕のある微笑みが大人っぽくて、わたしの横に立つモーリーンもぼうっと見とれているのがわかった。
「聖女殿、お迎えに参りました。王都の大神殿まで、私がお送りしましょう」
腰に響くような低く艶のある声だった。
「……失敗した」
モーリーンが口の中でぼそりとつぶやき、悔しげに小さく舌を打った。
* * * * *
現実とは思えない。
ずっと夢の中にいるような気分だった。
わたしは国王陛下と同じ馬車に乗り、王都へと向かった。王都までは立派な馬車でも数日はかかるらしい。
途中まで付き添ってきた東方神殿の神殿長や神官たちは、わたしをとても丁寧に扱ってくれた。
貴族のようなドレスが用意されていて、女性の神官が着替えさせてくれる。新しい服だけでなく、食べたことのない豪華な食事に立派な宿屋。
陛下もずっと優しくて、体調を気遣う声をかけてくれる。
「王都にはあと二日ほどで到着するだろう。聖女殿、疲れてはいないか?」
まるで宮殿みたいな大きな建物が今夜の宿泊先だ。背の高い門扉を通り抜けて、さらに玄関まで馬車で走る。
ここは王家の所有する離宮の一つなのだという。
今は夕暮れ時で薄暗くてあまり見えないけれど、自然のままの風景を生かして建てられた離宮で、よく手入れのされた林や花畑に囲まれていると陛下が教えてくれた。
「ここで二、三日、休んでいこうか」
「……陛下、どうぞお気遣いなく……。わたしは大丈夫ですから」
「聖女殿は本当に無欲だな。どうか私にはもっとわがままを言ってほしい」
「…………」
それは、わたしがマリアーナで、本物の聖女ではないからだ……。
「聖女様」「聖女殿」と恭しく呼ばれるたびに、罪悪感に押し潰されそうになる。
「聖女殿、あなたは何か悩んでいるようだ。私ではあなたの憂いを払うことはできないだろうか」
離宮の一室のソファーで食事の支度が整うのを待っていると、陛下がわたしの隣に腰を下ろした。
膝に置いていたわたしの手にそっと自分の手を重ね、伏せた目をのぞきこんでくる。これまでもたまにこうして体がふれるほど近くに座ることはあったが、手を握られたのは初めてだ。
焦って手を引こうとしても動けない。陛下の力のほうが強い。
陛下の瞳の中に、ふと炎のようなものが揺らいだ気がした。
「私はあなたの願いなら、なんでも叶えて差しあげたいと思っている」
「陛下……わたしは願いなんて、何も」
陛下は深いしわの刻まれた頬に、優しい笑みを浮かべた。
「謙虚な方だ。あなたは国にただ一人の聖女なのだ。あなたの前に、私をひざまずかせることだってできるのだよ? ……このように」
そして、わたしの手を握ったまま椅子を下り、わたしの前に騎士のように片膝をついてひざまずく。
「へ、陛下! おやめください。わたしのような平民にそんな……!」
「平民も王も、愛を乞う気持ちに変わりはないだろう」
「あ、愛……?」
「聖女殿。愛しいひと。初めてあなたを見た時から、私はあなたの虜になってしまった。この数日あなたと過ごして、この気持ちが一時の気の迷いではないと確信した」
陛下が……この国を治める君主が、今度は見間違えようがないほど熱い瞳で、わたしを見つめている。
「あなたの心を曇らせるものはすべて取りのぞこう。美しい宝石や華やかな音楽で、あなたの人生を彩ろう。だから、あなたの愛を私に与えてほしい。私の聖女、モーリーン」
その時、思いもしなかった告白に慌てふためいていた気持ちが、すっと冷めた。
そう、わたしは『聖女モーリーン』。
こうして愛を語られ大切にされているのは、仕立て屋の姉娘マリアーナではない。
わたしはあくまで身代わりの聖女なのだ。
そして、聖女の真実。
聖女は国のために、王に身を捧げる……。
陛下が何を欲しようと、わたしが何を思おうと、聖女の初夜権はこのひとにある。
それは変わらない。変えることができない運命。
ただ、こうして気慰みでも愛を口にしてくれる陛下は、思ったより親切なのかもしれない。
「陛下……、聖女の、その……力については、神殿で聞きました。覚悟はしております。だから、そのようなことは仰らないでください。お妃様がお可哀想です」
わたしを熱心に見ていた陛下は、きょとんと目を見開いた。そして、こらえきれないというように笑い出した。
「妃が? ははは、妃が可哀想か。あなたは可愛らしいうえにおもしろいひとだ。……私は本当にあなたを手放せなくなりそうだよ」
陛下は立ちあがり、再びソファーの横に座ると、わたしを軽く抱きしめる。
「妃は妃、聖女は聖女だ。比べられるものではない。心配しなくても、私の愛は減るものではない」
「…………」
「モーリーン、せめて陛下ではなく、オルヘイムと呼んでくれないか?」
「それは……恐れ多くて……」
わたしがうつむくと何か勘違いしたのか、「恥ずかしいのか? まあ、徐々に慣れればよい」と陛下が甘い声でささやいた。
聖女モーリーンだと誤解されたまま、マリアーナは国王から口説かれてしまいました。
次回「白い月の輝く夜に」。
罪悪感に苦しむマリアーナの前に現れたのは――。